- Beth A. Berkowitz, "Allegory and Ambiguity: Jewish Identity in Philo's De Congressu," Journal of Jewish Studies 61 (2010): 1-17.
近年では、ローマ帝国におけるユダヤ人の少数派としてのアイデンティティの文脈からフィロンを論じる研究者がいる(Koen Goudriaan, Katell Berthelot, Maren Niehoff, Ellen Birnbaum, Sarah J.K. Pearceなど)。そのときに問題となるのは、フィロンが民族的な問題について語っているのが哲学的あるいは釈義的著作においてであるため、そこに出てくる民族描写が聖書によるものと、フィロン自身の時代によるものの両方になってしまっているということである。論文著者はそれでもなお、フィロンの釈義はアイデンティティの思想について実際に役に立つと考えている。
レビ18:1-5では、神がモーセに対し、イスラエルの人々はエジプトやカナンの風習に倣ってはならず、「私の法を行い、私の掟に従って」歩むように教えよと語っている。この箇所がフィロン『予備教育』85-88において、創世記16:3との関わりの中で解釈されている。創世記の同箇所では、サライがアブラムにハガルを側女として与えたのはカナンの地に住んで10年経ってからとされているが、それはフィロンによれば、生まれたての魂は情念に支配されており、それが青年期になって徳と悪徳を知るが、そこから徳を選ぶまでに10年かかることを示しているのだという。そしてフィロンはレビ記のエジプトが情念の子ども時代を、カナンが悪徳の青年時代を表していると説明する。フィロンはエジプトからカナンへという時系列の流れを、人間の魂の発展の時系列になぞらえている。彼はエジプトやカナンを否定しているのではく、それぞれを魂の感情的、倫理的、知的、霊的な発展のフェーズだと考えている。
レビ記を通して創世記を解釈するというのは興味深いが、ではレビ記にもともと書かれている社会的な分離主義についてはどうだろうか。結局のところ、十全に発展した魂とはユダヤ教の聖書を信奉する者(=ユダヤ人)のことで、未発達の魂とはそうではない者(=他の皆)のことなのか。この箇所は文献学的にも曖昧な点がある。校訂テクストはエジプトやカナンの「習慣(エセー)」を憎むと読むが、他の写本には「民族(エスネー)」を憎むと読むものがあり、その場合は特定の民族が情念と悪徳に染まっているためにその民族と関係を持ってはならないという文脈になる。つまり、フィロンがここで倫理的なエリートと烏合の衆を区別するための純粋に哲学的なディスコース(philosophical elitism)を展開しているのか、イスラエルと他の諸民族を区別するための聖書的なディスコース(Jewish elitism)を展開しているのか、あるいはその両方なのか、不明瞭である。
David Winstonは、フィロンの論述に曖昧な点があるとき、それは彼の思想に何らかの緊張関係があることを示すことがあると指摘している。Steven Weitzmanが言うように、曖昧な証拠は必ずしも証拠の曖昧さではないのである。『予備教育』における緊張関係は、ギリシア文化の核であるパイデイアをユダヤ教聖書のために必要なものであると説く、ということであった。ギリシア的教養はアレクサンドリアのユダヤ人が社会に参入するために必要なものであったが、フィロンはそれだけでなく、ギリシア的教養とはユダヤ教の神を賛美するための自制心を涵養する哲学に至るために必要なものだと考えた。いわばギリシア的教養をユダヤ化・スピリチュアル化したのである。
そのためにギリシア的教養をハガルに重ねることで、その外部性を強調した。ただし、フィロンは、こうした解釈の下敷きにしている「ペネロペーとそのメイド」(『オデュッセイア』)のギリシア的寓意をより洗練させている。つまりフィロンはギリシアの古典的な物語を聖書の寓意的解釈に用いることで、ギリシア的教養が聖書の教えに必要なものであると説明している。しかもギリシア的習慣をユダヤ的生活に統合するための鍵となるのは、レビ記という五書の中でも最も分離主義的な記述なのである。フィロンはギリシア文化を覆そうとしているとも取れるし、認めているとも取れる。
他の緊張関係としては、聖書のエジプトとフィロン自身のエジプトが挙げられる。フィロンはしばしばエジプトを肉体や情念の象徴と捉える。それゆえに出エジプトとは不完全な知から完全な知への魂による旅ということになる。しかし、フィロンはエジプト出身でもある。彼は同時代のエジプト人を知っており、彼らを、ユダヤ人、ギリシア人、ローマ人とは異なる土着の民族グループと考えている。それだけでなく、無神論者、欺瞞的、好色、反逆的、非宥和的など、深刻な政治的な敵として描くこともある。ただし、このレビ記の解釈においては、同時代の民族的次元は哲学的な次元の背景に退き、表面には出てこない。またフィロンによるエジプトの寓意的な解釈は聖書のみならず、ギリシア・ラテン文学に由来する場合もある。
アレクサンドリアのユダヤ人は、自らの神理解、律法遵守、共同体の感覚を、この都市の文化への参加へと統合してきた。そういう観点から、フィロンのエジプト人の扱い方(の悪さ)は、アレクサンドリアのユダヤ人を特権的なギリシア・ローマ市民に連ならせ、一方でエジプト人の下層階級から引き離そうとするものだったといえる。一方で、レビ記18章に見られる、ユダヤ人とその他との境界線も、当時のアレクサンドリアの脆弱な政治状況から鑑みれば重要なものだった。
初期のフィロン研究者はフィロンをめぐって、ギリシア的価値対ユダヤ的価値の二項対立に落とし込むことが多かった(Heinrich Graetz, Harry Wolfsonら)。近年の研究者は、普遍主義(universalism)対党派主義(particularism)にした上で、フィロンの思想は両方のコンビネーションだと論じる(Samuel Sandmel, Koen Goudriaan, Ellen Birnbaum, Peder Borgenら)。
フィロンが寓意を使うのは、寓意的解釈のみに権威を持たせるためではなく、他の可能性のある読みの地位を隠すための曖昧な動きなのである。レビ記の分離主義的な意味合いは、アレクサンドリアのユダヤ人を政治的に脅かすものであるため、思想的に彼の好みではなかった。しかし、それを曖昧に寓意的に解釈することで、厳格なユダヤ人読者には、社会的な分離主義という聖書の遺産を護持しつつも文化的な統合を促進しているように見える。一方で、より厳格でないユダヤ人や異教徒の読者には、民族的な排外主義をスキップして潜在的に包括的な哲学的観点を与えることができるのである。
レビ18:1-5では、神がモーセに対し、イスラエルの人々はエジプトやカナンの風習に倣ってはならず、「私の法を行い、私の掟に従って」歩むように教えよと語っている。この箇所がフィロン『予備教育』85-88において、創世記16:3との関わりの中で解釈されている。創世記の同箇所では、サライがアブラムにハガルを側女として与えたのはカナンの地に住んで10年経ってからとされているが、それはフィロンによれば、生まれたての魂は情念に支配されており、それが青年期になって徳と悪徳を知るが、そこから徳を選ぶまでに10年かかることを示しているのだという。そしてフィロンはレビ記のエジプトが情念の子ども時代を、カナンが悪徳の青年時代を表していると説明する。フィロンはエジプトからカナンへという時系列の流れを、人間の魂の発展の時系列になぞらえている。彼はエジプトやカナンを否定しているのではく、それぞれを魂の感情的、倫理的、知的、霊的な発展のフェーズだと考えている。
レビ記を通して創世記を解釈するというのは興味深いが、ではレビ記にもともと書かれている社会的な分離主義についてはどうだろうか。結局のところ、十全に発展した魂とはユダヤ教の聖書を信奉する者(=ユダヤ人)のことで、未発達の魂とはそうではない者(=他の皆)のことなのか。この箇所は文献学的にも曖昧な点がある。校訂テクストはエジプトやカナンの「習慣(エセー)」を憎むと読むが、他の写本には「民族(エスネー)」を憎むと読むものがあり、その場合は特定の民族が情念と悪徳に染まっているためにその民族と関係を持ってはならないという文脈になる。つまり、フィロンがここで倫理的なエリートと烏合の衆を区別するための純粋に哲学的なディスコース(philosophical elitism)を展開しているのか、イスラエルと他の諸民族を区別するための聖書的なディスコース(Jewish elitism)を展開しているのか、あるいはその両方なのか、不明瞭である。
David Winstonは、フィロンの論述に曖昧な点があるとき、それは彼の思想に何らかの緊張関係があることを示すことがあると指摘している。Steven Weitzmanが言うように、曖昧な証拠は必ずしも証拠の曖昧さではないのである。『予備教育』における緊張関係は、ギリシア文化の核であるパイデイアをユダヤ教聖書のために必要なものであると説く、ということであった。ギリシア的教養はアレクサンドリアのユダヤ人が社会に参入するために必要なものであったが、フィロンはそれだけでなく、ギリシア的教養とはユダヤ教の神を賛美するための自制心を涵養する哲学に至るために必要なものだと考えた。いわばギリシア的教養をユダヤ化・スピリチュアル化したのである。
そのためにギリシア的教養をハガルに重ねることで、その外部性を強調した。ただし、フィロンは、こうした解釈の下敷きにしている「ペネロペーとそのメイド」(『オデュッセイア』)のギリシア的寓意をより洗練させている。つまりフィロンはギリシアの古典的な物語を聖書の寓意的解釈に用いることで、ギリシア的教養が聖書の教えに必要なものであると説明している。しかもギリシア的習慣をユダヤ的生活に統合するための鍵となるのは、レビ記という五書の中でも最も分離主義的な記述なのである。フィロンはギリシア文化を覆そうとしているとも取れるし、認めているとも取れる。
他の緊張関係としては、聖書のエジプトとフィロン自身のエジプトが挙げられる。フィロンはしばしばエジプトを肉体や情念の象徴と捉える。それゆえに出エジプトとは不完全な知から完全な知への魂による旅ということになる。しかし、フィロンはエジプト出身でもある。彼は同時代のエジプト人を知っており、彼らを、ユダヤ人、ギリシア人、ローマ人とは異なる土着の民族グループと考えている。それだけでなく、無神論者、欺瞞的、好色、反逆的、非宥和的など、深刻な政治的な敵として描くこともある。ただし、このレビ記の解釈においては、同時代の民族的次元は哲学的な次元の背景に退き、表面には出てこない。またフィロンによるエジプトの寓意的な解釈は聖書のみならず、ギリシア・ラテン文学に由来する場合もある。
アレクサンドリアのユダヤ人は、自らの神理解、律法遵守、共同体の感覚を、この都市の文化への参加へと統合してきた。そういう観点から、フィロンのエジプト人の扱い方(の悪さ)は、アレクサンドリアのユダヤ人を特権的なギリシア・ローマ市民に連ならせ、一方でエジプト人の下層階級から引き離そうとするものだったといえる。一方で、レビ記18章に見られる、ユダヤ人とその他との境界線も、当時のアレクサンドリアの脆弱な政治状況から鑑みれば重要なものだった。
初期のフィロン研究者はフィロンをめぐって、ギリシア的価値対ユダヤ的価値の二項対立に落とし込むことが多かった(Heinrich Graetz, Harry Wolfsonら)。近年の研究者は、普遍主義(universalism)対党派主義(particularism)にした上で、フィロンの思想は両方のコンビネーションだと論じる(Samuel Sandmel, Koen Goudriaan, Ellen Birnbaum, Peder Borgenら)。
フィロンが寓意を使うのは、寓意的解釈のみに権威を持たせるためではなく、他の可能性のある読みの地位を隠すための曖昧な動きなのである。レビ記の分離主義的な意味合いは、アレクサンドリアのユダヤ人を政治的に脅かすものであるため、思想的に彼の好みではなかった。しかし、それを曖昧に寓意的に解釈することで、厳格なユダヤ人読者には、社会的な分離主義という聖書の遺産を護持しつつも文化的な統合を促進しているように見える。一方で、より厳格でないユダヤ人や異教徒の読者には、民族的な排外主義をスキップして潜在的に包括的な哲学的観点を与えることができるのである。
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