- Sidnie White Crawford, "Ch. 1. Introduction" in id., Rewriting Scripture in Second Temple Times (Grand Rapids, MI: Eerdmans, 2008), pp. 1-18.
Rewriting Scripture in Second Temple Times (Studies in the Dead Sea Scrolls and Related Literature) Sidnie White Crawford Eerdmans Pub Co 2008-04-14 売り上げランキング : 513693 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
いわゆる「再説聖書(Rewritten Bible)」研究のまとめ。本書の中で、Crawfordは、ヘブライ語聖書テクストの伝承の歴史と、そのテクストの解釈の方法とを扱っている。第二神殿時代あるいはギリシア・ローマ時代の独特の解釈形態を、「Rewritten Bible」と名付けたのはGeza Vermesだった。彼はこのジャンルを、「現在の聖書のユダヤ的な正典の中に含まれる書物に対して、物語やテーマにおいて密接に関わっているもの、および現在の正典テクストの再整理、合成、補足など再加工したもの」と定義づけている。
しかしながら、著者はVermesの用語のRewrittenとBibleとを共に再考の必要ありと考えている。Rewrittenという語は、すでにある書物の存在を前提としている。しかし、すでに存在する書物を解釈するという営為自体は、第二神殿時代より前から行われていた。Michael Fishbaneの言う「聖書内聖書解釈(Inner biblical exegesis)」がそれである。聖書内聖書解釈は、写字生によって行われる。彼らは単に写本を写していただけではなく、受容されていたテクストにたえず干渉していたのである。それは彼らの役割が、正しいテクストを伝えることと共に、聖書テクストを同時代の状況にふさわしいものにすることだったからである。
またBibleという語にも問題がある。なぜなら、第二神殿時代には正典化された聖書など存在しなかったからである。あったのは、ユダヤ人によって一般的に権威ありと考えられていた文書群のみである。そこで著者はBibleの代わりにScriptureという語を用いることを提案している。すなわち、五書と、ほぼすべての預言書、そしてコーパスの不明な諸書の総称である。当時の聖書に含まれる文書を少しでも伝えているものとしては、ベン・シラ、ルカ、第四エズラ記、ヨセフス、そしてクムラン文書(4QMMT)などがある。
ある書物が権威ありと認められていると判断するには、四つの基準が考えられる:第一に、別の書物の中で権威あるものとして引用・暗示されていること。第二に、注解の対象になっていること。第三に、自身が権威あるものを宣言していること。そして第四に、ある共同体内でたくさんコピーされていることである。しかし、クムラン共同体では、たとえば申命記が上の基準をすべて満たすが、エステル記のコピーは見つかっていない。
こうしたことから、著者はVermesの言う、「ジャンルとしてのRewritten Bible」という用法を問題ありとし、むしろ「カテゴリーとしてのRewritten Scripture」という考え方をするべきだと述べている。著者がこのように考えるに至ったのは、Vermes以降の研究史(Philip Alexander, Moshe Bernstein, George Brooke, Emanuel Tov)に沿って、自然な帰結として導かれている。著者は特に、語の定義をより広くしようとしたBernsteinと、ジャンルではなくカテゴリーとして考えるべきと述べたBrookeに多くを負っているという。
著者自身の意見は、Rewritten Scriptureをジャンルではなくカテゴリーとして考えるというものである。そのとき、このカテゴリーの中に入るテクストは、すでに権威ありと見なされているテクストへの執着と同時に、解釈を目的とした写字生の干渉とを共に示すことになる。そこから、著者はRewritten Scriptureを4つのスペクトルに分ける。
しかしながら、著者はVermesの用語のRewrittenとBibleとを共に再考の必要ありと考えている。Rewrittenという語は、すでにある書物の存在を前提としている。しかし、すでに存在する書物を解釈するという営為自体は、第二神殿時代より前から行われていた。Michael Fishbaneの言う「聖書内聖書解釈(Inner biblical exegesis)」がそれである。聖書内聖書解釈は、写字生によって行われる。彼らは単に写本を写していただけではなく、受容されていたテクストにたえず干渉していたのである。それは彼らの役割が、正しいテクストを伝えることと共に、聖書テクストを同時代の状況にふさわしいものにすることだったからである。
またBibleという語にも問題がある。なぜなら、第二神殿時代には正典化された聖書など存在しなかったからである。あったのは、ユダヤ人によって一般的に権威ありと考えられていた文書群のみである。そこで著者はBibleの代わりにScriptureという語を用いることを提案している。すなわち、五書と、ほぼすべての預言書、そしてコーパスの不明な諸書の総称である。当時の聖書に含まれる文書を少しでも伝えているものとしては、ベン・シラ、ルカ、第四エズラ記、ヨセフス、そしてクムラン文書(4QMMT)などがある。
ある書物が権威ありと認められていると判断するには、四つの基準が考えられる:第一に、別の書物の中で権威あるものとして引用・暗示されていること。第二に、注解の対象になっていること。第三に、自身が権威あるものを宣言していること。そして第四に、ある共同体内でたくさんコピーされていることである。しかし、クムラン共同体では、たとえば申命記が上の基準をすべて満たすが、エステル記のコピーは見つかっていない。
こうしたことから、著者はVermesの言う、「ジャンルとしてのRewritten Bible」という用法を問題ありとし、むしろ「カテゴリーとしてのRewritten Scripture」という考え方をするべきだと述べている。著者がこのように考えるに至ったのは、Vermes以降の研究史(Philip Alexander, Moshe Bernstein, George Brooke, Emanuel Tov)に沿って、自然な帰結として導かれている。著者は特に、語の定義をより広くしようとしたBernsteinと、ジャンルではなくカテゴリーとして考えるべきと述べたBrookeに多くを負っているという。
著者自身の意見は、Rewritten Scriptureをジャンルではなくカテゴリーとして考えるというものである。そのとき、このカテゴリーの中に入るテクストは、すでに権威ありと見なされているテクストへの執着と同時に、解釈を目的とした写字生の干渉とを共に示すことになる。そこから、著者はRewritten Scriptureを4つのスペクトルに分ける。
- グループを超えて権威ありと認められる文書で、既存のテクスト内のみでharmonizationが行われるもの。
- 既存のベース・テクストの外部の材料を用いた干渉をするが、それによって新しい著作を生み出そうとするわけではないもの:Reworked Pentateuchとも呼ぶ。
- 既存テクストへの干渉が激しく、もはや新しい著作と呼べるもの:ヨベル書、神殿巻物など。
- 上の定義に周辺的に関わるだけのもの:外典創世記、レンマ型注解など。
これに加えて、上の定義に入らないものを著者はparabiblical textsと呼んで区別する。これには、第一エノク書、偽エゼキエル、アダムとイブの生涯、ヨセフとアセナトなどがある。
上の4つのものに共通する特徴としては、多くが特に祭司制度に強く関心を持っていることが挙げられる。これはパリサイ派的・ラビ的な解釈とは相反する特徴である。
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