- G.M.A. Grube, "Alexandria," inThe Greek and Roman Critics (London: Methuen, 1965), pp. 103-9.
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本章は、ヘレニズム期のアレクサンドリアにおける文学批評について概観したものである。この時期のギリシア語には、むろん共通語としてシンプルなスタイルを持ったコイネー・ギリシア語もあるが、それ以外にも、華やかでやや冗長なアジアニズムのギリシア語もあった。このアジアニズムは、キケローやクインティリアヌスらによって、しばしばアッティシズムと対比的に語られるが、多くの場合その論調は否定的である。アジアニズムのギリシア語として代表的なのは、前3世紀中頃のマグネシアのヘゲシアスである。
前285年にアレクサンドリアの図書館ができあがると、そこを拠点にギリシア文学批評の文献学者たちが活動するようになった。本章では、ゼノドトス、カリマコス、エラトステネス、ビザンティウムのアリストファネス、そしてアリスタルコスが取り上げられている。ゼノドトスは、アレクサンドリアにおける最初のホメロス校訂者であった。ゼノドトスは、校訂版を作成するに当たって、しばしば主観的な判断から、詩の一部の削除を指定するオベロス記号を写本に記した。しかしながら、彼は削除を指定するだけであって、その箇所を実際に写本から削除はしなかった(それゆえに、現在でもその部分を検討することができる)。彼の姿勢はやや言語によりすぎ、歴史的な観点が抜けているとされているが、自分の頭の中だけで校訂作業をしたわけでないのである。
カリマコスは文学の学者であると同時に詩人でもあった。彼の詩は、当時のアレクサンドリアの文学者たちの考え方の傾向をよく保存している。ギリシア本国からは離れた場所であるアレクサンドリアの文学はギリシア文学としては傍流であるが、それゆえにこそ、当地の作家たちは偉大な古典期の作家たちの功績を明確に意識しており、同時に自分たちの時代はそれには及ばないことも知っていた。ゆえに、アレクサンドリアの文学は、文学史を熟知した博識な詩人が博識な読者に宛てた勉強文学であった。またジャンルに関しても、大規模な叙事詩や悲劇ではなく、小規模な賛歌、エピグラム、牧歌、抒情詩などが中心となった。内容的には、倫理的な教訓ではなく、(高いレベルでの)娯楽に徹したものとなった(むろん、プラクシファネスやネオプトレモスといった反対者たちもいる)。
博識だが、一流ではなかったと評されていたために、ベータとも呼ばれたエラトステネスは、詩の目的とは娯楽を提供することであって、決して教訓を与えることではないと述べていた。それゆえに、詩人は兵法、農業、修辞学などに秀でている必要はなく、また詩の中で正しい知識を述べなければいけないわけではないとした。このエラトステネスの主張は、のちにストラボンによって激しく批判されることになる。
ビザンティウムのアリストファネスは、ギリシア語のアクセントや句読点、そして校訂のための記号などを発明したと言われている。また彼はさまざまな劇作品に短い序文(ヒュポセシス)を付し、その作品のジャンルを決定したが、今もってその判断が踏襲されている。
アレクサンドリアの学者の中でも最も偉大な人物とされるのが、アリスタルコスである。前180年頃にアレクサンドリアの図書館長となったアリスタルコスは、それまでに培われてきた校訂や批評の方法論を発展させたのである。彼の腕前が遺憾なく発揮されているのは、ホメロスのスコリアと注解である。彼の姿勢は、写本にあるテクストをなるべく改変しないようにするという保守的なものであった。また、「ホメロスはホメロス自身によって解釈されるべき」という有名な言い回しからも分かるように、彼はホメロスのある一節を解釈する際に、ホメロス文学コーパス上(『イリアス』と『オデュッセイア』)で同じ用語や言い回しがないか調べ、それを参考に意味を定めていった。それゆえに、一般的に「恐れ」を意味するフォボスという言葉が、ホメロスでは「敗北」を意味することなどを発見した。このことから、同時に彼はハパクス・レゴメナに特に注意を払った。また、ホメロスの物語はホメロス当時の、あるいは彼が描く英雄たちの時代の基準で理解されるべきであって、仮に解釈者にとって奇異な箇所があっても、それを不適切だとして改変すべきではないとした。これは文学批評の歴史の中でも、極めて大きな一歩であった。こうした規範をもとに、アリスタルコスは詩人の解釈の自由度を認めつつ、行き過ぎた歴史性から文学を解放したのである。彼の弟子であるディオニュシオス・トラクスは、その師よりも文法や言語学に注目した。
こうして発展してきたアレクサンドリアの文学批評に対し、ペルガモンでも一味違った文学批評の伝統が築かれていた。アリスタルコスの同時代人であるマロスのクラテスは、ストア派の言語理論をもとに、経験主義的なanomalistの観点から批評を行なった(このときアレクサンドリア学派は教条主義的なanalogistと位置づけられる)。クラテスが一時期ローマで暮らしたことから、ペルガモン学派の考え方はラテン文学に移され、ウァッローなどに影響を与えた。
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カリマコスは文学の学者であると同時に詩人でもあった。彼の詩は、当時のアレクサンドリアの文学者たちの考え方の傾向をよく保存している。ギリシア本国からは離れた場所であるアレクサンドリアの文学はギリシア文学としては傍流であるが、それゆえにこそ、当地の作家たちは偉大な古典期の作家たちの功績を明確に意識しており、同時に自分たちの時代はそれには及ばないことも知っていた。ゆえに、アレクサンドリアの文学は、文学史を熟知した博識な詩人が博識な読者に宛てた勉強文学であった。またジャンルに関しても、大規模な叙事詩や悲劇ではなく、小規模な賛歌、エピグラム、牧歌、抒情詩などが中心となった。内容的には、倫理的な教訓ではなく、(高いレベルでの)娯楽に徹したものとなった(むろん、プラクシファネスやネオプトレモスといった反対者たちもいる)。
博識だが、一流ではなかったと評されていたために、ベータとも呼ばれたエラトステネスは、詩の目的とは娯楽を提供することであって、決して教訓を与えることではないと述べていた。それゆえに、詩人は兵法、農業、修辞学などに秀でている必要はなく、また詩の中で正しい知識を述べなければいけないわけではないとした。このエラトステネスの主張は、のちにストラボンによって激しく批判されることになる。
ビザンティウムのアリストファネスは、ギリシア語のアクセントや句読点、そして校訂のための記号などを発明したと言われている。また彼はさまざまな劇作品に短い序文(ヒュポセシス)を付し、その作品のジャンルを決定したが、今もってその判断が踏襲されている。
アレクサンドリアの学者の中でも最も偉大な人物とされるのが、アリスタルコスである。前180年頃にアレクサンドリアの図書館長となったアリスタルコスは、それまでに培われてきた校訂や批評の方法論を発展させたのである。彼の腕前が遺憾なく発揮されているのは、ホメロスのスコリアと注解である。彼の姿勢は、写本にあるテクストをなるべく改変しないようにするという保守的なものであった。また、「ホメロスはホメロス自身によって解釈されるべき」という有名な言い回しからも分かるように、彼はホメロスのある一節を解釈する際に、ホメロス文学コーパス上(『イリアス』と『オデュッセイア』)で同じ用語や言い回しがないか調べ、それを参考に意味を定めていった。それゆえに、一般的に「恐れ」を意味するフォボスという言葉が、ホメロスでは「敗北」を意味することなどを発見した。このことから、同時に彼はハパクス・レゴメナに特に注意を払った。また、ホメロスの物語はホメロス当時の、あるいは彼が描く英雄たちの時代の基準で理解されるべきであって、仮に解釈者にとって奇異な箇所があっても、それを不適切だとして改変すべきではないとした。これは文学批評の歴史の中でも、極めて大きな一歩であった。こうした規範をもとに、アリスタルコスは詩人の解釈の自由度を認めつつ、行き過ぎた歴史性から文学を解放したのである。彼の弟子であるディオニュシオス・トラクスは、その師よりも文法や言語学に注目した。
こうして発展してきたアレクサンドリアの文学批評に対し、ペルガモンでも一味違った文学批評の伝統が築かれていた。アリスタルコスの同時代人であるマロスのクラテスは、ストア派の言語理論をもとに、経験主義的なanomalistの観点から批評を行なった(このときアレクサンドリア学派は教条主義的なanalogistと位置づけられる)。クラテスが一時期ローマで暮らしたことから、ペルガモン学派の考え方はラテン文学に移され、ウァッローなどに影響を与えた。
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