- Carol A. Newsom, "Rhetorical Criticism and the Dead Sea Scrolls," in Rediscovering the Dead Sea Scrolls: An Assessment of Old and New Approaches and Methods (Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 2010), pp. 198-214.
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本論文は、修辞批評(rhetorical criticism)を用いた死海文書解釈の一例を示したものである。修辞学とは、言葉を用いて現実に何らかの影響を与えようとすることである。著者は修辞的な分析を死海文書に加えることで、テクストが試みていることは何か、現実の社会にどのように影響を及ぼそうとしたのか、そして望む結果を得るためにどんな技術を用いたのかを明らかにしている。
とはいえ、批評という個人的な行為を方法論として客観的に確立するのは不可能なことに近い。著者はこの限界を意識しながらも、テクストを読むときに批評家として以下のような疑問点を思い浮かべることは役に立つと主張する:第一に、当のテクストのジャンルは何か。第二に、テクストはそれが意識している問題をどのような枠組みで扱っているか。第三に、テクストが持っている価値観を表わす用語はどのようなものがあるか。第四に、テクストはいかにしてその著者と読者(聴衆)を定め、またそれらの関係を定めているか。そして第五に、理性的な議論と曖昧な比喩表現との間にはどのような関係性があるのか、などである。
著者によれば、死海文書研究において、修辞批評はまだあまり使われていないという。しかしセクト主義的な共同体の文学は特にこのタイプの分析との親和性が高い。なぜなら、改宗者を呼び寄せ、メンバーシップを与えるためには、説得(折伏)の効果を必要とするからである。しかもそれは一度説得して終わりではなく、説得力を持たせ続けなくてはならない。死海文書における説得力は、試験、儀式、礼拝、聖書解釈、説教実践、そして言葉によらない象徴的な交流などによって保たれていた。
入信者への手引きとしても用いられていた『ダマスコ文書』の中で、話し手は知恵文学の知恵の教師のようなかたちで聴衆に語り掛けている。話し手は聴衆のアイデンティティを変えるためというよりは、むしろ彼らがすでに持っている善の意識や悪からの分離を強めようとしている。そのために、話し手は善と悪の二択を用意しておいて、聴衆は善の方に属していると教えてやるのである。歴史を語る際には、符丁を用いて内部の人間にはピンと来るように語ることで、外部との差異化を図った。さらに、寓意的解釈によって現在の出来事を聖書の預言と結びつけることは、力強い説得力になった。
『共同体の規則』は、当時の伝統に従って、少なくともマスキールのような指導者によって暗記されており、そうすることで文書の修辞は内部化され、セクト構成員の自己理解の一部となった。『ダマスコ文書』が命令形を多用し、話し手と聴衆との相互理解を前提とした語り口を持っているのに対し、『共同体の規則』は不定法を多用することで、話し手と聴衆との関係が不明な、高度に非人称化された規範的な語り口になっている。また、『ダマスコ文書』が内部のメンバーを励ましていたのに対し、『共同体の規則』は外部の人間を内部の人間に変化されることを目的としていた。
また『ホダヨット(感謝の詩篇)』は、義の教師本人か共同体の誰かによって書かれたものと考えられる。この文書は、第一に、一人称単数で書かれており、第二に、他の登場人物がいなく、たった一人の声で書かれており、そして第三に、話し手の主観が見られることなどから、話し手が義の教師に対して親近感を抱き、受け入れるような修辞的な工夫が施されていると言える。そのために、敵対者をこき下ろし、自らを被害者として描くことも忘れてはいない。
とはいえ、批評という個人的な行為を方法論として客観的に確立するのは不可能なことに近い。著者はこの限界を意識しながらも、テクストを読むときに批評家として以下のような疑問点を思い浮かべることは役に立つと主張する:第一に、当のテクストのジャンルは何か。第二に、テクストはそれが意識している問題をどのような枠組みで扱っているか。第三に、テクストが持っている価値観を表わす用語はどのようなものがあるか。第四に、テクストはいかにしてその著者と読者(聴衆)を定め、またそれらの関係を定めているか。そして第五に、理性的な議論と曖昧な比喩表現との間にはどのような関係性があるのか、などである。
著者によれば、死海文書研究において、修辞批評はまだあまり使われていないという。しかしセクト主義的な共同体の文学は特にこのタイプの分析との親和性が高い。なぜなら、改宗者を呼び寄せ、メンバーシップを与えるためには、説得(折伏)の効果を必要とするからである。しかもそれは一度説得して終わりではなく、説得力を持たせ続けなくてはならない。死海文書における説得力は、試験、儀式、礼拝、聖書解釈、説教実践、そして言葉によらない象徴的な交流などによって保たれていた。
入信者への手引きとしても用いられていた『ダマスコ文書』の中で、話し手は知恵文学の知恵の教師のようなかたちで聴衆に語り掛けている。話し手は聴衆のアイデンティティを変えるためというよりは、むしろ彼らがすでに持っている善の意識や悪からの分離を強めようとしている。そのために、話し手は善と悪の二択を用意しておいて、聴衆は善の方に属していると教えてやるのである。歴史を語る際には、符丁を用いて内部の人間にはピンと来るように語ることで、外部との差異化を図った。さらに、寓意的解釈によって現在の出来事を聖書の預言と結びつけることは、力強い説得力になった。
『共同体の規則』は、当時の伝統に従って、少なくともマスキールのような指導者によって暗記されており、そうすることで文書の修辞は内部化され、セクト構成員の自己理解の一部となった。『ダマスコ文書』が命令形を多用し、話し手と聴衆との相互理解を前提とした語り口を持っているのに対し、『共同体の規則』は不定法を多用することで、話し手と聴衆との関係が不明な、高度に非人称化された規範的な語り口になっている。また、『ダマスコ文書』が内部のメンバーを励ましていたのに対し、『共同体の規則』は外部の人間を内部の人間に変化されることを目的としていた。
また『ホダヨット(感謝の詩篇)』は、義の教師本人か共同体の誰かによって書かれたものと考えられる。この文書は、第一に、一人称単数で書かれており、第二に、他の登場人物がいなく、たった一人の声で書かれており、そして第三に、話し手の主観が見られることなどから、話し手が義の教師に対して親近感を抱き、受け入れるような修辞的な工夫が施されていると言える。そのために、敵対者をこき下ろし、自らを被害者として描くことも忘れてはいない。
以上より、言語はセクト的共同体を作り、また維持するための生き生きとした道具であった。注意深く言葉を用いることで、アウトサイダーをインサイダーに変え、すでにインサイダーである人々のアイデンティティを強めることができた。修辞批評を死海文書に用いることは、文学批評のみならず、科学的アプローチ、祭儀研究、そして神学研究にも役立つだろう。
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