- Hans Lewy, "Aristotle and the Jewish Sage according to Clearchus of Soli," Harvard Theological Review 31 (1938), pp. 205-35.
以下かなり長文かつ、途中から話の流れが分かりづらくなるが、それは筆者がまだ論文の内容を完全には消化しきれていないためである。ここではとりあえずのまとめを残しておきたい。
(I)ヨセフスは『アピオーンへの反論』1.177-81において、逍遥学派哲学者であるソリのクレアルコスがユダヤ人に言及している箇所を引用している。クレアルコスの著書『眠りについて』の中では、彼の師匠であるアリストテレスがあるユダヤ賢者と出会い、哲学的な議論をした場面が描かれている。ヨセフスはここでの彼らの議論がどのようなものであったかまでは引用していないので、その内容はよく分からない。ヨセフスの意図はただ、ユダヤ人が古くから教養あるギリシア人とつきあいがあったことを示すことで、ユダヤ人が新しい民族であるというアピオーンの主張に反論することだった。引用から分かることはただ、アリストテレスがこのユダヤ賢者の「不思議な性質と哲学」を称えており、なおかつ「何らかの驚くべき夢のようなこと」を学んだということである。
ところで、新プラトン主義者であるプロクロスもまた、『プラトン「国家」注解』の中で、クレアルコスの『眠りについて』を引用している。そこには、眠っている子供から魂を引き出す実験をした魔術師の逸話が残されている。論文著者(および先行研究者ら)は、この魔術師こそ、ヨセフスの引用でアリストテレスと会ったユダヤ人その人であると指摘する。論文著者は、この推論をもとに、不明な点の多いヨセフスの引用におけるユダヤ人を、プロクロスの引用における魔術師の描写から解き明かしていく。
そこで論文著者が注目するのが、プロクロスの引用における、肉体から解き放たれた魂の議論である。魂がどのように肉体から解き放たれるのかというのは、プラトンの時代からの議論であった。そして、眠りは、魂が本来のかたちを取り戻すひとつの契機であると考えられていた。それゆえに、ヨセフスの引用におけるアリストテレスとユダヤ人とが交わした哲学的な会話にも、この眠りと夢に関する事柄があったかもしれないと論文著者は考える。ヨセフスの引用における「何らかの驚くべき夢のようなこと」という記述もこれを暗示している。
ただし、本来ならば、こうした催眠術師のような存在と、通常の理解でのユダヤ人のイメージとは相いれないものであるはずである。しかし、論文著者は、ユダヤ人の起源に関するクレアルコスの見解をもとにこの矛盾を説明しようとする。ヨセフスの引用において、クレアルコスはユダヤ人がインドの哲学者の末裔であると説明している。すなわち、インドにおいては哲学者は「カラノス」と呼ばれ、シリアにおいては「ユダヤ人」と呼ばれていたというのである。このカラノスとはインドの裸形者たちのことであり、あるカラノスがアレクサンドロスの東方遠征において、王の前で自らを火の中に投じたことが知られていた。またギリシアではこのカラノスたちは、東方における他の宗教共同体と関連付けられていた。それゆえに、クレアルコスは他の著作において、裸形者たちがゾロアスター教におけるマギの末裔でもあると説明している。そして、これらマギたちは、魂の不死性を信じていることが知られていた。いうなれば、ユダヤ人もまたこれら東方の聖職者たちの間接的な末裔であると見なされていたので、ユダヤ人が魂の不死性を信じる催眠術師であるという同一視も成り立つわけである。
ヨセフスがアリストテレスとユダヤ人との邂逅において、催眠術師のくだりを省いたのは、それがギリシア人の目から見てばかばかしく見える可能性があるからで、一方で、プロクロスが魔術師のくだりでその正体がユダヤ人であることを隠したのは、アリストテレスと議論したという名誉をユダヤ人に与えるのを惜しんだからであると考えられる。
(II)ただし、ヨセフスの引用において、このユダヤ人は「言語においてのみならず、魂においてもギリシア人であった」とも描写されているが、それはなぜなのか。論文著者は、これをクレアルコスの執筆意図から説明しようとする。クレアルコスの『眠りについて』は、アリストテレスを主人公にしたプラトン的な対話文学である。論文著者は、この作品をプラトン『国家』第10巻と比較する。プラトン『国家』は、有名な知恵の教師が出てきて、魂が実在することを証明するために、奇妙な神話的・寓話的な体験をするという新しい文学形式となっていた。プロクロスの魔術師と同一視されうる、クレアルコスにおけるユダヤ人も、こうした対話文学における登場人物の中に組み込まれるのである。
ただし、以下の2点には注意すべきである:後代のプラトン主義者たちが創作した、この文学形式の作品の中で、奇妙な体験をするのはギリシア人であるのに対し、プラトン『国家』それ自体とクレアルコス『眠りについて』では、バルバロイがそうした体験をしている。また他の作品では、語り手が他の人に起こったことを語っているのに対し、クレアルコスでは語り手としてのアリストテレスが自分自身に起こったことを語っている。
クレアルコスは、プラトン以来のギリシア知識人の例にもれず、主として正確な知識を欠いているがゆえの憧れから、親オリエント的傾向を持っており、それは同時に親ユダヤ人的傾向にもなっていた。ただし、ユダヤ人に関する知識が極めて限られていたがゆえに、彼らを独立した人種と見なさず、ペルシアにおけるマギやインドにおけるブラフマンのように、シリアにおける祭司集団だと見なしたのだった。そして、そうした祭司階級への高い評価から、クレアルコスは、ユダヤ人を神学や天文学に生涯を捧げる哲学的なセクトの一員と信じたのである。
こうしたギリシア人のオリエント趣味は、初期ヘレニズムの文学作品に大きな影響を及ぼしている。特に、ギリシア賢者の伝記文学においては、タレスやピタゴラスらがオリエントに行って東方の賢者たちから知恵を授かるという形式が好まれた。アリストテレスの弟子であるタレントゥムのアリストクセノスは、ソクラテスがインド人と出会う物語を書いた。また実際にインドに行ったとされるメガステネスはインド思想について著述を残しており、なおかつ哲学はインド人にもユダヤ人にも昔から知られていたと書いている。アリストクセノスのような文学の流行と、メガステネスによるインド人とユダヤ人との共通性とから、クレアルコスはユダヤ人をインド人の末裔としたのかもしれない。
(III)いうなれば、クレアルコスのユダヤ人は、現実のユダヤ人ではなく、作家の想像力による創作の中の人物である可能性が高い。ところ、ヨセフスは182節において最後にユダヤ人が「驚くべき自制心と節制」について語ったと、結論めいたものを述べているが、そこからは、ヨセフスが引用しているクレアルコスの記述には続きがあり、そこにはユダヤ教の食餌規定などの決まりが書かれていたことがうかがわれる。しかし、それをヨセフスが省いたのは、おそらく実際のユダヤ人から見るとやや都合の悪いことが書かれていたからであり、ギリシア人を超えたユダヤ人のイメージを植え付けようとしていた彼の意図にそぐわなかったからかもしれない。
ところが、論文著者は、この省略部分には、むしろ禁欲主義と眠りとの関係が書かれていた可能性を指摘する。新プラトン主義者のオリュンピオドロスは、『プラトン「パイドン」注解』の中で、アリストテレスがある男と会った物語を語っている。それによると、その男はまったく眠ることがなく、また太陽のような空気のみを糧としているという。この描写はいかにもプラトン的かつピタゴラス的なものである。「太陽のような空気」とはエーテルのことに違いない。またエーテルのみを糧にする禁欲的な生活をすることで、不死なる魂を清浄に保とうとしている。この魂の不死性という考え方は東方の賢者たちに共有されていたもので、彼らと比較されていたユダヤ人も当然持っているものとされていた(ヘルミッポス)。もしこのようなことが書かれていたならば、ヨセフスはやはりこれをあまりに馬鹿げているとして省かなければならなかった。
(IV)クレアルコスは、このように当時の文学的流行やステレオタイプなどをもとにユダヤ人を描いているため、あまり批判的な目を持っていない。彼の作品のテーマは、友情、動物、格言、なぞなぞ、性的なもの、プラトンの称賛など多岐に渡っており、文字通りさまざまなテーマを逍遥してはいる。しかし、また聞きをもとにした紋切り型の作品ばかりなので、アリストテレス的な経験主義に基づいた批判精神には欠けている。むしろ、クレアルコスのテーマはプラトンの弟子であるスペウシッポスなどと共通の要素が見受けられる。またピタゴラス主義の影響も多大である。こうしたことから、よく言えば、クレアルコスはプラトンとアリストテレスの教えの矛盾を調和させようとした最初の者たちのうちの一人であるともいえる。
(V)魂が肉体から分離可能であると考えたプラトンに対し、アリストテレスは肉体と、それと共に死ぬ魂との不可分な調和を説いた。すると、魂を肉体から引き出す魔術師の話を語る、クレアルコスのアリストテレスは実は完全なるプラトン主義者になってしまっている。むろん、この逸話自体は、プラトンが死んでアリストテレスがアカデミアを去り、小アジアにいた時代なので、まだプラトンの影響下にあったということもできる。が、やはりクレアルコスは意図的にアリストテレスの権威を用いてプラトンの説を正しいものとして描こうとしていると考えられる。
ところで、新プラトン主義者であるプロクロスもまた、『プラトン「国家」注解』の中で、クレアルコスの『眠りについて』を引用している。そこには、眠っている子供から魂を引き出す実験をした魔術師の逸話が残されている。論文著者(および先行研究者ら)は、この魔術師こそ、ヨセフスの引用でアリストテレスと会ったユダヤ人その人であると指摘する。論文著者は、この推論をもとに、不明な点の多いヨセフスの引用におけるユダヤ人を、プロクロスの引用における魔術師の描写から解き明かしていく。
そこで論文著者が注目するのが、プロクロスの引用における、肉体から解き放たれた魂の議論である。魂がどのように肉体から解き放たれるのかというのは、プラトンの時代からの議論であった。そして、眠りは、魂が本来のかたちを取り戻すひとつの契機であると考えられていた。それゆえに、ヨセフスの引用におけるアリストテレスとユダヤ人とが交わした哲学的な会話にも、この眠りと夢に関する事柄があったかもしれないと論文著者は考える。ヨセフスの引用における「何らかの驚くべき夢のようなこと」という記述もこれを暗示している。
ただし、本来ならば、こうした催眠術師のような存在と、通常の理解でのユダヤ人のイメージとは相いれないものであるはずである。しかし、論文著者は、ユダヤ人の起源に関するクレアルコスの見解をもとにこの矛盾を説明しようとする。ヨセフスの引用において、クレアルコスはユダヤ人がインドの哲学者の末裔であると説明している。すなわち、インドにおいては哲学者は「カラノス」と呼ばれ、シリアにおいては「ユダヤ人」と呼ばれていたというのである。このカラノスとはインドの裸形者たちのことであり、あるカラノスがアレクサンドロスの東方遠征において、王の前で自らを火の中に投じたことが知られていた。またギリシアではこのカラノスたちは、東方における他の宗教共同体と関連付けられていた。それゆえに、クレアルコスは他の著作において、裸形者たちがゾロアスター教におけるマギの末裔でもあると説明している。そして、これらマギたちは、魂の不死性を信じていることが知られていた。いうなれば、ユダヤ人もまたこれら東方の聖職者たちの間接的な末裔であると見なされていたので、ユダヤ人が魂の不死性を信じる催眠術師であるという同一視も成り立つわけである。
ヨセフスがアリストテレスとユダヤ人との邂逅において、催眠術師のくだりを省いたのは、それがギリシア人の目から見てばかばかしく見える可能性があるからで、一方で、プロクロスが魔術師のくだりでその正体がユダヤ人であることを隠したのは、アリストテレスと議論したという名誉をユダヤ人に与えるのを惜しんだからであると考えられる。
(II)ただし、ヨセフスの引用において、このユダヤ人は「言語においてのみならず、魂においてもギリシア人であった」とも描写されているが、それはなぜなのか。論文著者は、これをクレアルコスの執筆意図から説明しようとする。クレアルコスの『眠りについて』は、アリストテレスを主人公にしたプラトン的な対話文学である。論文著者は、この作品をプラトン『国家』第10巻と比較する。プラトン『国家』は、有名な知恵の教師が出てきて、魂が実在することを証明するために、奇妙な神話的・寓話的な体験をするという新しい文学形式となっていた。プロクロスの魔術師と同一視されうる、クレアルコスにおけるユダヤ人も、こうした対話文学における登場人物の中に組み込まれるのである。
ただし、以下の2点には注意すべきである:後代のプラトン主義者たちが創作した、この文学形式の作品の中で、奇妙な体験をするのはギリシア人であるのに対し、プラトン『国家』それ自体とクレアルコス『眠りについて』では、バルバロイがそうした体験をしている。また他の作品では、語り手が他の人に起こったことを語っているのに対し、クレアルコスでは語り手としてのアリストテレスが自分自身に起こったことを語っている。
クレアルコスは、プラトン以来のギリシア知識人の例にもれず、主として正確な知識を欠いているがゆえの憧れから、親オリエント的傾向を持っており、それは同時に親ユダヤ人的傾向にもなっていた。ただし、ユダヤ人に関する知識が極めて限られていたがゆえに、彼らを独立した人種と見なさず、ペルシアにおけるマギやインドにおけるブラフマンのように、シリアにおける祭司集団だと見なしたのだった。そして、そうした祭司階級への高い評価から、クレアルコスは、ユダヤ人を神学や天文学に生涯を捧げる哲学的なセクトの一員と信じたのである。
こうしたギリシア人のオリエント趣味は、初期ヘレニズムの文学作品に大きな影響を及ぼしている。特に、ギリシア賢者の伝記文学においては、タレスやピタゴラスらがオリエントに行って東方の賢者たちから知恵を授かるという形式が好まれた。アリストテレスの弟子であるタレントゥムのアリストクセノスは、ソクラテスがインド人と出会う物語を書いた。また実際にインドに行ったとされるメガステネスはインド思想について著述を残しており、なおかつ哲学はインド人にもユダヤ人にも昔から知られていたと書いている。アリストクセノスのような文学の流行と、メガステネスによるインド人とユダヤ人との共通性とから、クレアルコスはユダヤ人をインド人の末裔としたのかもしれない。
(III)いうなれば、クレアルコスのユダヤ人は、現実のユダヤ人ではなく、作家の想像力による創作の中の人物である可能性が高い。ところ、ヨセフスは182節において最後にユダヤ人が「驚くべき自制心と節制」について語ったと、結論めいたものを述べているが、そこからは、ヨセフスが引用しているクレアルコスの記述には続きがあり、そこにはユダヤ教の食餌規定などの決まりが書かれていたことがうかがわれる。しかし、それをヨセフスが省いたのは、おそらく実際のユダヤ人から見るとやや都合の悪いことが書かれていたからであり、ギリシア人を超えたユダヤ人のイメージを植え付けようとしていた彼の意図にそぐわなかったからかもしれない。
ところが、論文著者は、この省略部分には、むしろ禁欲主義と眠りとの関係が書かれていた可能性を指摘する。新プラトン主義者のオリュンピオドロスは、『プラトン「パイドン」注解』の中で、アリストテレスがある男と会った物語を語っている。それによると、その男はまったく眠ることがなく、また太陽のような空気のみを糧としているという。この描写はいかにもプラトン的かつピタゴラス的なものである。「太陽のような空気」とはエーテルのことに違いない。またエーテルのみを糧にする禁欲的な生活をすることで、不死なる魂を清浄に保とうとしている。この魂の不死性という考え方は東方の賢者たちに共有されていたもので、彼らと比較されていたユダヤ人も当然持っているものとされていた(ヘルミッポス)。もしこのようなことが書かれていたならば、ヨセフスはやはりこれをあまりに馬鹿げているとして省かなければならなかった。
(IV)クレアルコスは、このように当時の文学的流行やステレオタイプなどをもとにユダヤ人を描いているため、あまり批判的な目を持っていない。彼の作品のテーマは、友情、動物、格言、なぞなぞ、性的なもの、プラトンの称賛など多岐に渡っており、文字通りさまざまなテーマを逍遥してはいる。しかし、また聞きをもとにした紋切り型の作品ばかりなので、アリストテレス的な経験主義に基づいた批判精神には欠けている。むしろ、クレアルコスのテーマはプラトンの弟子であるスペウシッポスなどと共通の要素が見受けられる。またピタゴラス主義の影響も多大である。こうしたことから、よく言えば、クレアルコスはプラトンとアリストテレスの教えの矛盾を調和させようとした最初の者たちのうちの一人であるともいえる。
(V)魂が肉体から分離可能であると考えたプラトンに対し、アリストテレスは肉体と、それと共に死ぬ魂との不可分な調和を説いた。すると、魂を肉体から引き出す魔術師の話を語る、クレアルコスのアリストテレスは実は完全なるプラトン主義者になってしまっている。むろん、この逸話自体は、プラトンが死んでアリストテレスがアカデミアを去り、小アジアにいた時代なので、まだプラトンの影響下にあったということもできる。が、やはりクレアルコスは意図的にアリストテレスの権威を用いてプラトンの説を正しいものとして描こうとしていると考えられる。
0 件のコメント:
コメントを投稿