ページ

2019年9月25日水曜日

予備教育としてのハガル Bos, "Hagar and the Enkyklios Paideia"

  • Abraham P. Bos, "Hagar and the Enkyklios Paideia in Philo of Alexandria," in Abraham, the Nations, and the Hagarites: Jewish, Christian, and Islamic Perspectives on Kinship with Abraham, ed. Martin Goodman, George H. van Kooten, and J.T.A.G.M. van Ruiten (Themes in Biblical Narrative 13; Leiden: Brill, 2010), 163-75.


『予備教育』は創世記のサラとハガルの物語に関する解釈書である。創世記では、アブラハムの妻サラは子供ができなかったために、ハガルを側室とするようにアブラハムに提案した。これは一見不適切な物語のように見えるが、これをフィロンは逆転の発想で、至高の知恵でもあり神的な取り決めであったと解釈した。

知恵と教養諸学を区別するというフィロンのテーマは他のモチーフと関係を持っている。第一に、アブラハムの移住の解釈である。フィロンはこれを可感的な物質性の世界から神的イデアの非物質的実在性への魂の上昇と捉えた。とりわけアブラハムがアルデア人の地から出ることは、彼がコズミックな神々への礼拝からメタコズミックな超越的な唯一神への崇拝に至るブレイクスルーを与えた。つまり、カルデア人とアブラハムやイスラエルとには、フィジックとメタフィジック、コズミックな神学とメタコズミックな神学という対比がなされている(『世界の創造』冒頭など)。フィロンは、アブラハムと共にカナンの地に行かなかったナホルのことを天文学に囚われたままの人物として描いている。

第二に、名前の変化のモチーフも重要である。「アブラム」と「サライ」は最初、目に見える世界にとらわれていたが、予備教育を学ぶことですべての物事の原因やロゴスのアイデアに気づくことができた。そうした観点の変化と魂の方向転換を経て初めて彼らの名前は「アブラハム」と「サラ」に変わったのである。

こうした解釈は当然聖書そのものからは得られない。フィロン以前からユダヤ人は聖書を寓意的に解釈することはあったが、フィロンのような「哲学的な」寓意はなかった(H. Wolfson)。彼はこれをギリシアの文学伝統から取り入れたのである。前6世紀のランプサコスのメトロドロス以来、この方法はホメロスやヘシオドスのような古典をアップデートする方法として好まれた。

予備的なものとしての教養諸学からより高度な知識へ、というテーマも疑いなくギリシアから来ている。これは数学と論理学を区別したプラトン以降の考え方である。しかし、フィロンは原理を可感的な現実に向けるというより後代の予備的科学を用いている。プラトンにとって可感的世界は科学の対象ではなかった。フィロンのような用い方はストア派にも見られるが、その淵源はアリストテレス『形而上学』である。アリストテレスは哲学を真に自由な科学とし、その他の学問をそれに仕えるものと見なした。

ハガルに代表される予備的科学の学びには、哲学に対して従属的なヒエラルキーがあるものの、決してそれは「奴隷的」な行為ではない。とはいえそれは可視的・物質的世界につながれたままでもある。『巨人』60において、フィロンは人を地上的・星的・神的なものに分けている。地上的人間は快楽を求める者、星的な人間は教養諸学の習得に身をささげる者、そして神的な人間は可視的世界を超越する祭司や預言者である。

教養諸学のギリシア語であるエンキュクリオス・パイデイアについて、De Rijkはそれがピタゴラス主義者の音楽的理想に由来し、歌や合唱を子供たちに指導する習慣と関係していることを明らかにした。他の研究者もさまざまに議論をしているが、みなに共通するのは、エンキュクリオス・パイデイアの概念がストア派の時代を遡らないという認識である。それゆえに、概念の創始をストア派に記する者すらいるが、論文著者はこれを否定する。著者によれば、フィロンの知恵概念などには非ストア派的認識論が見られる。すべてを支配する神と、より低次のロゴスあるいは神の力というグノーシス的区別の最初は、フィロンに帰されるという。

そして、論文著者は以上のような考え方はアリストテレスと完全に合致すると主張する。彼は人間が議論できる現実世界と、それを超える超越的な知識を区別した。魂の関与できる領域と知性の領域を分けているのである。他にもフィロンはアリストテレス同様にホメロスを賞賛し、モナルキア主義を共有している。フィロンは、アリストテレスの失われた対話編から「エンキュクリオス・パイデイア」の概念を借用したに違いない。

0 件のコメント:

コメントを投稿