- Aharon Shemesh, "Halakhah between the Dead Sea Scrolls and Rabbinic Literature," in The Oxford Handbook of the Dead Sea Scrolls, ed. Timothy H. Lim and John J. Collins (Oxford: Oxford University Press, 2012), pp. 595-616.
The Oxford Handbook of The Dead Sea Scrolls (Oxford Handbooks) Timothy H. Lim Oxford Univ Pr (Txt) 2012-12-02 売り上げランキング : 340837 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
本論文は、死海文書の法的解釈について、特にミシュナーとミドラッシュを中心としたラビ文学との比較をしたものである。著者は死海文書の「エッセネ派仮説」を支持している。ただし、『律法儀礼遵守論』(4QMMT)などからは、サドカイ派的な特徴が見受けられる。そこでJacob Sussmannは、サドカイ派とエッセネ派とは別のグループだが、法的システムに関して共有する部分もあると考えた。そして両者は明らかにパリサイ派からは異なっている。
死海文書には、それ自体としては法テクストではないが法的部分を含むテクスト、まごうかたなき法的テクスト、さまざまな法的問題を広く収集しているテクストがあり、三つ目の代表例として、『神殿巻物』と『ダマスコ文書』がある。『神殿巻物』はいわゆるrewritten Bibleと呼ばれるもので、聖書テクストに依存しながら法解釈をするのではなく、自らをトーラーと同列のものと考えている。そのため、神は三人称ではなく一人称で直接語りかけてくる。また、研究者によっては、rewritten Bibleではなくalternative Pentateuchal textsと呼ぶ者もいる。一方で『ダマスコ文書』は聖書テクストと解釈とをはっきりと区別し、なおかつトピックに従って説明が加えられている。聖書引用はほとんどないが、ある場合にも、それは証明句ではなく、トピックの題名として機能しており、法的解釈がどのように聖書から証明されるのかについては明らかにされていない。すなわち、自らをトーラーと同じ権威があるものと考える『神殿巻物』に対し、『ダマスコ文書』はトーラーの権威に依拠しつつ、トーラーの正しい解釈を伝える権威者として振舞っているのである。
こうした死海文書とラビ文学とを比較すると、聖書の流れに従い、また一節ずつ互いに関係しているミドラッシュは、『神殿巻物』や他のrewritten Bibleと似ている。一方で、トピックに従って攻勢されているミシュナーは、『ダマスコ文書』と似ている。逆に、自らを権威と考えるという点では、ミシュナーは『神殿巻物』と似ており、自らをトーラーの解釈者と規定するという点では、ミドラッシュは『神殿巻物』と似ている。ただし、死海文書とラビ文学との決定的な違いは、ラビ文学はラビたちの議論や、棄却された解釈ですら保存している点である(マハロケット)。
死海文書では、法の権威として神の啓示の概念が共有されている。ただし、ここでも『神殿巻物』およびrewritten Bibleと『ダマスコ文書』とでは違いがある。『神殿巻物』は『ヨベル書』同様に、自らはモーセによってシナイ山で啓示されたものだと考えていた。一方で、『ダマスコ文書』や『共同体の規則』(1QS)は、トーラーには「顕かにされた意味(niglot)」と「隠された意味(nistarot)」とがあるという理解をもとに(申29:28)、神への回帰と贖いとは全イスラエルではなく、一部のセクトにのみ課せられた課題であると考えた。両者は共に、法の権威を神の霊感に帰しているといえる。これらに対し、ラビ文学は人間の自主性を強調する。すなわち、預言と法解釈とにははっきりとした違いがあるのである。ハラハーは人間の営為であり、神的権威ではなく人間的な過程から引き出されるものである。
ヨセフスやタルムードの記事から見ると、パリサイ派は伝承に重きを置くのに対し、サドカイ派は聖書に書かれていることのみを議論する。この点で、死海文書はサドカイ派と共通している。一般的に、死海文書やサドカイ派はパリサイ派よりも厳格な法解釈をするという特徴がある。これを、もともとサドカイ派的厳格路線が主流だったのをパリサイ派が和らげたのだとする研究者がいるが、むしろ当時一般的に許されていたことをも、サドカイ派は聖書に照らして禁じたと考えるべきと著者は言う。こうした例として、『ダマスコ文書』における叔父と姪との結婚の禁止について論じている。レビ18:10, 17には、結婚が禁じられている近親関係が挙げられているが、ここにない関係(例えば叔父と姪)でも、同等のものが禁止されていれば(例えば祖母との結婚がダメなら祖父との結婚もダメであり、祖父の妻との結婚がダメなら孫の妻との結婚もダメ)、基本的に禁止されていた(ゆえに叔父と姪ともダメ)。しかし、これに対しパリサイ派は父祖の伝統に則り、不必要な禁止を加えないように努めた。
死海文書のハラハーの特徴を描き出したものとして、著者はJacob SussmanとDaniel Schwartzの研究を挙げている。前者はサドカイ派の厳格路線とパリサイ派の甘め路線とを指摘した。パリサイ派はしばしば「ドルシェ・ハハラコット」と呼ばれるが、これは「滑らかなものの探求者」が字義通りの意味だが、実際には「より容易な解釈の探求者」という意味であった。これはパリサイ派の自己理解である「ドルシェ・ハハラホット(律法の探求者)」のもじって揶揄したものである。サドカイ派にとってみれば、パリサイ派は律法遵守に関してより簡単で快適な生活をしているにもかかわらず、自分たちを敬虔な者と見なしている不届き者ということになる。Schwartzは、サドカイ派を「現実的」、パリサイ派を「規範的」と表現した。すなわち、サドカイ派が法を自然や現実に即したガイドラインと見なしたのに対し、パリサイ派は法を神によって作られた掟であると見なしたのである。この点で、死海文書も現実的といえる。
ユダヤ教の法文書を、著者は「発展的(developmental)」と「反映的(reflective)」というモデルに分けている。前者のモデルによれば、死海文書は古い法的伝承で、それが発展してラビ文学になったといえる。後者のモデルによれば、ラビ文学の法解釈は、死海文書の法的伝統の反映だと考えられる。シャマイ学派の法解釈は、しばしば死海文書のそれとの類似性が指摘されているが、これは発展的モデルから説明される。ラビ・アキバに代表される、高度に洗練されたミドラッシュ的テクニックは、反映的モデルから説明される。
死海文書には、それ自体としては法テクストではないが法的部分を含むテクスト、まごうかたなき法的テクスト、さまざまな法的問題を広く収集しているテクストがあり、三つ目の代表例として、『神殿巻物』と『ダマスコ文書』がある。『神殿巻物』はいわゆるrewritten Bibleと呼ばれるもので、聖書テクストに依存しながら法解釈をするのではなく、自らをトーラーと同列のものと考えている。そのため、神は三人称ではなく一人称で直接語りかけてくる。また、研究者によっては、rewritten Bibleではなくalternative Pentateuchal textsと呼ぶ者もいる。一方で『ダマスコ文書』は聖書テクストと解釈とをはっきりと区別し、なおかつトピックに従って説明が加えられている。聖書引用はほとんどないが、ある場合にも、それは証明句ではなく、トピックの題名として機能しており、法的解釈がどのように聖書から証明されるのかについては明らかにされていない。すなわち、自らをトーラーと同じ権威があるものと考える『神殿巻物』に対し、『ダマスコ文書』はトーラーの権威に依拠しつつ、トーラーの正しい解釈を伝える権威者として振舞っているのである。
こうした死海文書とラビ文学とを比較すると、聖書の流れに従い、また一節ずつ互いに関係しているミドラッシュは、『神殿巻物』や他のrewritten Bibleと似ている。一方で、トピックに従って攻勢されているミシュナーは、『ダマスコ文書』と似ている。逆に、自らを権威と考えるという点では、ミシュナーは『神殿巻物』と似ており、自らをトーラーの解釈者と規定するという点では、ミドラッシュは『神殿巻物』と似ている。ただし、死海文書とラビ文学との決定的な違いは、ラビ文学はラビたちの議論や、棄却された解釈ですら保存している点である(マハロケット)。
死海文書では、法の権威として神の啓示の概念が共有されている。ただし、ここでも『神殿巻物』およびrewritten Bibleと『ダマスコ文書』とでは違いがある。『神殿巻物』は『ヨベル書』同様に、自らはモーセによってシナイ山で啓示されたものだと考えていた。一方で、『ダマスコ文書』や『共同体の規則』(1QS)は、トーラーには「顕かにされた意味(niglot)」と「隠された意味(nistarot)」とがあるという理解をもとに(申29:28)、神への回帰と贖いとは全イスラエルではなく、一部のセクトにのみ課せられた課題であると考えた。両者は共に、法の権威を神の霊感に帰しているといえる。これらに対し、ラビ文学は人間の自主性を強調する。すなわち、預言と法解釈とにははっきりとした違いがあるのである。ハラハーは人間の営為であり、神的権威ではなく人間的な過程から引き出されるものである。
ヨセフスやタルムードの記事から見ると、パリサイ派は伝承に重きを置くのに対し、サドカイ派は聖書に書かれていることのみを議論する。この点で、死海文書はサドカイ派と共通している。一般的に、死海文書やサドカイ派はパリサイ派よりも厳格な法解釈をするという特徴がある。これを、もともとサドカイ派的厳格路線が主流だったのをパリサイ派が和らげたのだとする研究者がいるが、むしろ当時一般的に許されていたことをも、サドカイ派は聖書に照らして禁じたと考えるべきと著者は言う。こうした例として、『ダマスコ文書』における叔父と姪との結婚の禁止について論じている。レビ18:10, 17には、結婚が禁じられている近親関係が挙げられているが、ここにない関係(例えば叔父と姪)でも、同等のものが禁止されていれば(例えば祖母との結婚がダメなら祖父との結婚もダメであり、祖父の妻との結婚がダメなら孫の妻との結婚もダメ)、基本的に禁止されていた(ゆえに叔父と姪ともダメ)。しかし、これに対しパリサイ派は父祖の伝統に則り、不必要な禁止を加えないように努めた。
死海文書のハラハーの特徴を描き出したものとして、著者はJacob SussmanとDaniel Schwartzの研究を挙げている。前者はサドカイ派の厳格路線とパリサイ派の甘め路線とを指摘した。パリサイ派はしばしば「ドルシェ・ハハラコット」と呼ばれるが、これは「滑らかなものの探求者」が字義通りの意味だが、実際には「より容易な解釈の探求者」という意味であった。これはパリサイ派の自己理解である「ドルシェ・ハハラホット(律法の探求者)」のもじって揶揄したものである。サドカイ派にとってみれば、パリサイ派は律法遵守に関してより簡単で快適な生活をしているにもかかわらず、自分たちを敬虔な者と見なしている不届き者ということになる。Schwartzは、サドカイ派を「現実的」、パリサイ派を「規範的」と表現した。すなわち、サドカイ派が法を自然や現実に即したガイドラインと見なしたのに対し、パリサイ派は法を神によって作られた掟であると見なしたのである。この点で、死海文書も現実的といえる。
ユダヤ教の法文書を、著者は「発展的(developmental)」と「反映的(reflective)」というモデルに分けている。前者のモデルによれば、死海文書は古い法的伝承で、それが発展してラビ文学になったといえる。後者のモデルによれば、ラビ文学の法解釈は、死海文書の法的伝統の反映だと考えられる。シャマイ学派の法解釈は、しばしば死海文書のそれとの類似性が指摘されているが、これは発展的モデルから説明される。ラビ・アキバに代表される、高度に洗練されたミドラッシュ的テクニックは、反映的モデルから説明される。
0 件のコメント:
コメントを投稿