- Daniel R. Schwartz, "Philo, His Family, and His Times," in Cambridge Companion to Philo, ed. Adam Kamesar (Cambridge: Cambridge University Press, 2009), 9-31.
The Cambridge Companion to Philo (Cambridge Companions to Philosophy) (English Edition)
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Cambridge University Press (2009-04-20)
人生に悲観的な哲学者にありがちなことであるが、フィロンの生涯についてはあまりわからない。彼は自分自身についてはあまり語らないので、ヨセフスや初期教父文学(エウセビオスやヒエロニュムス)らの証言が重要である。ヨセフスはフィロンの弟と甥の名前を伝えている。
フィロンは38/39年にアレクサンドリアのユダヤ人問題を陳情するために使節団を率いて皇帝ガイウス・カリグラに謁見している。そのとき自分のことを「老人」と表現しており、別のところで老人とは57歳以上と述べているので、逆算して前20-10年頃の生まれと考えられる。その死は、クラウディウス帝の催しを暗示していることから41年より前ではない。
ヨセフスと異なり自らの出自については語っていないが、ヒエロニュムスによると祭司の家系であるという。個人的なこともまるでわからない。都市への軽蔑を口にするが、これはおそらく貴族的な特権を持つ者のスノビッシュな発言であろう。
フィロンの弟アレクサンデルは輸入品の関税を徴税する役人であった。彼はその他にも貿易の仕事で成功し、巨額の富を築いた。ヨセフスによれば、アレクサンデルはその富をエルサレム神殿の建設のために寄進したという。皇帝やユダヤの王族の者たちとの関係も深かった。アグリッパの娘はアレクサンデルの息子マルクスと結婚した。アレクサンドリアのユダヤ人迫害のきっかけであるアグリッパ1世の同市訪問の際にはホストを務めた。
アレクサンデルの息子でありフィロンの甥であるティベリウス・ユリウス・アレクサンデルはさらなる有名人だった。ローマ社会で成功するために、彼はユダヤ教的なアイデンティティを捨ててしまった。そのためフィロンは『動物論』などにユリウスを対話相手として登場させ、ユダヤ教への回帰を促した。ユリウスはテーバイ地方総督やユダヤ総督などを努めたあと、ネロ帝のもとではエジプト総督にまで登りつめた。そしてユダヤ戦争の際にはティトゥス帝の腹心としてエルサレム攻略に加担した。
フィロンの時代のユダヤ社会は、プトレマイオス朝期の平穏さからローマ時代の混乱への過渡期を迎えていた。その中でアレクサンドリアのユダヤ社会は繁栄し、市の5区画のうち2区画がユダヤ地区と呼ばれるほどの人口を誇った。ユダヤ人はそこで「ポリテウマ」と呼ばれる自治共同体を作った。そこでは先祖伝来の律法に基づいた生活が許され、ゲルーシアと呼ばれる自治的な議会が存在した。
アレクサンドリアの宗教生活の中心はシナゴーグであり、そこではユダヤ人の子弟に知恵や諸徳を教える教育が施されてもいた。一方で多くのユダヤ人はヘレニズム文化も受け入れていたので、市中のギュムナシオンで体育や教養諸学といった二次的な教育を受けた。フィロンの修辞的能力や運動イメージの好みはここで醸成されたものであろう。
このようにプトレマイオス朝期のアレクサンドリアのユダヤ人は平穏な生活を享受したが、ローマ時代になるとアピオーンのような反ユダヤ文学が書かれるようになり、それが38年の暴力的な事件や66年の反乱へとつながっていく。プトレマイオス朝期にはギリシア人、ユダヤ人、エジプト人という3つの社会的階層が秩序を作り、ユダヤ人は外国からの「客」としてギリシア人から大事にされていたのに対し、ローマ時代にはローマ人の下でその秩序が失われてしまったのである。その結果、ユダヤ人の多くがローマ支配を受け入れると、そのことがギリシア人からの反感を買った。そしてユダヤ人がそうしたギリシア人から守ってもらおうとさらにローマ人に近づくと、ギリシア人のさらなる反感を呼ぶという悪循環となった。
ローマに対するユダヤ人の態度には3つの方法があった。第一に、ローマ支配を受け入れ、同時にユダヤ人としての地位をあきらめるというもの。これはちょうどユリウスの態度である。彼はローマ軍のエルサレム攻略の際に神殿を保存するか破壊するかを投票で決める際に、破壊する方に票を投じたという。第二は、ローマ支配を拒否し、反乱を起こすというもの。しかしアレクサンドリアのユダヤ人がこの方法を採ったという証言は残されていない。第三は、ローマ支配を受け入れ、ユダヤ出身のユダヤ人であることはやめるが、超越的なユダヤ教を信奉するというもの。これは新約聖書やフィロンの立場である。
第三の立場はヘレニズム期のディアスポラのユダヤ人たちの特徴である。ここで重要なのは、ユダヤの地およびエルサレムの神殿の重要性を低く捉えるという視点である。この視点は『第二マカベア書』、『アリステアスの手紙』、偽ヘカタイオス、『ソロモンの知恵』に見られる。ユダヤの重要性が下がれば、ローマに反対する必要がなくなるのである。
ただし、フィロンはユダヤや神殿に対して肯定的に語ることもあれば否定的に語ることもある。結局フィロンの真の立場は、ガイウスが自分の彫像をエルサレム神殿に建立するという決定をあくまでローマ人の視点から冷静にロジカルに語っているところから分かるだろう。彼はこの出来事に対するユダヤ人の反応を正当化しようとはしない。結局のところあまりに多くのユダヤ人が第一の立場を取り、第三の立場のような非一貫した立場を取りたがらなかったばかりに悲劇が起こってしまった。しかしフィロンは「ユダヤ人であること」を場所と関わらせず、心の中の問題にすることで、ローマと生きる方法を模索したのだった。
フィロンは38/39年にアレクサンドリアのユダヤ人問題を陳情するために使節団を率いて皇帝ガイウス・カリグラに謁見している。そのとき自分のことを「老人」と表現しており、別のところで老人とは57歳以上と述べているので、逆算して前20-10年頃の生まれと考えられる。その死は、クラウディウス帝の催しを暗示していることから41年より前ではない。
ヨセフスと異なり自らの出自については語っていないが、ヒエロニュムスによると祭司の家系であるという。個人的なこともまるでわからない。都市への軽蔑を口にするが、これはおそらく貴族的な特権を持つ者のスノビッシュな発言であろう。
フィロンの弟アレクサンデルは輸入品の関税を徴税する役人であった。彼はその他にも貿易の仕事で成功し、巨額の富を築いた。ヨセフスによれば、アレクサンデルはその富をエルサレム神殿の建設のために寄進したという。皇帝やユダヤの王族の者たちとの関係も深かった。アグリッパの娘はアレクサンデルの息子マルクスと結婚した。アレクサンドリアのユダヤ人迫害のきっかけであるアグリッパ1世の同市訪問の際にはホストを務めた。
アレクサンデルの息子でありフィロンの甥であるティベリウス・ユリウス・アレクサンデルはさらなる有名人だった。ローマ社会で成功するために、彼はユダヤ教的なアイデンティティを捨ててしまった。そのためフィロンは『動物論』などにユリウスを対話相手として登場させ、ユダヤ教への回帰を促した。ユリウスはテーバイ地方総督やユダヤ総督などを努めたあと、ネロ帝のもとではエジプト総督にまで登りつめた。そしてユダヤ戦争の際にはティトゥス帝の腹心としてエルサレム攻略に加担した。
フィロンの時代のユダヤ社会は、プトレマイオス朝期の平穏さからローマ時代の混乱への過渡期を迎えていた。その中でアレクサンドリアのユダヤ社会は繁栄し、市の5区画のうち2区画がユダヤ地区と呼ばれるほどの人口を誇った。ユダヤ人はそこで「ポリテウマ」と呼ばれる自治共同体を作った。そこでは先祖伝来の律法に基づいた生活が許され、ゲルーシアと呼ばれる自治的な議会が存在した。
アレクサンドリアの宗教生活の中心はシナゴーグであり、そこではユダヤ人の子弟に知恵や諸徳を教える教育が施されてもいた。一方で多くのユダヤ人はヘレニズム文化も受け入れていたので、市中のギュムナシオンで体育や教養諸学といった二次的な教育を受けた。フィロンの修辞的能力や運動イメージの好みはここで醸成されたものであろう。
このようにプトレマイオス朝期のアレクサンドリアのユダヤ人は平穏な生活を享受したが、ローマ時代になるとアピオーンのような反ユダヤ文学が書かれるようになり、それが38年の暴力的な事件や66年の反乱へとつながっていく。プトレマイオス朝期にはギリシア人、ユダヤ人、エジプト人という3つの社会的階層が秩序を作り、ユダヤ人は外国からの「客」としてギリシア人から大事にされていたのに対し、ローマ時代にはローマ人の下でその秩序が失われてしまったのである。その結果、ユダヤ人の多くがローマ支配を受け入れると、そのことがギリシア人からの反感を買った。そしてユダヤ人がそうしたギリシア人から守ってもらおうとさらにローマ人に近づくと、ギリシア人のさらなる反感を呼ぶという悪循環となった。
ローマに対するユダヤ人の態度には3つの方法があった。第一に、ローマ支配を受け入れ、同時にユダヤ人としての地位をあきらめるというもの。これはちょうどユリウスの態度である。彼はローマ軍のエルサレム攻略の際に神殿を保存するか破壊するかを投票で決める際に、破壊する方に票を投じたという。第二は、ローマ支配を拒否し、反乱を起こすというもの。しかしアレクサンドリアのユダヤ人がこの方法を採ったという証言は残されていない。第三は、ローマ支配を受け入れ、ユダヤ出身のユダヤ人であることはやめるが、超越的なユダヤ教を信奉するというもの。これは新約聖書やフィロンの立場である。
第三の立場はヘレニズム期のディアスポラのユダヤ人たちの特徴である。ここで重要なのは、ユダヤの地およびエルサレムの神殿の重要性を低く捉えるという視点である。この視点は『第二マカベア書』、『アリステアスの手紙』、偽ヘカタイオス、『ソロモンの知恵』に見られる。ユダヤの重要性が下がれば、ローマに反対する必要がなくなるのである。
ただし、フィロンはユダヤや神殿に対して肯定的に語ることもあれば否定的に語ることもある。結局フィロンの真の立場は、ガイウスが自分の彫像をエルサレム神殿に建立するという決定をあくまでローマ人の視点から冷静にロジカルに語っているところから分かるだろう。彼はこの出来事に対するユダヤ人の反応を正当化しようとはしない。結局のところあまりに多くのユダヤ人が第一の立場を取り、第三の立場のような非一貫した立場を取りたがらなかったばかりに悲劇が起こってしまった。しかしフィロンは「ユダヤ人であること」を場所と関わらせず、心の中の問題にすることで、ローマと生きる方法を模索したのだった。
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