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2021年6月3日木曜日

第二神殿時代のサラ #2

  •  Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 32-87.

本章においては、創世記のマソラ本文におけるサラのキャラクター性が論じられている。著者はサラが実在の人物であるかのように、自分自身の経験というフィルターを通じてmimetic readingで創世記を読み解く。

創11:26-12:9:サラはまず女性および妻(つまり性的に成熟した女性)として定義されている。サラはアブラハムによって妻として「取られた」のであり、それゆえにアブラハム「の女」と呼ばれる。主導権ははっきりとアブラハムにあるので、彼よりも力は弱い。「サラ」という名前の語源は「支配、優越、所有」といった意味を持つが、実際には「所有される者」(「所有する者」ではなく)として描かれている。たとえばサラは「子供がいない」と説明されている。その原因はアブラハムではなくサラに帰されている。アブラハムの妻、ロトの叔母、テラの義理の娘といったかたちで家族関係を得るが、テラの死によってそれを失う。しかしアブラハム一行がある程度財産を得ると、それは家族間で共有されるので、サラもわずかながら「所有する者」となる。こうした「所有」と「喪失」のパターンが繰り返される。

創12:10-13:2:エジプトで起こったこの事件はサラのキャラクターづけに重要な意味を持っている。サラはここで「見た目が美しい」とされている。つまり彼女は美しく人目を惹くわけだが、これは単にいい意味だけではなく、「モノ化(objectification)」され、高価な品のように扱われてしまうという悪い意味も持つ。実際エジプトでの出来事においてもサラは貿易の品のようにやり取りされるのみで何一つ自分で決めることがない。神からの助けも、サラがアブラハムの妻だから差し出されたものだった。それどころか神は、サラを売り飛ばした張本人であるアブラハムのもとに彼女を返している。つまりここでサラは明らかに人身売買の被害者である。彼女には価値があるが、それは家畜や奴隷のような意味での価値である。しかし、一連のエジプトでの事件の結果、アブラハム一家は巨額の富を築くことに成功した。こうしてサラもアブラハムの親族としてある程度の力を手に入れたのである。

創13:2-15:21:この部分ではサラは登場しない。しかしこの間のエピソードにおける人間関係から、サラのキャラクターについても学ぶことができる。たとえばサラは甥のロトを失っている。二人は何年も共に旅し、共にアブラハム以外の家族関係がないという共通点を持っていたが、ロトがいなくなったことでサラが大きな失意を味わったことは想像に難くない。エジプトでのトラウマとロトの喪失はサラの人間性を硬化させ、所有物への執着心を強めたのだった。また神がアブラハムの子孫を「星の数ほど」増やすと約束したことに対しアブラハムが実現可能か懸念を表明していることは、サラもまた同様の心配をしていたことを示唆している。

創16:1-16:サラのキャラクターは、アブラハム、ハガル、そして神との関係の中で理解される。対アブラハム:16:2でサラは初めてセリフを言うが(「見てください、ヤハウェは私に子を授けません。わが使え女のところに入ってください。きっと彼女によって私は立てられましょう」)、これは12:11-13のエジプトでのアブラハムの最初のセリフ(「見なさい、あなたが姿の美しい女性と私は知っている。……私の妹だ、と言ってくれ。私が厚遇されるように」)と同じ文章構造になっている。ヒネ・ナという同じ言葉から始まる両セリフからは、サラがアブラハムから甘言の弄し方を学んだことが分かる。アブラハムが自分に下謀略や虐待を学び、彼のようになったのである。サラはアブラハムに呪いの言葉すらかけている(16:5)。対ハガル:サラは子供を持っていないが、ハガルという奴隷を得た。サラは女主人としてハガルの性能力と生殖能力をいかようにもできたのでアブラハムに与えた。つまりサラはエジプトでアブラハムにされたのと同じような仕打ちをハガルにしたのである。また自分の見た目について自覚的なサラは、ハガルが自分を軽視するという「酷な仕打ち」(16:5)ゆえに、身重の彼女を「苦しめた」(16:6)という。「酷な仕打ち(ハマス)」をしたのはハガルというよりサラである。また「苦しめる(アナー)」は相当残忍な行為(女性が目的語になる場合しばしば性的含意を有する)を指す。対神:さらに神的存在がこうした残虐さを是認し、ひどいことをした張本人のもとに被害者を返しているのもエジプトの時と同様である。以上のことから、この16章には12章のエジプトでの出来事との類似と反響があり、結果として、エジプトで人間扱いされなかったサラがここでハガルを人間扱いしないことにより、虐待された者が今度は虐待する者になってしまった。

創17:1-27:この間にサラは登場しない。ただアブラムはアブラハムに、サライはサラに名前が変わっている。この名前の変化を契機に、サライの不妊はサラの多産へと切り替わる。ただしこれはアブラハムだけに与えられた啓示なので、サラ自身はその変化を知らない。

創18:1-15:この個所ではサラが実際にテントの中にいるさまが描かれている点が他と異なっている。アブラハムはサラにパンを焼くように言いつけるが、アブラハムを呪いハガルを虐待したサラが唯々諾々と従ったとは思えない。神の使者たちがサラの出産を予言すると、サラはそれを鼻で笑った。「老いてしまった私に喜びなどあるだろうか」(18:12)という部分は閉経、すなわち不妊を指すが、それだけでなく、アブラハムとの性的関係への悦びを失ったことをも指している。つまり「鼻で笑った」のは「性的に不能であるアブラハムに失望している自分が彼と子供を作ることなどあり得ない」という意味であったわけだが、神はそれをサラが「老いた自分に子供産ませるのは神でも不可能だ」と考えたのだと誤解した。そこで唯一この個所でのみサラに直接神が語りかけている。17章ではアブラハムも神に対して疑義を呈していたが、神はアブラハムよりもサラに対してより強く怒っている。16章におけるサラは不妊だが性的な積極性を持ち、奴隷を虐待する女主人だったが、18章では閉経し、性行為をやめてしまっている。子供への関心があるかどうかも曖昧である。対アブラハム:18章においてはアブラハムとの力関係は微妙に変わっており、サラは彼の言いつけを無視し、その性的不能を笑っている。対神:神との関係はより個人的なものとなっている。ハガルの事件において神はサラを肯定することで彼女のキャラクターを硬化させたが、ここではサラの笑いを誤って解釈し、あまつさえ脅すような物言いをすることで、やはり彼女を硬化させている。

創18:16-19:38:サラは登場しない。

創20:1-18:ゲラル寄留は12章のエジプト寄留と密接な並行関係にある。サラ自身についても、いずれの個所でもセリフはなく、外国の支配者に「取られ」ているとおり、男性の所有物であり、最終的に大きな報酬を受けている。しかしながら、12章と20章は一見似ていても、その間にサラが大きく変容している。まず20章にはアブラハムによるサラの説得の会話がない。12章の行いはアブラハムをポン引きとする売春行為であったが、20章のそれは美人局に近い。そうした意味ではサラは単なる売春の商品ではなく、詐欺行為に加担している。それはサラ自身がアビメレクに対して「彼は私の兄です」(20:5)と述べていることからも分かる。12章のエジプトでのサラはアブラハムによる性的人身売買の犠牲者であり、人間扱いされないことに慣れ、神の共謀を受けて自分を虐待する者に加わった。しかし、20章のサラは自分の虐待と喪失をより力のない性的代替者に向け、アブラハムを呪い、その性的不能を陰で笑い、奴隷とその腹の中の子を暴力に曝した。これだけの変化を経て、20章のサラ(older, harder Sarah)が12章でのサラと同じように声なき被害者であったはずがない。20:12においてアブラハムは、サラが実際に義理の妹である旨を説明しているが、これは明らかに一連の詐欺行為における策略の一部であろう。20章における本当の被害者はサラではなく、サラゆえに子供を産めなくなった王宮の女たちである(20:17-18)。サラはアブラハム同様、他の人たちの生命に対する配慮を欠いている。

創21:1-14:イサク誕生とハガルとイシュマエルの追放の物語からは、サラのキャラクターとしての硬化が残酷さを伴って固定されているのが分かる。サラの妊娠には神が関与しているが、イサクは神の血統というわけではなく、神の配慮のたまものである。サラはイサクの誕生によって柔和な人間になったわけではない。21:6には、「神は私に笑いをくれた。これを聞いた者たちは皆私と笑うでしょう」という肯定的な解釈のみならず、「神は私を笑い者にした。これを聞いた者たちは皆私を嘲笑うでしょう」という否定的な解釈も可能である。後者の場合、サラは子供の誕生という幸福の中でさえ他人の目を気にしていたことになる。イサクの乳離れの祝宴において、サラはイシュマエルが「戯れる」のを見たが、これは単に「戯れ」ているとも取れるし、誰かを「笑い者にする」とも取れる。後者だとすると、他人に笑われることを最も気にするサラを刺激したことだろう。酒宴の酔いも手伝い、サラはかつてないほど無慈悲な行動、すなわちハガルとイシュマエルをアブラハムに追放させることを決めた。アブラハムは躊躇したが、神がサラを後押ししたのだった。興味深いことに、これ以降サラも物語から消えてしまう。こうした無慈悲で残酷で弱さに基づく行為について、著者は怒りよりも哀れみを感じたと述べている。

創23:1-20:サラは127歳で死んだという。サラが死んだのはキルヤット・アルバであり、アブラハムはベエル・シェバで暮らしていたと書いてあるので、二人が一緒に暮らしていたかどうかは不明である。イサクの奉献の顛末も知らなかった可能性がある。サラは死してなお都合のいい道具として扱われている。というのも、アブラハムはサラを埋葬することを口実にマムレの近くの土地をヘト人から購入することに成功したからである。つまりサラの死体はカナンの地の獲得という最終目標の第一歩のために、あたかも道具のように用いられたのだった。

結論:対アブラハム:エジプトでアブラハムはサラを動物や奴隷のように売り買いの道具として用いた。このトラウマはサラ自身によるハガルの虐待を導いた。そのようにしてアブラハムそっくりになっていったサラはゲラルにおいて詐欺行為に加担する。このようにアブラハムはサラが使えるうちに使いつくし、最後には遺体までをも自分の利益のために利用した。対神:神はサラを自分の目的のために使っている。エジプトにおいてサラを救ったのはサラ自身のためではなく、サラをアブラハムのもとに返すためだった。神はサラが虐待者へと変貌することも後押しした。サラは神にとって、約束を成就させるための道具として重要だったのである。神は自分の目的を達成するためにサラの人間性を引き下げることすら厭わなかった。対ハガル:サラとハガルの関係は、アブラハムとサラの関係に似ている。サラはハガルの肉体を自分の目的のために用い、彼女を暴力的に虐待した。そして最終的にはハガルとイシュマエルの放逐に一役買った。こうした一連のひどい行為はアブラハムと神によって是認されていた。

以上のようにサラの周りには獲得と喪失、所有と欠如といったお題目が付いて回った。著者はそんなサラに共感や哀れみを抱いている。サラは搾取と残酷さという気の毒なサイクルの中で、ときに犠牲者に、ときに加害者になった。サラが次第に残酷さを受け入れていくのは、その方が神の計画を実行するために都合がよかったからである。ただしわずかな救いとして、著者はイサクの人間的に高潔な態度にサラとイサクとが意義深い関係性を築くことができたことが伺われると考えている。

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