- Adam Kamesar, "The Bible Comes to the West: The Text and Interpretation of the Bible in Its Greek and Latin Forms," in Living Traditions of the Bible: Scripture in Jewish, Christian, and Muslim Practice, ed. James E. Bowley (St. Louis: Chalice Press, 1999), pp. 35-61.
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本論文は、ギリシア語訳・ラテン語訳聖書の成立についてと、ギリシア世界での聖書解釈の歴史を概観したものだが、今回は前半分(pp. 35-50)を読んだ。著者は、まず前500年を起点として、ギリシア世界、ユダヤ世界、ローマ世界の三者の関係がどのように発展していったかを説明する。最初は三者は関わりあうことのないままそれぞれの歴史を作っていたが、前4世紀のアレクサンドロス大王の征服によって、まずギリシア世界とユダヤ世界とが接触した。この征服は軍事的のみならず文化的なものでもあった。そして前30年にはクレオパトラの死によって、ローマ世界がギリシア世界とユダヤ世界を飲み込んだが、この征服はアレクサンドロス大王と異なり、あくまで軍事的なものであって、文化的にはローマはギリシア文化に依存していた。
ギリシア語訳聖書とラテン語訳聖書とはこうした歴史的な背景の中で制作されたものであるが、著者はその流れをSeptuagintal-traditionとnon-Septuagintal traditionとに分けている。七十人訳が作られた時代は、偉大な古典期はすでに終わってしまったという感覚が支配的だった。そこでそうした遺産を整理し、保存しようという試みが始まったのである。同時に、プラトン的な哲学から、アリストテレス的な経験的・組織的なアプローチの学問が発達していった。この二つの傾向をもとに考えると、『アリステアスの手紙』も違った風に読めてくる。多くの研究者は、アレクサンドリアの図書館がユダヤ人の律法に興味を持って、わざわざ翻訳してまでそれを手に入れようとしたという逸話を作り話と考え、七十人訳はヘブライ語を忘れた離散のユダヤ人によって作られたものだと説明してきたが、アリストテレス的な保存・収集の学問的傾向が律法に対する興味を生んだとも考えられるのである。
こうして出来上がった七十人訳は、フィロンやパウロによって権威あるものと見なされていった。また新約聖書の中でイエスが預言を成就させたことは、ギリシア語の旧約聖書である七十人訳の存在によって証明されるので、その価値はいや増していった。その権威は、ヘブライ語テクストと七十人訳との違いが見つけられていってからも、変わらずに高かった。その代わりに、後2世紀までにギリシア語を話すユダヤ人たちは七十人訳を捨ててしまった。これは一般的にはキリスト教徒の七十人訳利用に対するリアクションとして見られているが、これは必ずしも正しくはない。
というのも、non-Septuagintal traditionの特徴である、ギリシア語訳をヘブライ語に近づけようとする試みの最初期の例は、キリスト教の成立以前のものだからである。それはナハル・ヘヴェルで見つかった十二預言書のギリシア語訳である。すなわち、キリスト教徒が七十人訳を用いるようになる前から、七十人訳ではあきたらず、ヘブライ語に近いギリシア語訳を作ろうという機運がユダヤ人の中にあったのである。
その後、後2世紀になると、"The Three"とも呼ばれるアクィラ、シュンマコス、テオドティオンの訳が現れる。しかしこれら三者の翻訳は、ユダヤ人よりもむしろキリスト教徒に大きな影響を与えるようになった。3世紀のオリゲネスに端を発する、キリスト教聖書研究の始まりである。オリゲネスがヘクサプラを作成したことで、七十人訳がいかにヘブライ語テクストと違うかが一目瞭然となってしまった。と同時に、七十人訳の権威を貶めないままにこの矛盾を説明しようとする、洗練した神学もアウグスティヌスのような人物によって編み出されることになった。
このヘブライ語に近づけようとする傾向が結実したのが、ヒエロニュムスのウルガータ聖書であった。ヒエロニュムスが活躍したのは、オリゲネスの時代から150年ほどもあとのことであったが、これほどまでに時間がかかったのは、ラテン世界における聖書研究が成熟するのにそれだけかかったということであろう。
以上から分かることとしては、次のことが言える:Septuagintal traditionは「キリスト教」の伝統だというわけではないし、non-Septuagintal traditionも「ユダヤ教」の伝統というわけではない。両者は共にギリシア語を話すユダヤ人のもとで始まったものであり、Septuagintal traditionはギリシア語のキリスト教徒の共同体で受け入れられ、non-Septuagintal traditionはラテン語のキリスト教の共同体で受け入れられたのである。
ギリシア語訳聖書とラテン語訳聖書とはこうした歴史的な背景の中で制作されたものであるが、著者はその流れをSeptuagintal-traditionとnon-Septuagintal traditionとに分けている。七十人訳が作られた時代は、偉大な古典期はすでに終わってしまったという感覚が支配的だった。そこでそうした遺産を整理し、保存しようという試みが始まったのである。同時に、プラトン的な哲学から、アリストテレス的な経験的・組織的なアプローチの学問が発達していった。この二つの傾向をもとに考えると、『アリステアスの手紙』も違った風に読めてくる。多くの研究者は、アレクサンドリアの図書館がユダヤ人の律法に興味を持って、わざわざ翻訳してまでそれを手に入れようとしたという逸話を作り話と考え、七十人訳はヘブライ語を忘れた離散のユダヤ人によって作られたものだと説明してきたが、アリストテレス的な保存・収集の学問的傾向が律法に対する興味を生んだとも考えられるのである。
こうして出来上がった七十人訳は、フィロンやパウロによって権威あるものと見なされていった。また新約聖書の中でイエスが預言を成就させたことは、ギリシア語の旧約聖書である七十人訳の存在によって証明されるので、その価値はいや増していった。その権威は、ヘブライ語テクストと七十人訳との違いが見つけられていってからも、変わらずに高かった。その代わりに、後2世紀までにギリシア語を話すユダヤ人たちは七十人訳を捨ててしまった。これは一般的にはキリスト教徒の七十人訳利用に対するリアクションとして見られているが、これは必ずしも正しくはない。
というのも、non-Septuagintal traditionの特徴である、ギリシア語訳をヘブライ語に近づけようとする試みの最初期の例は、キリスト教の成立以前のものだからである。それはナハル・ヘヴェルで見つかった十二預言書のギリシア語訳である。すなわち、キリスト教徒が七十人訳を用いるようになる前から、七十人訳ではあきたらず、ヘブライ語に近いギリシア語訳を作ろうという機運がユダヤ人の中にあったのである。
その後、後2世紀になると、"The Three"とも呼ばれるアクィラ、シュンマコス、テオドティオンの訳が現れる。しかしこれら三者の翻訳は、ユダヤ人よりもむしろキリスト教徒に大きな影響を与えるようになった。3世紀のオリゲネスに端を発する、キリスト教聖書研究の始まりである。オリゲネスがヘクサプラを作成したことで、七十人訳がいかにヘブライ語テクストと違うかが一目瞭然となってしまった。と同時に、七十人訳の権威を貶めないままにこの矛盾を説明しようとする、洗練した神学もアウグスティヌスのような人物によって編み出されることになった。
このヘブライ語に近づけようとする傾向が結実したのが、ヒエロニュムスのウルガータ聖書であった。ヒエロニュムスが活躍したのは、オリゲネスの時代から150年ほどもあとのことであったが、これほどまでに時間がかかったのは、ラテン世界における聖書研究が成熟するのにそれだけかかったということであろう。
以上から分かることとしては、次のことが言える:Septuagintal traditionは「キリスト教」の伝統だというわけではないし、non-Septuagintal traditionも「ユダヤ教」の伝統というわけではない。両者は共にギリシア語を話すユダヤ人のもとで始まったものであり、Septuagintal traditionはギリシア語のキリスト教徒の共同体で受け入れられ、non-Septuagintal traditionはラテン語のキリスト教の共同体で受け入れられたのである。
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