- John J. Collins, Beyond the Qumran Community: The Sectarian Movement of the Dead Sea Scrolls (Grand Rapids, Michigan: Eerdmans, 2010), pp. 52-87.
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『ダマスコ文書』に対する『共同体』に見られる違いとしては、以下の点が挙げられる。入会時の手順がより発展し、複雑化している。入会時に共同体に寄付する額として全財産を求めている(『ダマスコ文書』は給料二日分のみ)。独身主義を貫くことを求めているわけではないが、女性や子供への言及がなく、家族を前提としていない。エルサレムにおける神殿祭儀からのさらなる分離が見られる。共同体内部がより階級的である。共通点としては、「ツァドクの子ら」という表現があくまで警鐘的な表現であり、実際の祭司家系を現すものではないという点が挙げられる。そもそも、『共同体』の第一洞窟からの写本には「ツァドクの子ら」という表現が見られるのに対し、第四洞窟からの写本にはそれが見られないことから、この表現は後代の付け足しである可能性が高い。以上から、『共同体』は『ダマスコ文書』の発展形であるといえる。ただし両者の違いを共同体の「分裂」に求めるのは早計である。
著者は『共同体』におけるヤハッドという名称が、大きさの変化を伴う複数の集団をまとめていうときの包括的な名称か、それとも『共同体』の共同体は一つの大きな集団であり、それのみを表しているのかを考えたときに、前者の考え方を採用している。すなわち、ヤハッドとは、クムランのみならず近隣の村における共同体なども含めた、小集団をまとめていうときの名称なのである。こう考えると、1QSのみならず、第四洞窟からも複数の『共同体』の写本が出てきた理由も説明できる。すなわち、『共同体』は一つの共同体で写されたのではなく、同時にさまざまな小集団の中で写されていたのである。
『共同体』第8章に出てくる「12人の男と3人の祭司」という表現から、これらの人々がクムラン共同体の最初の住人と考えられてきた(E.F. Sutcliffe)。ただし、彼らは単なる入会や行政を司る「共同体の議会」ではなく、特別な訓練を経たエハッドの中のエリート集団と考えることができる。彼らはヤハッドを神殿祭儀の地位に代わるものと捉え、荒れ野での生活を始めたのである。
『会衆の規則』(1QSa、以下『会衆』)と呼ばれる文書は、『共同体』と異なり、『ダマスコ文書』のように女性や子供への言及があることから、家族を想定していると考えられる。ここから『ダマスコ文書』と『会衆』とに何らかの関連性があることは明白だが、同時に『共同体』と『会衆』とにも共通点として「共同体の議会」という表現が見られる。『会衆』はこれら二つの文書同様に、人々をより聖なる段階へと連れ出そうとしたのである。
結論としては以下のようになる。『ダマスコ文書』と『共同体』とが分裂によって別々の共同体を示しているとは考えにくいが、前者よりも後者の方がより洗練され、発展した共同体を想定している。前者は家族を基本にしているが、後者は女性と子供に言及がない。また後者は複数の小集団の集合であり、エリート集団も含まれると考えられる。
この章では補遺として、クムラン共同体と比較できるものとして、ギリシアにおける志願によって構成されるいくつかの集団を紹介している。ディオニュソスを崇める「イオバッキ」などがそれである。ただし、他の一般社会からの分離の度合いや入会に際しての寄付の度合いなどが異なる。他の比較対象として興味深いのはピタゴラス主義者たちである。ヨセフスによるエッセネ派描写やフィロンによるテラペウタイ描写は、ピタゴラス主義者に似ている。ただし、荒野で暮らしていたユダヤ人のセクトがピタゴラス主義に影響を受けていたとは考えにくいため、同様の現象が別の場所で現れたと考えるべきである。むしろユダヤ教内での比較対象として、ミシュナーとトセフタに出てくる「ハヴラー」が挙げられる。これは第二神殿時代のパリサイ派の伝統から出てきたものである。
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