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2019年10月9日水曜日

7Q5論争への新たな試み Spottorno, "Can Methodological Limits Be Set"

  • M Victoria Spottorno, "Can Methodological Limits Be Set in the Debate on the Identification of 7Q5?" Dead Sea Discoveries 6 (1999): 66-77.

本論文は、J. O'Callaghan(およびそのフォロワーであるC.P. Thiede)がパピルス断片の7Q5をマルコ福音書6:52-53だと断定していることに対して反論を試みたものである。もし本当にクムランからキリスト教文書が出てきたのなら、きわめて興味深いが、これはほとんどすべての研究者によって否定されている。しかし、O'Callaghanはインタビューの中で、自分が学術的でない個人攻撃に晒されていると主張している。論文著者によれば、彼は他の研究者たちから投げかけられた疑問や他の可能性の指摘に誠実に答えていない。そこで論文著者は、O'Callachanらよりも妥当性が高い説を提出しようとする。むろん論文著者はそうした自分の説も完全に正しいと証明することはできないことを理解している。

論文著者はまず古文書学的問いと文献学的問いを立てて、7Q5がマルコ福音書の引用ではありえないことを説明する。古文書学的、文献学的、歴史的な理由は、この断片がマルコであることを決して客観的に証明しないのである。

では、マルコ福音書ではないなら何のテクストなのか。論文著者は、まずゼカリヤ書7:3c-5である可能性を指摘する。残っている断片が欄のはじめである場合、欄の中である場合、欄の中央である場合を考慮している。次に『エノク書』15:9d-10である可能性を挙げる。第7洞窟から発見された7Q4と7Q8はすでにギリシア語訳の『エノク書』であると同定されているので、この読みは仮説ではあるが不可能ではない。

7Q5はゼカリヤ書でも『エノク書』でもないかもしれない。しかしマルコ福音書であるよりは蓋然性が高い。ゼカリヤ書であるという同定は、マルコ福音書であるよりもパピルス学的な問題が少ないし、文化的にも時系列的にも実現可能である。『エノク書』である可能性ですら、問題はあるとはいえ、クムランの文化的環境という点からいえばよりフィットする。われわれが利用可能な歴史的証拠や確たる証言を用いて、コントロールを欠いたような学問的創造性には制限をかける必要がある。

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