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2016年10月15日土曜日

アウグスティヌスの聖書学 Harrison, "Augustine"

  • Carol Harrison, "Augustine," in The New Cambridge History of the Bible 1, ed. James Carleton Paget and Joachim Schaper (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), pp. 676-96.
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James Carleton Paget

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本章は、アウグスティヌスにとって聖書がどのようなものであるかを検証したものである。聖書解釈者としてのアウグスティヌスは、独自性を持ちつつも、西洋キリスト教聖書解釈者の伝統――キュプリアヌス、ヒラリウス、アンブロシアステル、アンブロシウス、ヒエロニュムス――に属している。彼が受けてきた教育はいわゆるリベラル・アーツであり、いかにしてテクストを読み、正し、解釈し、そして判断するかを学んできた。当時の教育は文法に始まり、修辞学で終わる。修辞学は、高度に熟練した雄弁の力で聴衆を説得するための方法である。

こうした異教の教育を受けたアウグスティヌスは、聖書の文学的なスタイルの欠落を感じていた。聖書は文学として低級であるだけにとどまらず、一貫していないこと(たとえば共観福音書間で)も問題だった。アウグスティヌスは、この点を唯物主義的哲学の観点から批判していたマニ教にもともと属していたが、386年にキリスト教に改宗したあとは、アンブロシウス流の寓意的(allegorical)・比喩的(figurative)解釈を受け入れ、聖書には字義的な表層の意味の下に、より深い霊的な意味があると考えるようになった。彼によれば、聖書にある非一貫性は、罪でくもっている人間の理性が、本来そこにある真理を見出すことができないからあるように思えるにすぎない。聖霊は、読者をその非一貫性で刺激することにより謙遜を引き出すのであった。いわば、聖書は神的に霊感を受けたものであるにも関わらず、人間のレベルに下がってくることによって、読者が段階的にその真理を理解していけるようになっているのである。

395年にヒッポの司教になると、アウグスティヌスはほぼ毎日の説教をすることが求められた。すなわち、彼の聖書の学びは、純粋に学術的・批判的・理性的・分析的なものであるというより、信仰の立場に立った牧会的・神学的・護教論的なのである。彼の説教は、おそらく先に文章を用意したものではなく、その場で語ったものであり、書記によって記録されていたものだと思われる。その中で、彼はかつて学んだ絢爛豪華な修辞の力をふんだんに発揮したが、同時にそうした技巧に頼ることに注意を払っていた。技巧はパフォーマンスに堕してしまうおそれがあるからである。修辞は聖書テクストの真理の教育に従属すべきであり、また聴衆を効果的に説得して聖書の理解を深められる限りにおいて用いられるべきである。

こうしたことを組織的に議論している『キリスト教の教え』の中で、アウグスティヌスは指示するものである「しるし(signa)」と、指示されるものである「もの(res)」を区別している。解釈者の仕事とは、聖書の表層にある「しるし」が示している、より深いところにある真理である「もの」を、読者に示し、教えることなのである。そして、アウグスティヌスにとって、聖書が究極的に示していることとは、「隣人への愛」と「神への愛」であった。これを探し、示すためにのみ、異教の古典文化は有効である。つまり、異教文化が副次的な人間の制度のみを請け負っているのに対し、キリスト教文化はさらに神的な権威と究極の真理をも請け負っているのである。

アウグスティヌスは、『キリスト教の教え』において、解釈者の心得として、何よりも神への愛を持つことを挙げている。何か他のものを愛するにしても、それは神の代わりに、また神に関連してそれを愛するということである。すべての被造物に対する解釈者の姿勢は、それらを通じて、それらを作りたもうた主へと向けられるべきなのである。こうした神への愛と、隣人への愛とがある限りにおいて、解釈者は、聖書の表面に拙く書かれている特定の言葉や表現(verba/signa)に拘泥するべきではなく、自由に本来の真理(veritas)、意図(voluntas)、意味(sententia)を解釈するべきである。すなわち、「言葉(verba)」ではなく「もの(res)」を探さなければならない。こうした「比喩的解釈(figurative exegesis)」によって、テクストは幾層にも読まれることができるようになった。

このように、アウグスティヌスは基本的に、歴史書も含めて聖書の全体は預言的であると考えていたが、決して字義的解釈をないがしろにしたわけではない。まず最初に字義的に捉えることは前提であり、すべてはそれから始まるのである。また特に主自身が字義的に意味を説明しているところは、そのまま読まれるべきである。

共観福音書には、明らかに相互の矛盾が見られるが、アウグスティヌスはそれらすべてが同じ霊によって霊感を得ていると考えていた。表面的には矛盾していても、より重要なレベルにおいては統一されているのである。これをアウグスティヌスは「調和的な多様性」と呼んだ(『福音書記者たちの調和について』)。

アウグスティヌスは、解釈者が聖書から読み取らなければならない四つの異なった意味を挙げている:第一に、何かが書かれたという事実である「歴史(hisotria)」、第二に、旧新約聖書の調和という「相似(anagogia)」、第三に、なぜ何かが書かれたのかの「原因(aetiologia)」、そして第四に、聖書のすべてが字義的に受け取られるべきではなく霊的かつ比喩的にも受け取られるべきであるという「寓意(analogia)」である。このうち彼が特によく用いたのが寓意的解釈である。これによって、歴史的な人物、出来事、物語も、未来のものとして解釈することができるようになる。

キリスト教の説教者が聖書を解釈するときのアプローチは、「キリスト教的美学(Chrisitian aestetic)」と呼ぶことができる。キリスト者として聖書の単純さや明晰さや真理を評価すべきであることは当然であるが、読者がその真理を理解したいという欲求を刺激し、神への愛を呼び起こすために、解釈者は異教の古典文学由来の雄弁な修辞の力を用いて、聖書にある真理の美を示すべきなのである。なぜなら、真理とは美しいものだからである。ここにおいて、アウグスティヌスはかつて学んだ古典文学の力を否定することなしに、聖書の美を示すことに成功したのだった。

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