- John J. Collins, Beyond the Qumran Community: The Sectarian Movement of the Dead Sea Scrolls (Grand Rapids, Michigan: Eerdmans, 2010), pp. 12-51.
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『ダマスコ文書』は、全イスラエルに適用されるモーセ律法に関心を持っているが、一方で、その律法が正しく守られていないことに不満を持つエリート集団にも関心を持っている。それはたとえば、共同体の指導者である、祭司、レビ人、監査人(メバケル)、教授者(マスキール)などである。彼らは、トーラーそのものは全イスラエルに明らかにされているが(ニグラー)、その真の意味は隠されている(ニスタル)と考えていた。こうした厳格な律法解釈への回帰の宣言としては、エズラ・ネヘミヤの宗教改革が比較されうる。『ダマスコ文書』にとって、独身主義は必須事項ではなかった。また終末待望論もその特徴といえるが、それはキリスト教におけるような実際のメシアの来臨を期待するものではなかった。『ダマスコ文書』には歴史的記述がほとんど見受けられない。わずかながらクロノロジーを描いているところも、字義通りに読むよりも、シンボリックな意味として取るべきである。
「新しい契約」という概念に関して、『ダマスコ文書』は『エノク書』、ダニエル書、『ヨベル書』、『偽ダニエル書』などと比較されている。クムランから発見されている『エノク書』と『ヨベル書』に関していえば、『エノク書』よりも『ヨベル書』の方が、364日の太陽暦などについて、より『ダマスコ文書』との共通性を持っている。また死海文書中の文書で言えば、『神殿巻物』(11QT)と『ダマスコ文書』とは並行の記事を持っている。L.H. Schiffmanは『ダマスコ文書』『神殿巻物』『律法儀礼遵守論』とに反映している律法伝承はサドカイ派に端を発するものだと述べている。これらは明白にパリサイ派の律法理解とは異なっている。そもそも『ダマスコ文書』は、S. Schechterによってサドカイ派の文書であると考えられていたが、それは文書中にしばしば「ツァドクの息子たち」という言及があるからである。しかし、この「ツァドクの息子たち」という用語はイスラエルの選ばれた者たちを示す敬称であるとされている。いずれにせよ、このセクト運動には、エルサレムの神殿を汚れたものと考える祭司が関わっていたと考えられる。一方で、「嘘の者たち」という名称は、クムランの運動を受け入れることを拒んだ、いずれパリサイ派となっていく者たちのことを指している。こうしたことが明らかになっているとはいえ、この時点で筆者はクムラン共同体が必ずしもエッセネ派であるとは限らないと留保している。
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