- Lawrence H. Schiffman, "The New Halakhic Letter (4QMMT) and the Origins of the Dead Sea Sect," The Biblical Archaeologist Vol. 53, No. 2 (June, 1990): 64-73.
本論文は、StrugnellとQimronによる『律法儀礼遵守論』(以下『律法』)の校訂版が出版される直前に、校訂者たちの許可を得てその原稿を見ることができたSchiffmanによる同書の概論である。当時の興奮をよく伝えてくれると共に、現在へと至る研究史を方向付けた一編でもある。著者によれば、『律法』は分離したセクトの指導者がエルサレムの主流派に向けて書いた文書であり、ユダヤ法の問題を扱っているという。六つの写本からなる同書は、実際の手紙であるとも考えられるし、後代になってセクトの分裂を正当化するために書かれた偽書であるとも考えられる。
『律法』の第二部によると、分裂に至らしめた原因は、メシアニズムや神学論争ではなく、ユダヤ法の問題である。これは『律法』に限らず、第二神殿時代の主要な論争においても同様である。
第三部で語られている事項について、著者は以下のことを指摘している。まず、「私たち」が「人々の大多数」から分離したこと、そのときの宛名は「あなたがた」であること、聖書の三分割に言及するときには単数の「あなた」であること、その「あなた」に対する祝福と呪いとは申命記31:29および同30:1-2を用いていること、そうした祝福と呪いによって、「あなた」がイスラエルの王たちの時代を思い出すように諭されていること、などである。ここでの名宛人は、聖書時代の王たちと比較されるような者であることから、当時の状況からして、ハスモン家の大祭司であると考えられる。
論文著者による重要な指摘としては、『律法』と『神殿巻物』との並行箇所の存在が挙げられる。両者において、イスラエルの民について言及している五書の箇所が王に比されている。ちなみに、『律法』では義の教師への言及は一切ない。『ダマスコ文書』において、義の教師が来る20年前に最初のセクト的分離が起こったという記述があるが、『律法』はこうしたごく初期に書かれたものと思われる。
第二部の律法リストの議論から、論文著者は『律法』の著者の敵対者はラビ文学で言うところのパリサイ派あるいはタナイームであると考えており、一方で『律法』の著者はサドカイ派であると考えている。そこから著者が描き出すストーリーは以下のようなものである。セクトのごく初期のメンバーはサドカイ派だったが、彼らはマカベア戦争後のマカベア家の横暴(大祭司を自分たちから立てて、ツァドク派の権威を弱めた)を受け入れることを拒んでいた。そこでこれら不満を持つツァドクたちがエルサレムの主流派から分離し、「ツァドクの子ら」を名乗りつつ、自分たちこそが真のイスラエルであると考えるようになった。一方でエルサレムに残ったサドカイ派たちは、ハスモン家の祭司たちのもとでパリサイ派的な見解を持つに至った。当初メンバーは神殿に残った派閥との和解を希望していた(それゆえに、『律法』はクムランの発展の中で最初期のテクストであるといえる)。しかし、それは不可能と悟り、セクトとして発展していき、のちに義の教師が現れるに至った。
この仮説が正しいとすると、論文著者は4つのことが指摘できると述べる。第一に、このセクトはハシディームではない。第二に、セクトがパリサイ派の下位グループから出てきたと考えることはできない。第三に、クムラン=エッセネ派仮説に関して、エッセネ派はもともとサドカイ派のセクトを指す用語だったと考えなければならない。言い換えれば、サドカイ派が過激化して完全にセクト化したものがエッセネ派である。第四に、クムランの文書がセクト文書ではなく、当時の一般的なユダヤ教文書であるとはいえない。
『律法』の第二部によると、分裂に至らしめた原因は、メシアニズムや神学論争ではなく、ユダヤ法の問題である。これは『律法』に限らず、第二神殿時代の主要な論争においても同様である。
第三部で語られている事項について、著者は以下のことを指摘している。まず、「私たち」が「人々の大多数」から分離したこと、そのときの宛名は「あなたがた」であること、聖書の三分割に言及するときには単数の「あなた」であること、その「あなた」に対する祝福と呪いとは申命記31:29および同30:1-2を用いていること、そうした祝福と呪いによって、「あなた」がイスラエルの王たちの時代を思い出すように諭されていること、などである。ここでの名宛人は、聖書時代の王たちと比較されるような者であることから、当時の状況からして、ハスモン家の大祭司であると考えられる。
論文著者による重要な指摘としては、『律法』と『神殿巻物』との並行箇所の存在が挙げられる。両者において、イスラエルの民について言及している五書の箇所が王に比されている。ちなみに、『律法』では義の教師への言及は一切ない。『ダマスコ文書』において、義の教師が来る20年前に最初のセクト的分離が起こったという記述があるが、『律法』はこうしたごく初期に書かれたものと思われる。
第二部の律法リストの議論から、論文著者は『律法』の著者の敵対者はラビ文学で言うところのパリサイ派あるいはタナイームであると考えており、一方で『律法』の著者はサドカイ派であると考えている。そこから著者が描き出すストーリーは以下のようなものである。セクトのごく初期のメンバーはサドカイ派だったが、彼らはマカベア戦争後のマカベア家の横暴(大祭司を自分たちから立てて、ツァドク派の権威を弱めた)を受け入れることを拒んでいた。そこでこれら不満を持つツァドクたちがエルサレムの主流派から分離し、「ツァドクの子ら」を名乗りつつ、自分たちこそが真のイスラエルであると考えるようになった。一方でエルサレムに残ったサドカイ派たちは、ハスモン家の祭司たちのもとでパリサイ派的な見解を持つに至った。当初メンバーは神殿に残った派閥との和解を希望していた(それゆえに、『律法』はクムランの発展の中で最初期のテクストであるといえる)。しかし、それは不可能と悟り、セクトとして発展していき、のちに義の教師が現れるに至った。
この仮説が正しいとすると、論文著者は4つのことが指摘できると述べる。第一に、このセクトはハシディームではない。第二に、セクトがパリサイ派の下位グループから出てきたと考えることはできない。第三に、クムラン=エッセネ派仮説に関して、エッセネ派はもともとサドカイ派のセクトを指す用語だったと考えなければならない。言い換えれば、サドカイ派が過激化して完全にセクト化したものがエッセネ派である。第四に、クムランの文書がセクト文書ではなく、当時の一般的なユダヤ教文書であるとはいえない。
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