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2019年3月12日火曜日

ヒエロニュムスとギリシア語 Courcelle, "Christian Hellenism: St. Jerome #1: Jerome and the Greek Language"

  • Pierre Courcelle, Late Latin Writers and Their Greek Sources (trans. Harry E. Wedeck; Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1969), 48-58.

Late Latin Writers and Their Greek Sources
Pierre Courcelle
Harvard University Press
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ヒエロニュムスはドナトゥスの学塾にいた頃に、当時の慣例に沿って、ギリシア文法家のもとでも学んでいたはずである。また修辞学を学び始めるに当たって、古典ギリシア文学の手ほどきを受けたと思われる。とはいえ、ギリシア語が母語の人たちの間で暮らしたのは、373年にアンティオキアに移ってからだった。ヒエロニュムスは語学の才能があったが、アンティオキアで6年を過ごしてもギリシア語をそれほど流暢には話さなかった。ここではポルフュリオスの著作を通してアリストテレスの弁証法などを学んだり、ラオディキアのアポリナリオスに師事した。カルキス砂漠滞在を挟んで、コンスタンティノポリスに移ると、ナジアンゾスのグレゴリオスをはじめとするギリシア教父と交流した。キプロスではエピファニオスに、エジプトではディデュモスに会った。ベツレヘムではラテン語のみならずギリシア語でも説教をした。

ヒエロニュムスの霊的な成長には二段階あった。第一に、異教的なラテン文化のみを享受していた時代と、第二に、教会の召命によってギリシア語を話す国に行った時代である。

ヒエロニュムスはラテン語で相当する語が見つからないときにはそのままギリシア語で書くほど、この言語に習熟した。それは比喩表現や言葉の調子に関するものの場合もあれば、哲学用語の場合もあった。

ヒエロニュムスにとっては、特定のギリシア語テクストはラテン語訳よりも明晰であった。ラテン語はギリシア語をきちんとした言い回しで翻訳することができないときがある。もしあるギリシア語の訳し方に複数の可能性がある場合、ヒエロニュムスは両方を学んだ。

翻訳技法については、『書簡57』が詳しい。しかし、自身の翻訳原理については、エウセビオス『年代記』翻訳序文においてすでにはっきりと述べていた。『書簡57』では聖書翻訳のみは例外的に原典に忠実であるべきと述べていたが、聖書翻訳を扱った『書簡106』では、逐語的でありすぎる翻訳者の弊害を非難している。ヒエロニュムスはラテン語翻訳の先達の方法論を保とうとした。『書簡57』での聖書の逐語訳への志向は、古ラテン語訳の信奉者に対し最も辛辣でないやり方で、ギリシア語写本の聖書テクストを改訂するための方便に過ぎなかったのだろう。実際、古ラテン語訳があまりに逐語的であったりラテン語として悪文になっているとき、彼はそれを躊躇なく修正した。

重要な要素はテクストの意味を保存し、それが訳される目標言語への敬意を失わないことである。『書簡106』ではエウフォニアという語を用いているが、これは「調和」ではなく、ラテン語としての「いい響き」を意味している。ヒエロニュムスは原典のリズムもまた保存されるべきと述べる。

聖書という最も原典に対する忠実性が求められる書物の翻訳に際しても、ヒエロニュムスは逐語訳と格闘することをやめなかった。ただし、その非逐語訳への志向はキケローほど大胆なものでもなかった。またキケローを範としていたので、新造語をキケローの権威に拠らずして用いることはなかった。

ヒエロニュムスの説教にはギリシア語的な言い回しが出てくるが、彼が完全にヘレニズム化されたのかというと、そういうことはなく、やはりラテン語としての純粋性を保存しようという意思の方が強い。彼のギリシア文化への通暁とギリシア教父文学の読書は、ヒエロニュムスのうちにあるラテン文化や異教文化を消すには至らなかった。

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