- Jan Willem van Henten, The Maccabean Martyrs as Saviours of the Jewish People: A Study of 2 and 4 Maccabees (Supplements to the Journal for the Study of Judaism 57; Leiden: Brill, 1997), pp. 58-82.
The Maccabean Martyrs As Saviours of the Jewish People: A Study of 2 and 4 Maccabees (Supplements to the Journal for the Study of Judaism, V. 57) J. W. Van Henten Brill Academic Pub 1997-11 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools |
四マカの文学的形式については、さまざまに議論されてきた。FreudenthalやThyenらは、四マカはアレクサンドリアのシナゴーグにおける説教、特にハヌカー祭のときに語られた説教だったと考えたが、これは今ではあまり支持されていない。Nordenは、四マカはむしろ、前半部分1:1-3:18が哲学論文であるディアトリベー、後半部分3:19-18:24が個人に対する賛辞であるエンコーミオンだと考えた。実際古代の注解者フィロストルギオスは、四マカがヒストリアよりはエンコーミオンだと述べている。一方でLebramは、Nordenの説を引き継ぎつつ、後半はエンコーミオンではなくエピタフィオスだと主張した。ここで言うエンコーミオン(顕徳演説)、エピタフィオス(葬礼演説)、パネギュリコス(祭典演説)などは、アリストテレスによる弁論術の分類、すなわちディカニコン(法廷弁論)、シュンブーレウティコン(議会弁論)、エピデイクティコン(演示弁論)のうち、三つ目である演示弁論に分類されるものである。ディカニコンが過去のことを法廷で、またシュンブーレウティコンが未来のことを議会で議論する際に用いられるのに対し、エピデイクティコンは現在のことを祭りや葬儀などで議論し、徳を賞賛したり悪徳を非難したりする際に用いられた。以上の関係を図示すると次のようになる:
- ディカニコン(法廷弁論)
- シュンブーレウティコン(議会弁論)
- エピデイクティコン(演示弁論):エンコーミオン(顕徳演説)、エピタフィオス(葬礼演説)、パネギュリコス(祭典演説)
エンコーミオンもエピタフィオスも共に死者を賞賛する際に用いられたが、前者は個々人を対象とし、かつ必ずしも名誉の死を前提としないのに対し、後者はもともとアテーナイにおいてポリスの名誉のために死んだ市民全体を顕彰する愛国的なものだった。Lebramはさらに、葬礼演説がしばしば墓の前で行なわれたことと、四マカ17:8に架空の墓碑銘が出てきていることから、四マカ後半は葬礼演説であるという主張を続けている。ただし、Van Hantenは、四マカ後半が葬礼演説として解釈できることと、四マカが実際に墓の前で読まれたこととは別の問題であると指摘している。また、四マカ後半には、葬礼演説には似つかわしくない苛烈な拷問の描写があることにも注意すべきであるという。
こうした前半と後半とのスタイルの違いから、Lebramは、現在の四マカはそれぞれ別のソースを一つに編集したものだという仮説を立てたが、両者の修辞イメージの一貫性、相互参照、似た語彙、言語的・主題的な関連性などから、まったく別物と考えることはできないとVan Hantenは述べている。むしろこうした構造は、アリストテレスによる弁論が備えるべき二つの特徴を現している:第一に、主題と問いがあること(プロブレーマあるいはプロテシス。四マカではヒュポテシス)。第二に、その証明があること(アポデイクシス)。
四マカは、殉教物語の素材に関しては、二マカに大きく依拠している。二マカ自体はキレネ人ヤソンの現存しない文書に依拠していると述べられているが(二マカ2:19)、四マカは二マカとヤソン文書の両方を知っていたとされている。二マカと四マカとの比較によって得られた結果を、Van Hentenは四点ほど指摘している。第一に、四マカ著者は、二マカにおける殉教者の台詞を、自らの言葉で語りなおしている。第二に、四マカ著者は殉教者の台詞を敷衍し、拷問の様子を拡大している。第三に、しばしば四マカには、二マカの文章をそのまま取ってきたような箇所が見られる。第四に、いくつかの箇所で、四マカは二マカに記された情報とは違う情報を提供している。Van Henten によれば、これらの違いは、四マカ著者が二マカの素材を、自分の論文の論旨と、四マカの読者の社会文化的な文脈とに適用させるための「脚色(adaptation)」によるものだという。
四マカが成立した時代について、Grimmをはじめ多くの学者は一世紀としている。これに対しBickermanは、四マカ中でキリキアがローマ属州として説明されていることを受けて、同地がローマ属州であった18-54年を四マカ成立の年代としている(Hadasはさらに37-41年にまで範囲を狭めた)。しかし、文書中である事柄が説明されているからといって、必ずしもそれが文書の年代を特定できるわけではないし、そもそもキリキアは72年まで実質的にローマ属州であったことがのちに判明したために、Bickermanの年代特定は不確実であるといえる。Breitensteinは、四マカが神殿に無関心であることから、神殿崩壊後の70年以降を成立年代とした。さらに、Dupont-SommerやCampbellは、ヘレニズム哲学の再興隆の時期と重ね合わせて、2世紀に書かれたと主張した。Van Henten自身は、神殿への無関心、ユダヤ人やユダヤ地方の抽象化、使徒教父文書との類似、新約聖書との非類似などから、二世紀初頭からそれ以降の成立と結論付けた。書かれた場所としては、アレクサンドリアやアンティオキアといった大都市を想定する者と、小アジアの小さな町を想定する者とに別れる。Van Hentenは、殉教の舞台自体はアンティオキアだったとしつつも、文書が書かれたのは小アジアだったと主張する。というのも、四マカにおける歴史記述が小アジアを想定している箇所があり、さらには作中の墓碑銘で使われている語彙が小アジアで出土した碑文と酷似しているからである。
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