ページ

2019年10月26日土曜日

「たとえの書」とクムラン党派テクスト Dimant, "The Book of Parables and the Qumran Community Worldview"

  • Devorah Dimant, "The Book of Parables (1 Enoch 37-71) and the Qumran Community Worldview," in eadem, From Enoch to Tobit: Collected Studies in Ancient Jewish Literature (Forschungen zum Alten Testament 114; Tübingen: Mohr Siebeck, 2017), 139-55.

「たとえの書」は唯一クムランから出てきていないエノク文書である。同書はメシア的存在に関する描写や「人の子」表現など、他のエノク文書と異なっている。これらは福音書のイエスの表現に近いので、初期キリスト教の研究者からの注目を引いてきた。Jozef Milikは「たとえの書」がキリスト教由来であると主張したが、それは研究者たちからは受け入れられず、今日では一般にユダヤ教由来であると見なされている。またもともとセム語で書かれていたことも明らかである。Nathaniel SchmidtやEdward Ullendorffらは、セム語原典が直接エチオピア語に訳されたと主張するが、多くの研究者はセム語原典からギリシア語に訳され、それからエチオピア語に訳されたと考えている。

「たとえの書」がユダヤ教由来であるとすると、それはイエスが「人の子」と見なされるようになる前に書かれたと考えるのが自然である。「人の子」概念がすでにキリスト教化されていたら、ユダヤ教作家はそうした表現を避けたはずだからである。同時に、エルサレム神殿の崩壊にまったく言及していないことから、同書はそれより前に書かれたとも考えられる。それゆえに、後1世紀の前半に書かれたと考えるのが適当である。さらに、56:5-7におけるパルティア人の侵攻と67:5-13のヘロデ王の湯治に関する記述にも基づくと、「たとえの書」は紀元後すぐか少しあとに書かれたといえる。ユダヤ教黙示文学やエノク諸書との近さから、同書はイスラエルの地で書かれた。

Jonas Greenfieldは、「たとえの書」が太陽と月を同価値と見なしていることや、太陽暦との不調和から、同書とクムラン共同体との関係の可能性を除外した。しかし、死海文書研究が進み、クムランの暦がさらに出版されると、クムラン共同体が月の重要性も認め、1年を364日とする太陰太陽暦にも従っていることが明らかになった(Jonathan Ben-Dov)。それゆえに、「たとえの書」とクムラン共同体との関係性を否定する必要はない。

「たとえの書」がクムランから発見されないことの理由は、共同体の文学活動の最盛期が前2世紀から前1世紀であるため、後1世紀に書かれた同書が筆写されなかったのだろうと考えられる。しかしながら、「たとえの書」の著者が党派的な世界観や文学に精通していたことははっきりしている。それはたとえば、「たとえの書」に頻出する「諸霊の神(エル・ハルホット)」という表現と、「すべての霊の主(アドーン・レコール・ルーアハ)」(感謝の詩篇)や「諸霊(ルホット)」という表現の類似から見て取れる。メシアたる「人の子」という像も「たとえの書」の独創ではなく、第二神殿時代のユダヤ文学に根ざしたものである(「ベラホット」、「メルキツェデク・ペシェル」、「メシア的黙示」など)。

論文著者は、こうした成果を受けて、さらに「たとえの書」と死海文書を詳細に比較する。たとえば、エノクの祈り(39:10-13)を他のエノク文書や、『ダマスコ文書』、『感謝の詩篇』などの定式と比較する。すると、エノクの祈りでは、神の全知全能が空間的なものでなく、時間的なものとして描かれていることが分かる。またエノクの祈りでは神の予定説的な計画ははっきりとは表現されていないが、その概念は神の根源的かつ包括的な知識という観念にすでに埋め込まれている。

また神への賛美の祈りは、寝ずの番人たる天使によって述べられるケドゥシャーの祈りで締めくくられる。エノクのケドゥシャーはイザ6:3の「聖なる、聖なる、聖なるかな」の呼びかけを含むが、のちにヨツェルの祝祷やアミダーの祈りに組み込まれるユダヤ祈祷の一部分であるエゼ3:12による応答は欠いている。またヨツェルの祝祷にある朝の光とのつながりはなく、アミダーの祈りにおける日課にもなっていない。それゆえに、エノクの祈りは「たとえの書」が書かれたときのユダヤ祈祷にケドゥシャーが使われていたことの証拠を提供するわけではない。とはいえ、エノクの祈りと党派的な祈りの形式は第二神殿時代の共通の伝承の反映であって、前者の後者への依拠を示さない。しかし、類似点は確かに見受けられる。

義人の未来(58:2-6)についての記述は、永遠の生、永遠の光の中での存在、神の前での義といった要素を含む。義人への報いとしての永遠の生の概念は、ダニ12:2や『共同体の規則』などにも見られるこの時代の一般的なものである。義人には未来における至福が待っているという概念も、ダニエル書や『ソロモンの知恵』などに見られる。ただし、「たとえの書」は光に対して闇の存在を対置させているところに特徴がある。悪と善の時代、闇と光における実現といった対比がはっきりと打ち出されている。乾いた土地に朝の光が昇り、闇を取り去るという類比も多用されている。また「真実(エメト)」こそが光の子らを特徴付けるというのも、クムラン共同体と似た点である。

「たとえの書」にはクムランの用語はまったく見られないが、さまざまな点で近い関係にあることが明らかになった。それゆえに、「たとえの書」はクムラン共同体とは異なるが近いサークルによって作られたものと見なすべきである。

2019年10月24日木曜日

「たとえの書」の成立時期 Knibb, "The Date of the Parables of Enoch"

  • Michael A. Knibb, "The Date of the Parables of Enoch: A Critical Review," in id., Essays on the Book of Enoch and Other Early Jewish Texts and Traditions (Studia in Veteris Testamenti Pseudepigrapha 22; Leiden: Brill, 2009), 143-60.

Essays on the Book of Enoch and Other Early Jewish Texts and Traditions (STUDIA IN VETERIS TESTAMENTI PSEUDEPIGRAPHA)
Michael A. Knibb
Brill Academic Pub
売り上げランキング: 2,560,649

J.T. Milikが提起した諸問題のうち、「たとえの書」の成立時期に関するものは最も重要なもののひとつである。多くの研究者は「たとえの書」を後70年以前のユダヤ教由来の文書と考えるが、Milikはそれをキリスト教由来でありかつ後270年の成立と考える。

この主張の根拠には否定的な側面と肯定的な側面がある。否定的な側面としては、クムランから「たとえの書」が発見されなかったのはキリスト教時代より前には存在しなかったから、とMilikは考えた。またMilikによれば、1世紀から4世紀のキリスト教作家が「たとえの書」をまったく引用していないのは、それがキリスト教初期の作品ではないからだという。ここからMilikは、5世紀にはギリシア語訳のエノク伝承はクムランと同じように2巻本として回覧されていたが、「たとえの書」ではなく「巨人の書」が入っていたと主張する(「巨人の書」はビザンツ歴史家シュンケッロスのソースも持っていた)。

しかし、論文著者によれば、ギリシア語訳のエノク伝承がクムランでのように2巻本で読まれていたというMilikの主張の証拠は弱い。また5世紀に「天文の書」が独立した文書として存在したかどうかについては、シュンケッロスの暗示的記述とオクシュリンコス・パピルスの断片が証拠として挙げられるが、確実でない。言い換えると、われわれは『エノク書』がどのようにして現在のエチオピア語訳のような形式を獲得したのかも、いつ「たとえの書」が挿入されたのかもよく分からない。また「たとえの書」がエッセネ派文書ではなさそうであるからといって、それがキリスト教文書であると結論付けることはできない。

一方で、Milikによる肯定的な側面からの説明としては、「たとえの書」の文学形式がキリスト教文書である『シビュラの託宣』に極めて近いことが明らかである。Milikは2つの類似点を挙げる。第一に、『エノク書』61:6は『シビュラ』2.233-7に依拠している。第二に、『シビュラ』5.104-10は「たとえの書」56:5-7について論者に影響を及ぼした。後者の箇所については、「パルティア人とメディア人」に関する記述は、Milikによると、実は260-70年に起こったパルティア人対ローマ人の戦争のことを示しているのだという。ここから「たとえの書」の成立もその頃とMilikは考えた。

ところが、論文著者はこれらの肯定的な側面からの証拠も確かではないと述べる。『エノク書』と『シビュラ』の間に存在する類似点は、前者が後者に依拠していることを示すために十分なものではない。そもそも論文著者は両者が文学的ジャンルにおいて近いということすら認めていない。そして「パルティア人とメディア人」の記述についても、まったく別の解釈が可能だと論じている。たとえば、『エノク書』56:7にある「右」という記述をMilikは「西」と読み、それゆえにこれはパルミラ人を指すと解釈するが、一般的な理解では「右」は「南」と読み替えるべきである(サム上23:19)。

以上から、「たとえの書」が270年頃に成立したキリスト教文書であるというMilikの主張は説得的であるとはいえない。キリスト教文書であるなら、キリストへの言及がないのは理解しがたい。むしろ同書ははっきりとユダヤ文書だと考えられる。その理由は、第一に、「たとえの書」はヘブライ語であるかアラム語であるかはともかく、はっきりとセム語で書かれている特徴があるからである(たとえば45:3、52:9)。そして第二に、内容的にユダヤ的な特徴があるからである。J. Theisohnによる「人の子」伝承に関する研究によると、この表現はイザ11:1や詩110など旧約聖書に基づくものであり、「たとえの書」もその延長線上にある。

上でも触れた『エノク書』56:5-8の「パルティア人とメディア人」への言及は、年代特定のために重要なものだが、これを基にして算定される「たとえの書」の成立は、Robert H. Charlesによると前64年以前、Erik Sjoebergによると前40-37年以前、そしてMilikによると後3世紀であるという。さらに、論文著者が長く紹介しているJohn C. Hindleyによると、113-17年のトラヤヌス帝のパルティア人遠征を指しているという。論文著者はHindleyの年代特定には同意しているが、その議論はあまり説得的でないと感じている。というのも、Hindleyが年代を特定する際に依拠している『シビュラ』の年代が不明だからである。しかし、それが間違っていると証明することもできない。すなわち、「たとえの書」の年代特定のために56:5-8の記述を用いることがそもそも間違っているのである。

研究者の中には、新約聖書の多くの表現が「たとえの書」に直接依拠したものだと考える者がいるが、論文著者はこのアプローチにも懐疑的である。Charlesはそうした影響関係のリストを作成しているが、思想や言語の一般的な類似がほとんどである。論じるに値するのは黙6:15-16(と『エノク書』62:3-5)である。両者は共通のテーマを持っているように見えるが、本当の接触があるとは言いがたい。Theisohnのように、直接的な影響関係を論じるのではなく、別の伝承の層を別々に検証するべきである。Theisohnはさらに、マタ19:28(と『エノク書』9:4)とマタ13:40-43(と『エノク書』54:6, 39:7, 58:3)などを比較している。しかし、論文著者はいずれも「たとえの書」との特定の影響関係を見出していない。

こうした議論をまとめたあと、論文著者は、「たとえの書」の成立時期を本当の意味で特定することは不可能だが、バランスを取って考えると、後1世紀の終わり頃と考えることができると主張する。第一に、Sjoebergのように、エルサレム陥落がその中に書かれていないから「たとえの書」は70年以前に成立したに違いないという主張は受け入れがたい。一方で、クムランから出てきていないという事実からは、「たとえの書」はクムランが放棄されたあとに書かれた可能性が高いといえる。第二に、「人の子」表現は後1世紀の終わり頃に用いられたと考えるのが自然である。それは、その頃に成立したことが分かっている『第二エズラ記』や『第二バルク書』から分かる。つまり、「たとえの書」はユダヤ戦争へのリアクションとして書かれたが、成立はそれよりあとのことだったということである。

2019年10月22日火曜日

エノク文学からエノク派ユダヤ教へ Boccaccini, "Introduction"

  • Gabriele Boccaccini, "Introduction: From the Enoch Literature to Enochic Judaism," in Enoch and Qumran Origins: New Light on a Forgotten Connection, ed. Gabriele Boccaccini (Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 2005), 1-14.

1773年、スコットランド人冒険家James Bruceが『エノク書』を再発見してから、研究者たちはその校訂版と近代語訳の出版に心血を注いできた。Richard Laurence, August Dillmann, Johannes Flemmingら19世紀の文献学者の仕事である。20世紀になると、Robert Henry Charlesが『エノク書』をより広いユダヤ黙示文学の文脈に位置づけた。外典・偽典に関心を持ったのが主としてキリスト教学者であったことから、『エノク書』研究も反ユダヤ主義や反セム主義に晒されたが、1947年にクムランで死海文書が発見されると、イエス運動がいかに第二神殿時代のユダヤ教に深く根付いたものだったかが認識されるようになった。

そして、死海文書中の『エノク書』断片を校訂したJosef Milikは、同書が複数の資料に基づく合成文書であり、また第二神殿時代のユダヤ教テクストと密接な関わりを持つことを強調した。これに触発されて、『エノク書』はたてつづけにイタリア語、スペイン語、ドイツ語、英語、フランス語に訳された。さらにJames VanderKamやJohn Collinsらの目視文学研究が発表された。

ここ20年ほどの間に起こった最も重要な発展は、『エノク書』研究がテクストそのものの分析から、テクストの背後のグループの知的・社会学的な特徴の分析へと強調点が移ったことである。『エノク書』は第二神殿時代における独特の思想運動の核となるテクストであることが明らかになった。こうした議論で特に重要な功績を挙げたのが、Paolo SacchiとGeorge Nickelsburgである。

Sacchiは『エノク書』が黙示文学ジャンルの原型であるばかりかユダヤ教の独特の多様性の核でもあることを指摘した。そしてエノク派運動を、第二神殿時代のユダヤ教や古代のユダヤ黙示主義というより広い文脈の中にある独特の黙示主義的な一派として描くという最初の試みをした。その際に、そうした知的運動のエッセンスが独特の悪の概念であると指摘したのもSacchiである。

Nickelsburgによれば、エノク派運動とはモーセのトーラーがまだ普遍的な規範ではなかったユダヤ教の一形態であるという。またエノク派的な思考システムでは、一方では、罪や悪の起源は、天上の争いの結果であり、人間はその犠牲者であるという完全な決定論に基づいたものであり(human victimization)、他方では、神の法を侵した人間にその原因があるという完全な非決定論に基づいたものでもある(human responsibility)という相矛盾した考え方が採られていた。Sacchiが知的な問題だけを取り上げていたのに対し、Nickelsburgはエノク派グループの社会学的な問題にも触れている。

我々はこのグループが実際にはどう呼ばれ、また自分たちをどう呼んでいたのか知らないが、エノク神話に関わる運動であることから、「エノク派ユダヤ教(Enochic Judaism)」と呼ぶのが適切であろう。Nickelsburgはこの伝統は上ガリラヤを起源とし、エルサレムの祭司制に不満を抱く集団だったと考えている。非協調主義、反ツァドク派、反祭司的などを特徴とする。

エノク派ユダヤ教は自律的であったが、一方で広い影響も及ぼしている。その影響は、特に『ヨベル書』『十二族長の遺訓』『アダムとエバの生』『第二エノク書』『アブラハムの黙示録』『第四エズラ記』などに見られる。そしてもちろん新興のキリスト教をかたちづくるためにも大きなインパクトを与えた。同時にラビ的教師やその共同体とは相容れないものでもあった。このエノク派ユダヤ教の再発見こそが疑いもなく現代の研究の最大の功績のひとつである。

2019年10月21日月曜日

『エノク書』の文学的分析 Dimant, "The Biography of Enoch"

  • Devorah Dimant, "The Biography of Enoch and the Books of Enoch," in eadem, From Enoch to Tobit: Collected Studies in Ancient Jewish Literature (Forschungen zum Alten Testament 114; Tübingen: Mohr Siebeck, 2017), 59-72.

『エノク書』研究はクムランにおけるアラム語断片の発見によって飛躍的に進展した。研究史の初期に、G.H. Dixはエチオピア語訳の『エノク書』は五つの文書からなるが、それらをひとつのコーパスとして見ることの重要性を訴えた。そしてエノク五書をトーラーの五書に関連付け、それらの似ている点を主張した。

クムラン断片の校訂者であるJozef MilikはこのDixの見解を取り入れ、エチオピア語訳のみならず、前100年頃のクムランでも五書形式のエノク文書が存在していたと主張した。この見解については、論文著者の博士論文をはじめ、Jonas C. Greenfield & Michael E. StoneやMichael A. Knibbらが反論を加えている(また「たとえの書」がキリスト教由来の3世紀後期の作であるというMilikの主張も同じ者らによって反論されている)。

Milikは、アラム語写本4Q204が「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」や「ノアに関する付加」までも含んでいることから、当時エノク文書を集める習慣があったことを論じている。さらに、クムランでは「たとえの書」の代わりに「巨人の書」が収録されたとMilikは主張する(「巨人の書」が書かれている4Q203はもともと4Q204の一部だったと彼は考えているが、この説はのちにLoren Stuckenbruckによって覆された)。ただし「天文の書」だけは長すぎるので別の写本に写されたという。論文著者はこうしたMilikの説には懐疑的である。五書形式に固執するあまり、「巨人の書」にその一翼を担わせるのは強引な説明である。『エノク書』のようなあまりに断片的な保存状態の作品を写本の形式からのみ語ることは不適切である。

そこで論文著者は、「『エノク書』とは似たような文書のよせあつめなのか、それとも確かなプランに基づいて集められ並べられたものなのか」という最も基本的な問いを立て、それを文学的な分析に基づいて検証している。そして結論を先取りするならば、『エノク書』とは、エノクの伝記という確かなテーマのために構築された統一的なコーパスであるという。

論文著者の文学的な分析の対象は、主に『ヨベル書』4:16-25と『エノク書』それ自体である。後者ではエノクについての記述がある。『ヨベル書』の記述は、創世記5:21-24においてエノクの生涯が三分割されていることに従っているが、エノクが彼の知恵や知識を書きとめ、それを伝えたという付加的な説明を加えている。また『ヨベル書』の記述は「天文の書」からの記述を含む4Q277と同じ伝承を保存している(これは『エノク書』と『ヨベル書』の文学的な依存関係を示しているわけではない)。

一方で『エノク書』それ自体の分析によると、「寝ずの番人の書」中の6-11章は残りの章とスタイルや意図があまりに違い、むしろ非偽典的な『創世記アポクリュフォン』『ヨベル書』『聖書古代誌』などに類似していることから、別の起源に由来するという。「天文の書」はエノクの旅からはじまって、彼の最終的な消失前の最後の行いまでを取り上げているので、「寝ずの番人の書」の次に来るべき内容を持っているといえる。「夢幻の書」は『ヨベル書』と同様に、父親から息子へと伝えられた過去の経験に基づく知恵と教えといった遺訓的な内容を持っている。「エノク書簡」も古典的な遺訓の形式を備えている。「ノアに関する補遺」は、エノクの地上での晩年から死後のことに言及している『ヨベル書』4:23-26に対応する内容を持っている。エノク文書の基礎的な選集はここまでで、エノクの行いと教えのあらすじを物語っていた。

「たとえの書」は他の文書に現れているようなエノクの伝記的パターンに従わない特徴を持っている。「たとえの書」が焦点を当てる2つのトピックは、第一に、擬人には褒美を、悪人には罰を与える裁きの日、そして第二に、天使たちとの旅においてエノクに明らかにされた場所の描写である。「たとえの書」に特徴的なのは、他のエノク文書であれば個別に扱われるトピックをつなげるという傾向である。他のエノク文書と違い、「たとえの書」は限定的な時代や単独のトピックに集中せず、エノクの生の完全な概観を目指している。こうした諸特徴は「たとえの書」の成立が比較的後代であったことを示している。「たとえの書」がクムランで発見されなかったことも考え合わせると、同書はアラム語原典コーパスにもともとあったものではなく、後から付加されたのだろう。

以上より、『エノク書』は確たるテーマと構造を持っていたといえる。それはエノクの行為や知恵の包括的な証言を伝えることである。構造的には、「寝ずの番人の書」「天文の書」「夢幻の書」「エノク書簡」および「補遺」が元来のかたちであり、「たとえの書」はのちに付加された。

2019年10月18日金曜日

J.T. Milikへの反論 Greenfield and Stone, "The Enochic Pentateuch and the Date of the Similitudes"

  • Jonas C. Greenfield and Michael E. Stone, "The Enochic Pentateuch and the Date of the Similitudes," Harvard Theological Review 70 (1977): 51-65.

本論文は、『エノク書』のアラム語断片の校訂者であるJ.T. Milikの主張に対して反論するものである。論点はMilikの次の2つの主張である。第一に、クムランには五書形式の『エノク書』があった。第二に、「たとえの書」は後代のキリスト教文書である。論文著者らはこのいずれの点にも同意しない。

五書形式について。Milikによれば、4QEn(c)は「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書間」を含んでいるが、それに加えておそらく「巨人の書」を含んでいたはずだという(4QEn(d)と4QEn(e)も同様)。そして、この4書と、別の写本に書かれた「天文の書」とが一緒になって、クムランのアラム語エノク五書を形成していたのだという。さらに後400年までにはギリシア語訳のエノク五書が発展し、のちのエチオピア語訳のかたちにつながっていく。アラム語版とギリシア語訳は次の3つの点で異なる。第一に、「天文の書」が第三部に移動し、第二に、「巨人の書」の代わりに「たとえの書」が入り、そして第三に、第108章が全体の最後に入った。

ただし、論文著者が言うように、これはあくまでMilikの仮説である。アラム語の段階でもギリシア語訳の段階でも五書形式であった証拠はない。そもそもアラム語の段階で「巨人の書」が「たとえの書」のようにエノク五書の一角を担っていたかどうかは分からない。上の4QEn(c), 4QEn(d), 4QEn(e)といった断片に「巨人の書」が含まれていたわけではないのである。また1Q19、いわゆる「ノアの書」も『エノク書』に入っていた可能性がある。それゆえに、クムランにあった『エノク書』が「五書」だったと証明することはできない。

論文著者が考えるには、より古い写本である4QEn(a), 4QEn(b), 4QEn(g)はひとつの書のみを持っており、前1世紀の中ごろまでに4QEn(c), 4QEn(d), 4QEn(e)では2つか3つの書が写された(後者のグループでは「巨人の書」の写本も写されたが、同じ写本にではなかった)。そしてクムラン居住期の最後のころには「天文の書」と「巨人の書」のみが写されていたという。

そもそも『エノク書』が五書であったという主張は1926年のG.H. Dixにさかのぼる。彼はエノク五書のそれぞれの文書がモーセ五書のそれぞれに対応していると示そうとした。ただし、第一に、そうした対応関係のほとんどはこじつけであり、第二に、Dixの議論は「たとえの書」を想定しているのでクムランの写本状況とは相容れず、第三に、歴史的現実を反映していない。

「たとえの書」について。Milikは「たとえの書」のクムランにおける欠如をもって、同書が後代の作であると主張するが、それは必ずしも自明でない。エステル記もクムランからは見つかっていないが、その理由にはさまざまな可能性がある。第一に、クムランでは知られていなかったから、第二に、正典として受け入れられていなかったから、第三に、クムランでは学ぶ価値がないと見なされていたから、第四に、純粋に偶然なかったから、などである。クムランにないからといって、その時代にエステル記や「たとえの書」が存在していなかったとは言えない。

David Flusserは、41章で太陽と月が同等に扱われていることから、仮に「たとえの書」があってもクムランでは受け入れられなかったはずと主張するが、論文著者はこれにも反論する。むしろ「たとえの書」で使われている用語にはある種の党派性が見られるという。ルーアハとその派生形、ブヒール、ゴレル、破壊の天使などがそうである。ここから、「たとえの書」はクムランではないにしても、似たような党派性を持つ集団で同時期に書かれたものと考えられる。

Milikは「たとえの書」で使われている「人の子」という表現を新約聖書への依拠のしるしと見なすが、これは『第四エズラ記』などにも見られるユダヤ的表現である。そもそも第71章で「人の子」はエノクであると同定されているが、本当にキリスト教文書であるならばこれはありそうにないことである。

「たとえの書」の成立年代については議論があるが、論文著者は同書の中に2箇所、同時代の歴史を反映しているところがあると主張する。第一に、56:5-7は、前40年のパルティア人によるパレスチナ侵攻を現している。J.C. Hindleyはこれに反対するが、論文著者はそこに妥当性を認めない。Milikは同箇所を、260年のペルシアによるウァレリアヌス帝の捕囚を表していると考えているが、論文著者はこの説を「純粋なフィクション」と切り捨てる。第二の箇所として67:8-9では、善人が水を浴びれば癒されるが悪人には逆効果になるというカリロエーの泉でヘロデが水浴びしたことが示されているという。これはヨセフスの記録にも見られるものである。これら2つの言及から、論文著者は「たとえの書」の成立は後1世紀、すなわちクムランのテクストと同時期であると主張する。

さらにMilikは、ビザンツ作家が「たとえの書」をまったく引用していないことを、同書の後代の成立の証拠とするが、論文著者は、その事実はむしろギリシア語訳が存在しなかったことを示すかもしれないと述べる。Nathaniel SchmidtやEdward Ullendorffらは、「たとえの書」のエチオピア語訳はアラム語から直接なされたものであると考えている。Matthew Blackはこの説に反対しているが、論文著者が見る限り反論に成功していない。

Milikは「たとえの書」が「巨人の書」に取って代わったと主張するが、この点についても論文著者は慎重である。論文著者は、「巨人の書」が含まれないものと含まれるものがさまざまにあったと考える。ケルンで発見されたマニ・コーデックスは「エノクの黙示録」なる文書からの抜粋を含んでいる。この抜粋は内容的に『エノク書』のさまざまな箇所との類似を示している。むろん完全にエチオピア語訳の『エノク書』そのものではないが、エノク文書コーパスの中に位置していることは明らかである。

2019年10月15日火曜日

『予備教育』に見るフィロンのユダヤ・アイデンティティ Berkowitz, "Allegory and Ambiguity"

  • Beth A. Berkowitz, "Allegory and Ambiguity: Jewish Identity in Philo's De Congressu," Journal of Jewish Studies 61 (2010): 1-17.

近年では、ローマ帝国におけるユダヤ人の少数派としてのアイデンティティの文脈からフィロンを論じる研究者がいる(Koen Goudriaan, Katell Berthelot, Maren Niehoff, Ellen Birnbaum, Sarah J.K. Pearceなど)。そのときに問題となるのは、フィロンが民族的な問題について語っているのが哲学的あるいは釈義的著作においてであるため、そこに出てくる民族描写が聖書によるものと、フィロン自身の時代によるものの両方になってしまっているということである。論文著者はそれでもなお、フィロンの釈義はアイデンティティの思想について実際に役に立つと考えている。

レビ18:1-5では、神がモーセに対し、イスラエルの人々はエジプトやカナンの風習に倣ってはならず、「私の法を行い、私の掟に従って」歩むように教えよと語っている。この箇所がフィロン『予備教育』85-88において、創世記16:3との関わりの中で解釈されている。創世記の同箇所では、サライがアブラムにハガルを側女として与えたのはカナンの地に住んで10年経ってからとされているが、それはフィロンによれば、生まれたての魂は情念に支配されており、それが青年期になって徳と悪徳を知るが、そこから徳を選ぶまでに10年かかることを示しているのだという。そしてフィロンはレビ記のエジプトが情念の子ども時代を、カナンが悪徳の青年時代を表していると説明する。フィロンはエジプトからカナンへという時系列の流れを、人間の魂の発展の時系列になぞらえている。彼はエジプトやカナンを否定しているのではく、それぞれを魂の感情的、倫理的、知的、霊的な発展のフェーズだと考えている。

レビ記を通して創世記を解釈するというのは興味深いが、ではレビ記にもともと書かれている社会的な分離主義についてはどうだろうか。結局のところ、十全に発展した魂とはユダヤ教の聖書を信奉する者(=ユダヤ人)のことで、未発達の魂とはそうではない者(=他の皆)のことなのか。この箇所は文献学的にも曖昧な点がある。校訂テクストはエジプトやカナンの「習慣(エセー)」を憎むと読むが、他の写本には「民族(エスネー)」を憎むと読むものがあり、その場合は特定の民族が情念と悪徳に染まっているためにその民族と関係を持ってはならないという文脈になる。つまり、フィロンがここで倫理的なエリートと烏合の衆を区別するための純粋に哲学的なディスコース(philosophical elitism)を展開しているのか、イスラエルと他の諸民族を区別するための聖書的なディスコース(Jewish elitism)を展開しているのか、あるいはその両方なのか、不明瞭である。

David Winstonは、フィロンの論述に曖昧な点があるとき、それは彼の思想に何らかの緊張関係があることを示すことがあると指摘している。Steven Weitzmanが言うように、曖昧な証拠は必ずしも証拠の曖昧さではないのである。『予備教育』における緊張関係は、ギリシア文化の核であるパイデイアをユダヤ教聖書のために必要なものであると説く、ということであった。ギリシア的教養はアレクサンドリアのユダヤ人が社会に参入するために必要なものであったが、フィロンはそれだけでなく、ギリシア的教養とはユダヤ教の神を賛美するための自制心を涵養する哲学に至るために必要なものだと考えた。いわばギリシア的教養をユダヤ化・スピリチュアル化したのである。

そのためにギリシア的教養をハガルに重ねることで、その外部性を強調した。ただし、フィロンは、こうした解釈の下敷きにしている「ペネロペーとそのメイド」(『オデュッセイア』)のギリシア的寓意をより洗練させている。つまりフィロンはギリシアの古典的な物語を聖書の寓意的解釈に用いることで、ギリシア的教養が聖書の教えに必要なものであると説明している。しかもギリシア的習慣をユダヤ的生活に統合するための鍵となるのは、レビ記という五書の中でも最も分離主義的な記述なのである。フィロンはギリシア文化を覆そうとしているとも取れるし、認めているとも取れる。

他の緊張関係としては、聖書のエジプトとフィロン自身のエジプトが挙げられる。フィロンはしばしばエジプトを肉体や情念の象徴と捉える。それゆえに出エジプトとは不完全な知から完全な知への魂による旅ということになる。しかし、フィロンはエジプト出身でもある。彼は同時代のエジプト人を知っており、彼らを、ユダヤ人、ギリシア人、ローマ人とは異なる土着の民族グループと考えている。それだけでなく、無神論者、欺瞞的、好色、反逆的、非宥和的など、深刻な政治的な敵として描くこともある。ただし、このレビ記の解釈においては、同時代の民族的次元は哲学的な次元の背景に退き、表面には出てこない。またフィロンによるエジプトの寓意的な解釈は聖書のみならず、ギリシア・ラテン文学に由来する場合もある。

アレクサンドリアのユダヤ人は、自らの神理解、律法遵守、共同体の感覚を、この都市の文化への参加へと統合してきた。そういう観点から、フィロンのエジプト人の扱い方(の悪さ)は、アレクサンドリアのユダヤ人を特権的なギリシア・ローマ市民に連ならせ、一方でエジプト人の下層階級から引き離そうとするものだったといえる。一方で、レビ記18章に見られる、ユダヤ人とその他との境界線も、当時のアレクサンドリアの脆弱な政治状況から鑑みれば重要なものだった。

初期のフィロン研究者はフィロンをめぐって、ギリシア的価値対ユダヤ的価値の二項対立に落とし込むことが多かった(Heinrich Graetz, Harry Wolfsonら)。近年の研究者は、普遍主義(universalism)対党派主義(particularism)にした上で、フィロンの思想は両方のコンビネーションだと論じる(Samuel Sandmel, Koen Goudriaan, Ellen Birnbaum, Peder Borgenら)。

フィロンが寓意を使うのは、寓意的解釈のみに権威を持たせるためではなく、他の可能性のある読みの地位を隠すための曖昧な動きなのである。レビ記の分離主義的な意味合いは、アレクサンドリアのユダヤ人を政治的に脅かすものであるため、思想的に彼の好みではなかった。しかし、それを曖昧に寓意的に解釈することで、厳格なユダヤ人読者には、社会的な分離主義という聖書の遺産を護持しつつも文化的な統合を促進しているように見える。一方で、より厳格でないユダヤ人や異教徒の読者には、民族的な排外主義をスキップして潜在的に包括的な哲学的観点を与えることができるのである。

2019年10月11日金曜日

エノク=エッセネ派仮説の提唱 Boccaccini, Beyond the Essene Hypothesis #1

  • Gabriele Boccaccini, Beyond the Essene Hypothesis: The Parting of the Ways between Qumran and Enochic Judaism (Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1998), 1-17.

クムラン共同体の思想的同定の議論は、依然として「エッセネ派仮説」が有力と見なされている。さまざまな修正案も出されているが、学術的なコンセンサスは得られていない。こうした議論は無駄ではなく、研究者たちがクムラン考古学を虚心坦懐に再考するのに役立っている。

クムラン共同体の起源と思想的なルーツに関して、Ben Zion WacholderやShemaryahu Talmonは反ツァドク派サークルであるとする。一方で、Lawrence H. Schiffmanは、派閥の分裂によって、もともと規範的なツァドク派的だった伝統が党派的な現象に変化したのだと考えた。

いずれにせよ、エッセネ派仮説は、第二神殿時代のユダヤ思想の複数的な発展に照らして、ラディカルな方向転換が図らなければならない。エッセネ派仮説の典型的な欠点は、クムランとエッセネ派を同一視してしまうことである。研究者たちはしばしばエッセネ派的姿勢を描くためにクムランのテクストを使用することがある。しかしクムランは、より大きく複雑なエッセネ派運動の一部に過ぎない。

さらに死海文書研究はコーパスを区切ることでタコツボ化していることも憂慮される。ちょうど新約学者がそうであるように、死海文書のスペシャリストも他の第二神殿時代の文学の研究者から切り離されてしまっている。いわば自己満足の幻想(an illusion of self-sufficiency)に陥っているのである。現代の死海文書研究の問題は方法論の弱さである。

そこで本書の著者は「体系的分析(systemic analysis)」をユダヤ文献に適用する。そうすることで、あるグループの思想的構造を基盤としてその文書を比較することができる。また思想的・時系列的につながった文書の鎖を形成することで、体系的分析は自立的にユダヤ教を特定し描写することができる。ここで重要なのは、体系的分析と「歴史記述的分析(historiographical analysis)」を区別することである。両者は必ずしも同じ分析結果をもたらさないからである。

歴史記述的分析はあるグループに関する後代の記録の歴史的信頼性を判定するもので、体系的分析はあるグループの思想的遺物を研究、分類、区分するものである。具体的に言えば、歴史記述的分析はヨセフスの記述に基づいて、パリサイ派、サドカイ派、エッセネ派などについて分析し、体系的分析は死海文書に基づいてクムラン共同体について分析することである。つまり、歴史記述的分析は、名前が知られているが資料を残していないユダヤ教を特定し、体系的分析は資料を残しているが名前が知られていないユダヤ教を特定するための方法である。古代の歴史記述が述べていることとと、現存する文書が我々に言わせることとは食い違うことがあるが、それが一致するとき、特定のユダヤ教の包括的な議論が可能になる。

このような方法論を用いて、著者は、古代の歴史家が「エッセネ派」と呼ぶものはクムラン共同体のみならず、現代の歴史家が現存する資料に基づいて「エノク派ユダヤ教(Enochic Judaism)」と呼ぶものをも含むと主張する。そしてこれを「エノク=エッセネ派仮説(Enochic/Essene hypothesis)」と呼ぶ。著者によれば、『エノク書』は第二神殿時代のさまざまな多様性の核にあるという。こうした見解はPaolo Sacchiらの研究によって牽引されてきた。『エノク書』に見られる特異な悪の概念が、第二神殿時代に特定の派閥を作る力となっていた。重要なことは、我々は『エノク書』からこの派閥の存在を知ることができるが、それが古代においてどのように呼ばれていたかは知らないということである。そこで「エノク派ユダヤ教」と暫定的に呼ぶわけである。

エノク派ユダヤ教を扱う際の方法論的注意点は次である。第一に、『エノク書』はエノク派ユダヤ教の主要なソースだが、この派はエノクが出てこない文書も作成したし(『ヨベル書』、『十二族長の遺訓』、『第四エズラ記』など)、エノクが出てきてもこの派の文書ではないものもある(『シラ書』、フィロン、ヨセフスなど)。

第二に、『エノク書』は黙示文学だが、エノク派ユダヤ教の歴史はユダヤ教黙示文学の歴史とは必ずしも一致しない。ユダヤ教黙示文学には、ダニエル書、ヨハネ黙示録、『第二バルク書』なども含まれるが、これはエノク派ユダヤ教の文書ではない。

第三に、『エノク書』は黙示思想の重要な証言だが、エノク派ユダヤ教の歴史はユダヤ教黙示思想の歴史とは必ずしも一致しない。John J. Collinsは世界観としての黙示思想(apocalypticism)と文学形式としての黙示文学(apocalypse)の区別を提案している。黙示思想は黙示文学の世界観として規定できるが、黙示的世界観は黙示文学以外でも表現できるのである。Sacchiはさらに、世界観としての黙示思想(apocalypticism)と思想的派閥としての黙示派(apocalyptic)の区別も提案している。ある二つの文書が同じ黙示思想を共有していても、両者が同じ派閥であるとは限らないのである。

Collinsの考え方だと、『エノク書』とそれに反対するダニエル書やヨハネ黙示録は共にユダヤ教黙示思想の歴史に含まれる。両者は思想的違いにもかかわらず、同じ黙示的世界観を共有していたからである。Sacchiの考え方だと、特定のユダヤ教黙示派(たとえばエノク派ユダヤ教)の歴史にダニエル書やヨハネ黙示録は含まれない。

著者はエノク派ユダヤ教とクムラン共同体の関係性について明確な見解を持っている。彼によれば、エノク派ユダヤ教とは、エッセネ派の主流派の現代的な名前であり、そこからクムラン共同体が過激で反抗的で周辺的な子孫として別れたのだという。しかし、エノク派ユダヤ教はその後クムランのエッセネ派の考え方を拒絶し、むしろ洗礼者ヨハネやイエスの派閥の誕生に貢献したのだった。

関連記事

2019年10月10日木曜日

「寝ずの番人の書」受容史の導入 Reed, Fallen Angels and the History of Judaism and Christianity #1

  • Annette Yoshiko Reed, Fallen Angels and the History of Judaism and Christianity: The Reception of Enochic Literature (Cambridge: Cambridge University Press, 2009), 1-23.

本書は『エノク書』のうちでも「寝ずの番人の書」を、そのはじめ(前3世紀)から、ラビ運動による拒絶、初期キリスト教徒による採用、のちの教会による抑圧、そして西方での最終的な喪失まで辿った、いわゆる受容史の研究である。

中世以降『エノク書』はほぼ失われたが、クリスチャン・カバリストは関心を持っていた。ピコ・デラ・ミランドラやジョン・ディーも興味を持っていた。ゲオルギオス・シュンケッロス『年代記』には抜粋が残されていたので、ヨセフ・スカリゲルが1606年に出版している。エチオピア教会が『マシャファ・ヘノク・ナビイー』として保持していたエチオピア語訳はジェームズ・ブルースが欧州にもたらした。19世紀の終わりにはギリシア語訳も発見された。R.H.チャールズの先駆的な研究により『エノク書』が五部構成であることが明らかになった。死海文書中から発見されたアラム語訳はJ.T.ミリクによって出版された。こうした研究により、「天文の書」と「寝ずの番人の書」は最古の黙示文学にして最古の非聖書的ユダヤ文学だと明らかになった。

Milikは、ユダヤ教とキリスト教における『エノク書』の受容史の全体を研究した数少ない研究者である。多くの研究者はキリスト教の伝統のみか、ユダヤ教を取り上げてもキリスト教以前のユダヤ教のみしか範囲に含めなかった(James VanderKam, William Adler, Birger Pearson, Sebastian Brock)。エチオピア教会における伝統を特に取り上げたものもある(M. Knibb)。一方で、ユダヤ教におけるNachlebenと70年以降のユダヤ教を扱ったものは、Gershom SholemやIthmar Gruenwaldのような例外を除き、ほとんどなかった。初期キリスト教、古代末期キリスト教、ビザンツ期キリスト教における発展が研究されてきたように、第二神殿時代ユダヤ教、ラビ・ユダヤ教、中世初期ユダヤ教における受容史が研究されなければならない。

著者は特に堕天使のテーマを中心的に取り上げる。これは創世記6:1-4に端を発するものであり、「寝ずの番人の書」以外でもしばしば言及されてきたが、同書に特徴的なのは、ここで出てくる罪が天使の教唆によるものだということである。

「寝ずの番人の書」についてわれわれが持っている資料としては、アラム語原典、ギリシア語訳(ユダヤ人によって訳され、キリスト者によって保持された)、エチオピア語訳(ギリシア語訳をベースとしたキリスト者による訳)、ユダヤ・キリスト教文学中の言及やコメントなどがある。

聖書研究やラビ文学をはじめとして、テクストそのものよりも、その背後にある口承に注目する研究は多い。テクストは口承の純粋な神話や物語の不完全な反映でしかないと考えられているのである。しかしながら、最近の聖書研究では本文批判やソース批判の欠点が意識され、文芸批判的な観点からテクストの最終形態が注目され、また文学の成立における編集の役割が重視されるようになってきた。著者によれば、「寝ずの番人の書」の研究においても、テクストの背後にある純粋な口承だけを見るのは不適当であり、まずテクストそのものを見なければならない。古代の文学研究において、口承とテクスト化の活動を別物と捉え、前者による後者への優越を前提とすることを、著者は疑問視している。テクスト伝承に注目することには、現存する証拠の制約を反映するという実利的な目的もある。

これまでの研究は、キリスト教以前のユダヤ教をキリスト教の成立を照らし出すためのものとして扱い、以後のユダヤ教を外界から閉じられた世界として描いた。キリスト教が成立したことで、ユダヤ教とキリスト教の分岐が完成され、以後の相互作用は制限されていたと見なしているのである。しかしながら、実際には2世紀以後にも両者には交流があった。

この前提をもとに、第1章では「寝ずの番人の書」の編集と成立が、第2~3章ではラビ・ユダヤ教以前、キリスト教成立期における受容、第4~5章ではラビ・ユダヤ教による放棄とキリスト教サークルによる保存、とりわけユスティノスによる受容、第6章ではローマ帝国における教会による拒絶とその正当化、そして最終章ではタルムード期以後におけるエノク伝承の復活(ヘイハロット文学)が描かれる。

「寝ずの番人の書」(および「天文の書」)は4QEn(a,b)では独立した作品として回覧されていたが、4QEn(c,d,e)では他のエノク派文学と共に収録されていたことが分かる。Milikは特に後者の証拠を基に、クムランにはエノク五書があり、「天文の書」だけを含む1巻と、他の諸書を含む別の1巻の、2巻構成だったと主張した。そしてMilikによれば、エチオピア語訳に収録されている「たとえの書」はキリスト教徒による著作であって、4世紀以降に「巨人の書」と入れ替えられたのだという。Milikによるアラム語「エノク五書」仮説は、Jonas GreenfieldやMichael E. Stoneらによって否定される。

George Nickelsburgは4QEn(c)を取り上げて、「遺訓」形式で統一されことになる新たなエノク派テクストの広がりにおける一段階だと解釈している。とりわけ「寝ずの番人の書」はエノクの「遺訓」の核心に当たるという。Nickelsburgの仮説は、クムランの『エノク書』素材をエチオピア語訳とつなぐ単一で一直線上の発展があったという観点をMilikと共有している。これはギリシア語訳の価値を引き下げることになっている。Nickelsburgの仮説は、「寝ずの番人の書」が独立した文書ではなく『エノク書』の一部分としてどの程度読まれていたのかという観点を与えてくれる。

印刷術が発明されたあとの書物と同じような感覚で『エノク書』を扱ってはいけない。単一の著者や単一の編集者がいたわけではなく、複数の者たちが関わっているのである。

2019年10月9日水曜日

7Q5論争への新たな試み Spottorno, "Can Methodological Limits Be Set"

  • M Victoria Spottorno, "Can Methodological Limits Be Set in the Debate on the Identification of 7Q5?" Dead Sea Discoveries 6 (1999): 66-77.

本論文は、J. O'Callaghan(およびそのフォロワーであるC.P. Thiede)がパピルス断片の7Q5をマルコ福音書6:52-53だと断定していることに対して反論を試みたものである。もし本当にクムランからキリスト教文書が出てきたのなら、きわめて興味深いが、これはほとんどすべての研究者によって否定されている。しかし、O'Callaghanはインタビューの中で、自分が学術的でない個人攻撃に晒されていると主張している。論文著者によれば、彼は他の研究者たちから投げかけられた疑問や他の可能性の指摘に誠実に答えていない。そこで論文著者は、O'Callachanらよりも妥当性が高い説を提出しようとする。むろん論文著者はそうした自分の説も完全に正しいと証明することはできないことを理解している。

論文著者はまず古文書学的問いと文献学的問いを立てて、7Q5がマルコ福音書の引用ではありえないことを説明する。古文書学的、文献学的、歴史的な理由は、この断片がマルコであることを決して客観的に証明しないのである。

では、マルコ福音書ではないなら何のテクストなのか。論文著者は、まずゼカリヤ書7:3c-5である可能性を指摘する。残っている断片が欄のはじめである場合、欄の中である場合、欄の中央である場合を考慮している。次に『エノク書』15:9d-10である可能性を挙げる。第7洞窟から発見された7Q4と7Q8はすでにギリシア語訳の『エノク書』であると同定されているので、この読みは仮説ではあるが不可能ではない。

7Q5はゼカリヤ書でも『エノク書』でもないかもしれない。しかしマルコ福音書であるよりは蓋然性が高い。ゼカリヤ書であるという同定は、マルコ福音書であるよりもパピルス学的な問題が少ないし、文化的にも時系列的にも実現可能である。『エノク書』である可能性ですら、問題はあるとはいえ、クムランの文化的環境という点からいえばよりフィットする。われわれが利用可能な歴史的証拠や確たる証言を用いて、コントロールを欠いたような学問的創造性には制限をかける必要がある。

「エノク派ユダヤ教」への批判 Reed, "Interrogating 'Enochic Judaism'"

  • Anette Yoshiko Reed, "Interrogating 'Enochic Judaism': 1 Enoch as Evidence for Intellectual History, Social Realities, and Literary Tradition," in Enoch and Qumran Origins: New Light on a Forgotten Connection, ed. Gabriele Boccaccini (Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 2005), 336-44.

本論文はGabriele Boccacciniの「エッセネ=エノク派仮説」に対する建設的な反論である。第二神殿時代のユダヤ教の多様性の核にあるは『エノク書』である、という理解が、エノク派文学、エッセネ派運動、クムラン共同体の関係性に関するBoccacciniの仮説の中心にある。とりわけ彼は「寝ずの番人の書」に見られる「堕天使が人間の罪と苦しみの原因である」という神話的な理解を重視する。この天使の堕落の神話は、伝統的な聖書の原罪理解からのラディカルな出発であり、ここに「エノク派ユダヤ教」が成立する。

エノク派ユダヤ教は前4~3世紀に祭司たちの中でできあがり、神殿の権威であるいわゆる「ツァドク派ユダヤ教」に相対した。Boccacciniによれば、以後数世紀に亘るユダヤ教の発展史は、このエノク派ユダヤ教とツァドク派ユダヤ教の抗争の物語といえるという。これはマージナルな黙示的思想の一派と一枚岩の主流派ユダヤ教の二項対立という従来の理解とは異なる。むしろエノク派ユダヤ教は祭司内部の反対運動に起因するのである。

方法論としてBoccacciniは、『エノク書』を中心に旧約偽典や死海文書などを渉猟した。これらを用いて悪の概念の発展と多様化を描いてみせたのである。正確には、(1)エノク派ユダヤ教は広くアピールされた運動であり、(2)この運動はエッセネ派に対する古代の言及を支持し、(3)クムラン共同体はこれらエッセネ派/エノク派の過激派であった。いわばエノク派ユダヤ教とはエッセネ派の主流派の現代的な名称であり、そこからラディカルでマージナルな子孫としてクムラン共同体が生まれたのである。

さらにBoccacciniは、過激派としてのクムラン共同体を生んだエノク派ユダヤ教の主流派は、そのままキリスト教のユダヤ的ルーツを構成することになり、同時にツァドク派ユダヤ教の主流派はそのままラビ・ユダヤ教を構成することになったと主張した。

論文著者は、こうしたBoccacciniのアプローチは、第二神殿時代のユダヤ教とラビ・ユダヤ教の関係や、新約聖書と初期キリスト教のユダヤ的背景の研究が大幅に進展する中で、それらのデータを総合的な理解へと統合することに成功していると評価する(一方で、古代のユダヤ教の主流派を理解するための資料としての『エノク書』など非正典テクストの重要性を低めることにつながってしまっていると批判してもいる)。

Boccacciniは『エノク書』に保存されるエノク的なテーマの統一性や思想的連続性を最初に指摘したわけではなく、彼の前にはSacchiやSchwartzらの研究が存在する。Boccacciniに独特なのは、彼の『エノク書』の利用が、思想史から社会史を描きうるという信念に基づいていることである。しかし、論文著者によれば、文学資料における思想的・テーマ的類似から社会史的な現実を再構成しようとする試みには、いくつもの方法論的な問題点があるという。

たとえば、Boccacciniは悪の起源の問題に注目したが、他の問題に注目したら別の結果が出るかもしれない。また「寝ずの番人の書」を検証の対象としたが、『エノク書』はひとつの声だけを持った文書とは到底いえない。悪の超自然的な原因や神義論をエノク派ユダヤ教とその他の諸ユダヤ教を区別するための基準に用いていることは、Boccacciniの議論に疑いを抱かせるものである。『エノク書』は、確かに一定の連続性や共通性を持ってはいるものの、そもそもはさまざまな資料のよせあつめであることを忘れてはならない。また文学的・テーマ的・思想的なつながりから社会史的な現実へと急いで飛び移ることにも注意しなければならない。

Boccacciniは、ツァドク派ユダヤ教から区別されるエノク派ユダヤ教を再構成することで、ラビ・ユダヤ教とキリスト教を共に等しく第二神殿時代のユダヤ教の後継として扱うためのモデルを提供した。しかし、これは第二神殿時代のユダヤ教をプロト・キリスト教的部分とプロト・ラビ的部分に分けることに他ならない。それゆえに、Boccaccini自身はユダヤ教とキリスト教を単一の知的システムに包摂しようとしていたにもかかわらず、実際のところ彼はそうした分岐がイエスの誕生以前からユダヤ教に存在していたことを示してしまっている。

Boccacciniの仮説が成功するか否かは歴史のみぞ知るところであろう。

2019年10月8日火曜日

フィロンの著作 Royse, "The Works of Philo"

  • James R. Royse, "The Works of Philo," in Cambridge Companion to Philo, ed. Adam Kamesar (Cambridge: Cambridge University Press, 2009), 32-64.


フィロンの著作は釈義的著作、護教的・歴史的著作、哲学的著作に大別される。釈義的著作はさらに、問答、寓意的注解、律法注解に区分される。問答と寓意的注解はいわば密教的(esoteric)で、律法注解は顕教的(exoteric)な特徴を持つ。

釈義的著作:問答(Zetemata kai lyseis)とは、ホメロスの詩に見られる神学的・倫理的な「問題」を「解決」するために出てきた解釈方法である。アリストテレス『詩学』25章などにも見られる。この伝統が自然と聖書にも適用されるようになった。フィロンはその最初期の例である。フィロンは字義的解釈から始めて、寓意的解釈を最後に紹介する。解釈の順番は聖書のシークエンスに従う。ギリシア語原典は断片を除いて失われ、不完全なアルメニア語訳で残っている(アルメニア語訳は概して逐語訳)。ラテン語訳にはアルメニア語訳からは抜け落ちているところもあるので有用である。個々の解釈の分け方はシナゴーグの礼拝で読む箇所に対応している。現存する創世記と出エジプト記以外の問答があったとは考えにくい。

寓意的注解。このジャンル分けはエウセビオス『教会史』2.18.1に基づく。創世記の一節(レンマ)ごとに、表層の字義的解釈を超えた倫理的、哲学的、霊的な解釈を論じる。問答での寓意的解釈とまったく異なるわけではない。V. Nikiprowetzkyは寓意的注解は問答の拡大版だと主張したが、現在では多くの研究者たちは寓意的注解がシナゴーグでの説教であった可能性に注目している。主たる聖書箇所のみんらず付加的な箇所や平行箇所にも言及したり、倫理的なテーマをギリシア的なディアトリベーのような修辞技法とつなげたりしている。創世記以外をカバーしたとは考えにくい。

律法注解(the "Exposition of the Law")。五書を広く組織的に扱う。律法注解の構造は五書のジャンル理解に基づいている。すなわち、五書には世界の創造などを扱う「宇宙論的(cosmological)なセクション」、律法を体現する登場人物を扱う「系譜学的・歴史的な(genealogical or historical)セクション」、そして十戒やより具体的な律法を論じる「立法的な(legislative)セクション」がある。フィロンの議論は聖書に関わるが、一節一節を解釈するのではない。むしろ五書の論理的・組織的基盤を絶えず発見しようとしている。たとえば、アブラハム、イサク、ヤコブをギリシア的な教育理論である指導、生得、練習になぞらえたりする方法である。このジャンルに含まれる『世界の創造』は、問答や寓意的注解も含め、フィロンの聖書解釈全体の導入のような存在である。またジャンル分けの難しい『モーセの生涯』は律法注解的な要素も持っている。

護教的・歴史的著作。フィロンがユダヤ教やユダヤ民族の代表として、異教のギリシア人を含めた広い対象に書いたもの。『フラックス』や『ガイウス』などは、ガイウス帝亡きあとのクラウディウス帝および他のローマ人に向けて書いたものと考えられる。エウセビオスによれば、この2書は『徳について』という全5巻の著作に含まれていた。

哲学的著作。聖書やユダヤ教の教えに触れない著作。ディアトリベー、テーシス、対話といったギリシア哲学のジャンルに沿って書かれている。テクスト伝承に難があるのは、これらのジャンルがフィロンのテクストを伝えてきたキリスト教徒にとってあまり興味のないものだったからであろう。

その他の著作。『数論』はピタゴラス主義的な著作である。偽作としては『ヨナについて』、『サムソンについて』、『聖書古代誌』などがある。

著作の執筆順については多くの議論がある。『フラックス』と『ガイウス』については38~39年の一連の事件よりは確実にあとに書かれた。それ以外には、著作中のフィロン地震によるクロス・リファレンスに注目することが重要である。さまざまな説があるが、問答は寓意的注解よりあと、寓意的注解は律法注解に先んじると広く考えられている。すなわち、3種のうち寓意的注解が一番先に書かれ、問答と律法注解はどちらが先とも後とも言えないということである。哲学的著作は晩年に書かれた。

テクストの伝承はある時点からキリスト教徒の手に渡った。アレクサンドリアの教理学校の財産として保存されてきたのである。エウセビオスによる著作リストを見ると、現在の著作群とかなり同じものが揃っている。10から14世紀のギリシア語写本のスコリアも有力な情報源である。直接証言の最古のものとしては、3世紀の二つのパピルスがある。

関連記事

2019年10月5日土曜日

ミリク『エノク書』の書評 Barr, Ullendorff/Knibb, and VanderKam

  • James Barr, review of J.T. Milik, ed., The Books of Enoch: Aramaic Fragments of Qumran Cave 4, The Journal of Theological Studies 29 (1978): 517-30.

評者は同書の価値を高く評価しながらも、読者がそれを有効に活用し、適切に評価するためには、諸問題の完全な議論が必要であると述べている。本書の主たる問題は、校訂テクストに印刷されているアラム語テクストが実際には断片にはまるで見出されず、校訂者Milikによって書かれたものであるという点である。

Milikは確かに自分が再構成した部分については括弧に入れてそれと知れるようにしてはいる。しかしながら、読者はきわめて保存状態がいいように見える写本が、実際にはごくわずかな断片しか残していないことに気づいたら、驚くことだろう。再構成自体が問題なのではない。そのスケールがあまりに大きいことが問題なのである。

Milikがほとんど天才といえるほどの器用さと計り知れないほど長い時間をかけてこれを達成したことは疑いない。適当な文章をアラム語で作り上げるその能力は特筆すべきものである。またこうしたことはパピルス学では常套手段だが、問題はわれわれがこの時代のアラム語資料をあまり持っていないということである。

さらにMilikのテクストは、ギリシア語訳やエチオピア語訳からアラム語原典を導き出しているにもかかわらず、一方でギリシア語訳やエチオピア語訳は原典の意味を取り違えていると説明するという「大いなる仮説(gigantic hypothesis)」を表している。いわばわれわれは「純粋なる幻想の世界(the world of pure fantasy)」にいるのである。

論文著者は、Milikは再構成部分を他よりも小さいフォントにしたり、巻末の転写には再構成を加えないようにしたりすれば、まだマシだったと指摘する。Milikはアラム語テクストが「寝ずの番人の書」の50パーセントをカバーしていると主張するが(p. 5)、これは自分で付け加えた再構成テクストを含む数字のようである。

こうしたことから、本書の価値は断片の部分ではなく、きわめて幅広い事柄を論じた導入にある。ただし、ここでの議論もあまり整理されておらず、読者を困惑させるものになってしまっている。バビロニアの世界観とエノクのそれとを比較するなど、『エノク書』の完全なテクストへの導入であればよかったが、アラム語断片の導入としてはふさわしくない。

このような状態であるから、誰か別の人によって『エノク書』の完全な校訂版が出版されることが待たれるし、アラム語テクストに関してはDJDシリーズで出版されるべきである。エチオピア語訳を低く見積もっており、エチオピア語の転写も通常受け入れられているものではない。

またせっかくのアラム語訳の発見を生かしていない点もある。すなわち、ギリシア語訳やエチオピア語訳との比較による翻訳技法の研究である。そもそもこれをやって初めてMilikのように翻訳に基づく原典テクストの再構成という荒業ができるはずであるが、彼はこれをしていない。しかし、少し翻訳技法をチェックするだけでも興味深い結果が得られる。

このような批判的な書評は、本書の価値のなさゆえではなく、批判しないことには読者がきちんとこれを利用することができないからである。

  • Edward Ullendorff and Michael Knibb, review of J.T. Milik, ed., The Books of Enoch: Aramaic Fragments of Qumran Cave 4Bulletin of Oriental and African Studies 40 (1977): 601-2.
評者らは本書の問題点をまず3つ指摘する。第一に、実際に発見されたアラム語断片はとてもわずかだったにもかかわらず、Milikは7文字に対して56文字を付け加えるような大掛かりな再構成をしている。第二に、エチオピア語訳に対して信頼をまるで置いていない。第三に、ゲエズ語の知識が不十分である。

「寝ずの番人の書」のアラム語テクストが全体の50パーセントをカバーするというが、それはMilikが再構成したテクストを含めた数字であって、実態とかけ離れている。

  • James VanderKam, review of J.T. Milik, ed., The Books of Enoch: Aramaic Fragments of Qumran Cave 4Journal of the American Oriental Society 100 (1980): 360-62.
本書では「天文の書」は完全には扱われておらず、「巨人の書」はまだ初歩的な段階である。Milik以前は『エノク書』とは、「寝ずの番人の書」「たとえの書」「天文の書」「夢幻の書」「エノク書簡」から成り、キリスト教以前の成立と考えられていた。しかしMilikはこうした構造はギリシア語訳成立(400 BCE)より後に成立したものであり、「たとえの書」の代わりに「巨人の書」が入っている。

2019年10月3日木曜日

エノク派、都市型エッセネ派、クムラン・エッセネ派 Boccaccini, "Enochians, Urban Essenes, Qumranites"

  • Gabriele Boccaccini, "Enochians, Urban Essenes, Qumranites: Three Social Groups, One Intellectual Movement," in The Early Enoch Literature, ed. Gabriele Boccaccini and John J. Collins (Supplements to the Journal for the Study of Judaism 121; Leiden: Brill, 2007), 301-27.

論文著者は「エノク派=エッセネ派仮説」を唱えた論者である。これはクムラン共同体のエノク的ルーツという問題と、クムラン派ユダヤ教とエノク派ユダヤ教の分岐点という問題を再考する機縁となった。

第二神殿時代のユダヤ教の精神史を描写するために2つのアプローチがある。第一に、異なった文書からデータを統合し、ひとつの折衷的な主題(=第二神殿時代のユダヤ教神学)を作り上げるという「公分母型アプローチ」である。実際にそのような単一の主題は存在せず、統一性を乱すような個々の特性も無視することになる。第二に、多様な主題(=第二神殿時代のユダヤ教諸神学)を代表するものとして個々の文書を孤立的に扱う「多様性強調型アプローチ」である。この場合、我々が面しているのは単一の主題の異なった段階ではなく、別の主題ということになる。

後者のように多様性に注目する場合、知的運動(intellectual movements)と社会的グループ(social groups)とを方法論的に区別しなければならない。知的レベルと社会的レベルは同じではない。そこで論文著者が主張しているのは、死海文書の背後には少なくとも、エノク派、エッセネ派、クムラン(・エッセネ)派という3つの社会的グループが存在しているが、それらは1つの知的運動であるということである。

3つの社会的グループは確かにイニシエーション儀式、メンバーシップ規則、礼拝や儀礼、生活様式などを異にしている。J. Murphy-O'ConnorやPhilip Davies, Florentino Garcia Martinez, Adam van der Woudeらによれば、クムラン派とはエッセネ派のうちの過激なグループであるという。また近年ではDavid R. JacksonやGeorge Nickelsburgらが第二神殿時代のユダヤ教にエノク派ユダヤ教と呼ぶべき特定の党派性を持ったグループが存在していたことを明らかにしている。一方で、これらの3グループには思想的に多くのパラレルも認められる。つまり同じ知的運動なのである。

(1)クムランにおける党派的テクストはエノク派とツァドク派の思想の影響を受けている。一般的には、クムラン派が自らを「ツァドクの子」と称しており、モーセ律法を重視していることから、ツァドク派からの影響が指摘されてきた。しかし、もしクムラン派がツァドク派運動だというなら、なぜ彼らは非ツァドク派的、さらには反ツァドク派的な文学も保存しているのだろうか。Lawrence SchiffmanやDaniel Schwartzらは、クムランにおけるエノク派テクストの存在をユダヤ教グループに共通する特徴だと説明するが、論文著者によればこうした説明はエノク派文学の非協調的で革命的な特徴を見落としている。

エノク派の特徴は、「堕天使」を地上における悪と不浄の蔓延の原因とする、悪の起源に関するユニークな考え方である。エノク派によれば、人間は加害者ではなく被害者なのである。また慈愛あふれる神に悪の起源を帰することもない。エノク派の思考システムでは、悪の起源について被害者としての人間と責任ある人間という2つの矛盾する考え方を採用している。言い換えれば、決定論と非決定論である。どちらか一つだけではエノク派のシステムは崩壊する。

論文著者によれば、クムランの予定論的な神学はツァドク派の契約思想ではなく、このエノク派の決定論からの影響であるという。エノク派における決定論(悪の起源は堕天使のせいであって人間のせいではない)と非決定論(人間の自由意志を認める)の緊張関係を、クムラン派は、個々の人間の運命を予め決定しているのは神であるという「個人的な予定論(individual predestination)」として解消している。こうした主張は、Paolo SacchiやEyal Regev、さらにはJohn J. Collinsのような慎重な研究者すら受け入れている。

(2)Collinsは、しかし、クムラン派とエノク派が同じグループとは言えないと主張する。なぜなら、第一に、クムランの党派的テクストが中心的な価値をモーセのトーラーに置いているのに対し、エノク派文学はモーセ伝承を無視したからである。第二に、クムラン派が党派的グループであるのに対し、エノク派は改革運動だからである。論文著者によれば、これほど異なるクムラン派とエノク派を仲介したのが、両者の特徴を併せ持つ『ヨベル書』であったという。『ヨベル書』を書いたのは、フィロンやヨセフスが描くところの都市型エッセネ派と考えられる。

(3)ではクムラン派とエノク派のユダヤ教はどのように分離したのか。クムランでは「たとえの書」がまるで見つかっておらず、おそらくは「エノク書簡」もほとんどなかったと考えられる。これら後期のエノク派文学はクムランが持つ「個人の予定論」と相容れなかったからであろう。「たとえの書」が天の裁きに際して人間の自由と選択を強調するのに対し、クムランでは善悪は神の変わることのない決定に由来していると考える。それゆえにクムランは、『ダマスコ文書』での引用を最後に、エノク派文学への興味を失った。

エノク派運動は、クムランとの接点は失ったが、より大きなエッセネ派運動(都市型エッセネ派を含む)とは密接な関係を保ち続けた。それは次の4点に注目すると分かる。第一に、エノク派ユダヤ教と都市型エッセネ派の類似。第二に、非クムラン的・非エノク的でありながら、エノク派運動にもエッセネ派運動にも共通する特徴を持つ文学があること(『十二族長の遺訓』)。第三に、イエス運動はクムランについて直接的な知識を持たなかったにもかかわらず、エノク派ユダヤ教と非クムラン的エッセネ派の特徴を持っていること。そして第四に、クムラン派は自らを指導的なエリートと考えていたが、決してエッセネ派運動の中心だったわけではないこと、である。エノク派とエッセネ派は2つの異なった社会グループだが、社会的・思想的なつながりがあったのである。

(4)ただし、以上のようなエノク派とエッセネ派との関係について、古代の歴史的なソースが証言しているわけではない。ただ組織的な分析によって、エノク派、エッセネ派、そしてクムラン(・エッセネ)派が異なった社会的グループでありながら同じ知的運動に属することが分かる。さらに言えば、エノク派はクムラン派よりも、主流なエッセネ派に近い立場を取った。

こうしたクムラン派の特殊さゆえに、Sacchiは「エッセネ派」という名称を都市型エッセネ派のみに限定することを提案しているほどである。一方でCollinsは「エッセネ派」をヤハドおよびそれとネットワークを持つ都市型エッセネ派に用い、エノク派を含めた全体を「黙示主義」と呼ぶことを提案しているが、これは大きすぎる名称であろう。Jacksonは逆にエノク派やクムラン派を含む運動全体を「エノク派ユダヤ教」と呼ぶことを提案した。

これらに対して論文著者は、運動全体を「エッセネ派的」と呼ぶことは依然として有効であるが、エッセネ派主義はひとつの社会的グループではなくより大きく多様な知的運動と見なすべきだと主張する。つまり多様な社会的グループをカバーする傘として機能する用語なのである。それゆえに、エノク派はエッセネ派的であると定義できるが、彼らがエッセネ派そのものであるとは言えない。エノク派は都市型エッセネ派の親であり、クムラン派の祖父母である。

エノク派、都市型エッセネ派、クムラン派はみな同じ知的運動に属している。社会的グループとしてはエノク派はクムラン派よりも都市型エッセネ派に近い。クムラン派は根本的にエノク派神学からかけ離れているため、都市型エッセネ派からのクムラン派の分離が考えられる。いずれにせよ、エノク派はエッセネ派とクムラン派の起源において欠くことのできない役割を演じた。

関連記事

2019年10月2日水曜日

フィロンの生涯、家族、その時代 Schwartz, "Philo, His Family, and His Times"

  • Daniel R. Schwartz, "Philo, His Family, and His Times," in Cambridge Companion to Philo, ed. Adam Kamesar (Cambridge: Cambridge University Press, 2009), 9-31.


人生に悲観的な哲学者にありがちなことであるが、フィロンの生涯についてはあまりわからない。彼は自分自身についてはあまり語らないので、ヨセフスや初期教父文学(エウセビオスやヒエロニュムス)らの証言が重要である。ヨセフスはフィロンの弟と甥の名前を伝えている。

フィロンは38/39年にアレクサンドリアのユダヤ人問題を陳情するために使節団を率いて皇帝ガイウス・カリグラに謁見している。そのとき自分のことを「老人」と表現しており、別のところで老人とは57歳以上と述べているので、逆算して前20-10年頃の生まれと考えられる。その死は、クラウディウス帝の催しを暗示していることから41年より前ではない。

ヨセフスと異なり自らの出自については語っていないが、ヒエロニュムスによると祭司の家系であるという。個人的なこともまるでわからない。都市への軽蔑を口にするが、これはおそらく貴族的な特権を持つ者のスノビッシュな発言であろう。

フィロンの弟アレクサンデルは輸入品の関税を徴税する役人であった。彼はその他にも貿易の仕事で成功し、巨額の富を築いた。ヨセフスによれば、アレクサンデルはその富をエルサレム神殿の建設のために寄進したという。皇帝やユダヤの王族の者たちとの関係も深かった。アグリッパの娘はアレクサンデルの息子マルクスと結婚した。アレクサンドリアのユダヤ人迫害のきっかけであるアグリッパ1世の同市訪問の際にはホストを務めた。

アレクサンデルの息子でありフィロンの甥であるティベリウス・ユリウス・アレクサンデルはさらなる有名人だった。ローマ社会で成功するために、彼はユダヤ教的なアイデンティティを捨ててしまった。そのためフィロンは『動物論』などにユリウスを対話相手として登場させ、ユダヤ教への回帰を促した。ユリウスはテーバイ地方総督やユダヤ総督などを努めたあと、ネロ帝のもとではエジプト総督にまで登りつめた。そしてユダヤ戦争の際にはティトゥス帝の腹心としてエルサレム攻略に加担した。

フィロンの時代のユダヤ社会は、プトレマイオス朝期の平穏さからローマ時代の混乱への過渡期を迎えていた。その中でアレクサンドリアのユダヤ社会は繁栄し、市の5区画のうち2区画がユダヤ地区と呼ばれるほどの人口を誇った。ユダヤ人はそこで「ポリテウマ」と呼ばれる自治共同体を作った。そこでは先祖伝来の律法に基づいた生活が許され、ゲルーシアと呼ばれる自治的な議会が存在した。

アレクサンドリアの宗教生活の中心はシナゴーグであり、そこではユダヤ人の子弟に知恵や諸徳を教える教育が施されてもいた。一方で多くのユダヤ人はヘレニズム文化も受け入れていたので、市中のギュムナシオンで体育や教養諸学といった二次的な教育を受けた。フィロンの修辞的能力や運動イメージの好みはここで醸成されたものであろう。

このようにプトレマイオス朝期のアレクサンドリアのユダヤ人は平穏な生活を享受したが、ローマ時代になるとアピオーンのような反ユダヤ文学が書かれるようになり、それが38年の暴力的な事件や66年の反乱へとつながっていく。プトレマイオス朝期にはギリシア人、ユダヤ人、エジプト人という3つの社会的階層が秩序を作り、ユダヤ人は外国からの「客」としてギリシア人から大事にされていたのに対し、ローマ時代にはローマ人の下でその秩序が失われてしまったのである。その結果、ユダヤ人の多くがローマ支配を受け入れると、そのことがギリシア人からの反感を買った。そしてユダヤ人がそうしたギリシア人から守ってもらおうとさらにローマ人に近づくと、ギリシア人のさらなる反感を呼ぶという悪循環となった。

ローマに対するユダヤ人の態度には3つの方法があった。第一に、ローマ支配を受け入れ、同時にユダヤ人としての地位をあきらめるというもの。これはちょうどユリウスの態度である。彼はローマ軍のエルサレム攻略の際に神殿を保存するか破壊するかを投票で決める際に、破壊する方に票を投じたという。第二は、ローマ支配を拒否し、反乱を起こすというもの。しかしアレクサンドリアのユダヤ人がこの方法を採ったという証言は残されていない。第三は、ローマ支配を受け入れ、ユダヤ出身のユダヤ人であることはやめるが、超越的なユダヤ教を信奉するというもの。これは新約聖書やフィロンの立場である。

第三の立場はヘレニズム期のディアスポラのユダヤ人たちの特徴である。ここで重要なのは、ユダヤの地およびエルサレムの神殿の重要性を低く捉えるという視点である。この視点は『第二マカベア書』、『アリステアスの手紙』、偽ヘカタイオス、『ソロモンの知恵』に見られる。ユダヤの重要性が下がれば、ローマに反対する必要がなくなるのである。

ただし、フィロンはユダヤや神殿に対して肯定的に語ることもあれば否定的に語ることもある。結局フィロンの真の立場は、ガイウスが自分の彫像をエルサレム神殿に建立するという決定をあくまでローマ人の視点から冷静にロジカルに語っているところから分かるだろう。彼はこの出来事に対するユダヤ人の反応を正当化しようとはしない。結局のところあまりに多くのユダヤ人が第一の立場を取り、第三の立場のような非一貫した立場を取りたがらなかったばかりに悲劇が起こってしまった。しかしフィロンは「ユダヤ人であること」を場所と関わらせず、心の中の問題にすることで、ローマと生きる方法を模索したのだった。