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2019年9月17日火曜日

『エノク書』の写本状況 Knibb, "The Book of Enoch or Books of Enoch?"

  • Michael A. Knibb, "The Book of Enoch or Books of Enoch? The Textual Evidence for 1 Enoch," in id., Essays on the Book of Enoch and Other Early Jewish Texts and Traditions (Studia in Veteris Testamenti Pseudepigrapha 22; Leiden: Brill, 2009), 36-55.

Essays on the Book of Enoch and Other Early Jewish Texts and Traditions (STUDIA IN VETERIS TESTAMENTI PSEUDEPIGRAPHA)
Michael A. Knibb
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『エノク書』の全体はエチオピア語訳のみで残り、部分的にはギリシア語訳でも残っているが、一方でオリジナルのアラム語テクストはクムランで発見されている。しかしながら、エチオピア語訳やギリシア語訳を単なるアラム語の翻訳として説明することはできない。

たとえば、『エノク書』8:3について、アラム語テクスト(4Q201, 4Q202)、シュンケッロス『年代記』中に引用されたギリシア語訳、そしてエチオピア語訳としばしば一致するアクミーム写本中のギリシア語訳を比べると、アラム語テクストとシュンケッロスのギリシア語訳が比較的近い長いテクストを示すのに対し、アクミーム写本およびエチオピア語訳はより短いテクストを示す。これは単に翻訳段階や筆者段階での自然な改変ではなく、少なくとも部分的には編集的な干渉があったと考えるべきである。同様の例はたくさんある。Eibert TigchelaarやFlorentino Garcia Martinezらは、「エチオピア語訳はアラム語テクストと異なっているが、関係している。ギリシア語訳者はアラム語訳をリフレーズし、リアレンジしたのだ」と述べている。

ギリシア語訳やエチオピア語訳は単にオリジナルのアラム語テクストの翻訳とは見なすことはできない。エチオピア語訳は、しかしながら、最も発展した形態を代表している。さまざまなテクストをゆるやかに統括するような文学的構造を持っているからである。エチオピア語訳は、テクストがアラム語からギリシア語に訳されたとき、さらにはギリシア語からエチオピア語に訳されたときの変化、またテクストが筆写されたときの変化、そしてそれだけにとどまらず、編集上の干渉が残されていることになる。これは、ギリシア語やエチオピア語に訳された『エノク書』がアラム語と完全に異なるということを必ずしも意味しない。ただ異なった文学的・歴史的文脈にあるということである。

論文著者は、『エノク書』の発展段階に関して次のように箇条書きにしている。第一に、最も古い証言は前1世紀の4Q204であり、「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」を含んでいる。

第二に、Josef Milikによれば、4Q204は「巨人の書」も含んでいた。そしてこのアラム語テクストの時点で2巻に分かれる『エノク書』の五部構造が存在したという。すなわち、第1巻に「天文の書」(同書は常に個別の文書として扱われている、例4Q208, 209, 210, 211)、そして第2巻に「寝ずの番人の書」「巨人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」である。ただし、論文著者はこの説には懐疑的である。

第三に、「たとえの書」がアラム語で書かれたのかヘブライ語で書かれたのかは判然としない(なぜなら「たとえの書」のみはクムランから出てきていないから)。

第四に、ギリシア語訳されたときの状況についてはまったく分からない。現存するギリシア語訳は「寝ずの番人の書」と「エノク書簡」の一部分のみである。James Barrによれば、『エノク書』のギリシア語訳はダニエル書の七十人訳と同じ段階や同じ層に属しているという。

第五に、アラム語の段階で五部構造があったかどうかはともかく、ギリシア語訳の段階でそうした構造があったことは確実である。最も新しい「たとえの書」が後1世紀の成立なので、五部構造もそのときに完成したことになる。

第六に、もともと『エノク書』のエチオピア語訳は聖書全体のエチオピア語訳の一環としてなされたものである。これはおそらく5~6世紀のことと考えられる。

アラム語。クムランで見つかった11あるアラム語断片には2つのグループがある。第一に、「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」のどれかまたはすべてを含む断片(4Q201, 202, 204, 205, 206, 207, 212)と、第二に、「天文の書」のみを含む断片(4Q208, 209, 210, 211)である。

アラム語断片が、限定的でありながらも重要な理由は3つある。第一に、キリスト教以前のユダヤ教のエノク文書の証拠をもたらしてくれること。第二に、古文書学や書誌学的な分析が最初期のエノク文書の文学的起源を教えてくれること。第三に、テクストの発展を示すような異読や異なるつづりを保存していること、である。Milikによれば、アラム語断片は、「寝ずの番人の書」の50%、「天文の書」の30%、「夢幻の書」の26%、「エノク書簡」の18%を保存しているという。

ギリシア語訳。ギリシア語訳には、アクミーム写本、シュンケッロス『年代記』の抜粋、チェスター・ビーティ=ミシガン・パピルス、ヴァティカン写本の断片、そして基督教文書中の無数の引用などがある。これらを全部足すと、全体の約3分の1ほどの分量となる。

「寝ずの番人の書」はアクミーム写本とシュンケッロスが、「天文の書」はオクシュリンコス・パピルス2069が、「夢幻の書」はヴァティカン写本とオク・パピ2069が、「エノク書簡」はチェスター・ビーティ=ミシガン・パピルスとクムラン第7洞窟のパピルスが保存しているとされる。7Q4, 8, 11-14については、これを「エノク書簡」と同定するのは可能な部分と、難しい部分がある。ただし、これが本当であれば、「エノク書簡」のギリシア語訳がユダヤ側にもあったことの証拠になる可能性がある。

写本の分析から分かるのは、「寝ずの番人の書」「天文の書」「夢幻の書」「エノク書簡」のギリシア語訳の存在は確かであること、そして「寝ずの番人の書」と「エノク書簡」はしばしば独立した文書として読まれていたこと、そしてエチオピア語訳と比すべき分量の五部構造を持った『エノク書』がギリシア語訳で存在していたことである。

さらに、アラム語テクストとの比較から分かることとして、シュンケッロスの抜粋の方がアクミーム写本よりもよいテクストを保存していることが挙げられる。アクミーム写本には編集の手が加えられている。ここからギリシア語テクストには2つの伝承があったと考えられる。第一に、シュンケッロスが依拠した、アラム語テクストと近い伝承。第二に、アクミーム写本とエチオピア語訳に反映している編集の手が加えられた伝承、である。ちなみに、ラテン語訳、コプト語訳、シリア語訳も存在するが、二次的な重要度しかない。

エチオピア語訳。エチオピア語訳は唯一全体を含む最も発展したテクストであるが、比較的最近の写本しか残っていない。50ある写本は古いグループと新しいグループに分けられる。最古の写本はLake Tana 9で15世紀のものである。

『エノク書』のエチオピア語訳は聖書のエチオピア語訳の一環として作成された。聖書のエチオピア語訳には3つのグループがある。第一に、13世紀にさかのぼる古エチオピア語訳の伝承、第二に、15-16世紀の大衆的改訂、そして第三に、17世紀以降の学問的改訂である。古エチオピア語の伝承以前に書かれたエチオピア語のキリスト教文書中に含まれる引用も参照可能だが、さほど大きな発見はなかったようである。

本論分における著者の狙いは、『エノク書』に関して、アラム語、ギリシア語訳、エチオピア語訳を単純に同一視することはできないこと、そしてそれらが異なる発展の段階を代表していることを示すことだった。そういう意味で、アラム語の段階においては、『エノク書』という題名をつけることすら疑問視されるべきかもしれない。

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