- Gustav Bardy, "St. Jerome and Greek Thought," in A Monument to Saint Jerome: Essays on Some Aspects of his Life, Works and Influence, ed. Francis X. Murphy (New York: Sheed & Ward, 1952), 85-112.
ヒエロニュムスは長く東方世界で暮らしたが、ギリシアの神学思想からの影響を受けたのだろうか。彼の東方滞在は神学思想が栄えた時期と符合している。アレイオス主義をめぐって、バシレイオス、ナジアンゾスのグレゴリオス、アレクサンドリアのディデュモス、ラオディケイアのアポリナリオスら、多くの思想家が自らの思想を深化させた。
アンティオキアにいた370年代初頭、ヒエロニュムスはメレティオスとパウリノスの対立に巻き込まれた。カルキス砂漠で知り合っていた修道士たちは前者を推したが、ヒエロニュムスは、ローマのダマススなどの支援を受けていたパウリノスの側についた。論文著者によれば、当時のヒエロニュムスのギリシア語能力では、三位一体に関する両者の神学的な議論の微妙なニュアンスを理解できなかったため、三つの位格に関するメレティオスの教説を異端的と感じたのだろう。そもそもこうした神学論争にヒエロニュムスはほとんど興味を持たなかった。
コンスタンティノポリスでは、ナジアンゾスのグレゴリオス、ニュッサのグレゴリオス、イコニオンのアンフィロキオスらの知遇を得た。しかしながら、彼が主として深い関係を持っていたのは西方世界の人々だった。彼は経験を積み、ギリシア語やヘブライ語を学んだ。彼は多くのことを見て、また多くの人を知った。しかし、彼はいつもラテン人だったのである。アンブロシウスは逆に、いつもイタリアにいたが、東方世界と常にコンタクトを取り続けた。アンブロシウスの霊感は完全にギリシア的であり、それを隠そうともしなかった。ヒエロニュムスはコンスタンティノポリスでオリゲネスの説教を翻訳した。しかし、彼が崇拝したのは『諸原理について』を書いた形而上学者ではなく、『ヘクサプラ』を作成した学者としてのオリゲネスだった。
アンティオキアにいた370年代初頭、ヒエロニュムスはメレティオスとパウリノスの対立に巻き込まれた。カルキス砂漠で知り合っていた修道士たちは前者を推したが、ヒエロニュムスは、ローマのダマススなどの支援を受けていたパウリノスの側についた。論文著者によれば、当時のヒエロニュムスのギリシア語能力では、三位一体に関する両者の神学的な議論の微妙なニュアンスを理解できなかったため、三つの位格に関するメレティオスの教説を異端的と感じたのだろう。そもそもこうした神学論争にヒエロニュムスはほとんど興味を持たなかった。
コンスタンティノポリスでは、ナジアンゾスのグレゴリオス、ニュッサのグレゴリオス、イコニオンのアンフィロキオスらの知遇を得た。しかしながら、彼が主として深い関係を持っていたのは西方世界の人々だった。彼は経験を積み、ギリシア語やヘブライ語を学んだ。彼は多くのことを見て、また多くの人を知った。しかし、彼はいつもラテン人だったのである。アンブロシウスは逆に、いつもイタリアにいたが、東方世界と常にコンタクトを取り続けた。アンブロシウスの霊感は完全にギリシア的であり、それを隠そうともしなかった。ヒエロニュムスはコンスタンティノポリスでオリゲネスの説教を翻訳した。しかし、彼が崇拝したのは『諸原理について』を書いた形而上学者ではなく、『ヘクサプラ』を作成した学者としてのオリゲネスだった。
ベツレヘムの修道院に移ってからも、ヒエロニュムスの周りにはラテン人ばかりだった。彼らが修道院を離れて赴いたのも、西方世界である。彼らを通じて、ヒエロニュムスは西方の友人たちと手紙を取り交わした。また多くのラテン人の巡礼者たちがエルサレムとベツレヘムを訪れ、ヒエロニュムスの修道院にもやってきた。西方世界と聖地には常に人の行き来があったのである。ローマが蛮族の侵入によって壊滅すると、そこを逃れてくる者たちがパレスチナに押し寄せた。「我々は彼らすべてを助けることはできないが、少なくとも彼らの被害を気の毒に思い、ともに涙しよう」とヒエロニュムスは語っている。
ヒエロニュムスは友人のルフィヌスにキケローの著作の写本を作成してもらったが、それは子供たちに古典文学を教えるためだった。ヒエロニュムスの教育活動についてはあまり知られていないが、ベツレヘムにいるラテン人の子弟を教えていたものと思われる。ギリシア人がラテン文学を学ぼうとしたとは考えにくい。
ヒエロニュムスが唯一東方的なやり方に従っていたのが、礼拝や聖餐式のやり方である。というのも、ベツレヘムの修道院はエルサレム教区にあり、エルサレム司教の統制下にあったからである。しかし、そもそもヒエロニュムスは教会活動に積極的でなく、叙階された司祭でありながら、洗礼を授けることも聖餐式を執り行うこともなかった。修道士としての自由を維持できれば、あとは気にしなかったのである。わずかに東方出身の弟子もいたが、パウラのもとにいる女性グループにおける東方出身者の割合に比べると、わずかなものだった。とはいえ、彼らのためにヒエロニュムスがギリシア語で説教をしたこともあったようである。
ベツレヘムに住みながらも、ヒエロニュムスと西方世界の関係はますます密接になり、東方世界との関係はますます希薄になった。彼はナジアンゾスのグレゴリオスともニュッサのグレゴリオスともイコニオンのアンフィロキロコスともアレクサンドリアのディデュモスとも手紙を交わすことはなく、手紙の中で引用することも少なかった。しかし、エピファニオス、エルサレムのヨアンネス、アレクサンドリアのテオフィロスとの交流はあった。
ヒエロニュムスは友人のルフィヌスにキケローの著作の写本を作成してもらったが、それは子供たちに古典文学を教えるためだった。ヒエロニュムスの教育活動についてはあまり知られていないが、ベツレヘムにいるラテン人の子弟を教えていたものと思われる。ギリシア人がラテン文学を学ぼうとしたとは考えにくい。
ヒエロニュムスが唯一東方的なやり方に従っていたのが、礼拝や聖餐式のやり方である。というのも、ベツレヘムの修道院はエルサレム教区にあり、エルサレム司教の統制下にあったからである。しかし、そもそもヒエロニュムスは教会活動に積極的でなく、叙階された司祭でありながら、洗礼を授けることも聖餐式を執り行うこともなかった。修道士としての自由を維持できれば、あとは気にしなかったのである。わずかに東方出身の弟子もいたが、パウラのもとにいる女性グループにおける東方出身者の割合に比べると、わずかなものだった。とはいえ、彼らのためにヒエロニュムスがギリシア語で説教をしたこともあったようである。
ベツレヘムに住みながらも、ヒエロニュムスと西方世界の関係はますます密接になり、東方世界との関係はますます希薄になった。彼はナジアンゾスのグレゴリオスともニュッサのグレゴリオスともイコニオンのアンフィロキロコスともアレクサンドリアのディデュモスとも手紙を交わすことはなく、手紙の中で引用することも少なかった。しかし、エピファニオス、エルサレムのヨアンネス、アレクサンドリアのテオフィロスとの交流はあった。
ヒエロニュムスの聖書翻訳はラテン教会のための仕事である。彼はヘブライ語テクストには誤りは少しも含まれていない一方で、ギリシア語テクストには本文の損傷を意味する多様性があると考えていた。彼はラテン語世界に向けた翻訳を作ったつもりだったが、実際には支持者よりも敵対者の方が多かった。そうした構図はずっと変わらず、ラテン世界が彼の翻訳を重視したのは彼の死後のことだった。ヒエロニュムスの聖書注解もまた西方世界に向けられていた。彼はまずオリゲネスの説教の翻訳から始め、『コヘレト書注解』のような過渡期の作品(ヘブライ人教師やキリスト教聖書解釈者や古典文学からの引用が多い)、パウロ書簡の注解のような自身の釈義法を確立した作品、預言書の注解のようなさらにそれを推し進めた作品などがある。彼の注解の方法論は西方の読者を満足させた。
三位一体説に関する議論でもそうだったが、ヒエロニュムスは東方の教義的な運動にはまるで参加しなかった。ギリシア人が使う言葉を理解し、説明し、正当化することはヒエロニュムスの関心の埒外だった。一方で、ローマで議論されている問題については情熱をもって当たった。ルキフェル、ヨウィニアヌス、ウィギランティウス、ペラギウスらとは激しい論争を交わした。
オリゲネスについては、当初は西方世界の人々は何ら関心を持っていなかった。問題も感じていなかったので、ヒエロニュムスもかつてオリゲネスの作品を多数翻訳することができた。エルサレムでエピファニオスとヨアンネスが戦っているときはまだ大丈夫だったが、ルフィヌスが『諸原理について』を翻訳してから、オリゲネス主義論争の主たる舞台がエルサレムからローマに移ったのである。ローマの人々はオリゲネスの異端を問題視し始めたのは、ヒエロニュムスの翻訳が普及してからである。それまではそうした高度に神学的な問題を理解できる者はほとんどいなかった。ヒエロニュムスはアレクサンドリアのテオフィロスによるオリゲネス攻撃もラテン語に翻訳した。おかげで西方世界はテオフィロスの最新の著作を常に読むことができた。オリゲネス主義論争の火が西方世界で激しく燃えたのは、まさしくヒエロニュムスの翻訳の力によるところが大だった。ただし、それを消したのが蛮族によるイタリア侵攻であり、ローマの陥落だった。悲劇に直面して、ローマは神学論争を忘れてしまったのである。
ヒエロニュムスは西方世界で大きな影響力を持ったが、東方世界では関心を持たれなかった。彼が東方に注意していたほど、東方は彼のことを注意しなかった。しかし、いつも彼は西方への神託の役割を演じていた。イタリア、アフリカ、ガリア、イスパニア、パレスチナは、皆ヒエロニュムスのアドバイスをほしがった。彼が何か言えば、皆心して耳を傾けた。この時代、教会の統一は理論上まだ維持されており、東方世界と西方世界には分裂は起こっていなかった。しかしながら、実際には、東方世界も西方世界も自分のことにしか関心がなく、両方のグループをつなぐような問題は存在しなかったのである。
三位一体説に関する議論でもそうだったが、ヒエロニュムスは東方の教義的な運動にはまるで参加しなかった。ギリシア人が使う言葉を理解し、説明し、正当化することはヒエロニュムスの関心の埒外だった。一方で、ローマで議論されている問題については情熱をもって当たった。ルキフェル、ヨウィニアヌス、ウィギランティウス、ペラギウスらとは激しい論争を交わした。
オリゲネスについては、当初は西方世界の人々は何ら関心を持っていなかった。問題も感じていなかったので、ヒエロニュムスもかつてオリゲネスの作品を多数翻訳することができた。エルサレムでエピファニオスとヨアンネスが戦っているときはまだ大丈夫だったが、ルフィヌスが『諸原理について』を翻訳してから、オリゲネス主義論争の主たる舞台がエルサレムからローマに移ったのである。ローマの人々はオリゲネスの異端を問題視し始めたのは、ヒエロニュムスの翻訳が普及してからである。それまではそうした高度に神学的な問題を理解できる者はほとんどいなかった。ヒエロニュムスはアレクサンドリアのテオフィロスによるオリゲネス攻撃もラテン語に翻訳した。おかげで西方世界はテオフィロスの最新の著作を常に読むことができた。オリゲネス主義論争の火が西方世界で激しく燃えたのは、まさしくヒエロニュムスの翻訳の力によるところが大だった。ただし、それを消したのが蛮族によるイタリア侵攻であり、ローマの陥落だった。悲劇に直面して、ローマは神学論争を忘れてしまったのである。
ヒエロニュムスは西方世界で大きな影響力を持ったが、東方世界では関心を持たれなかった。彼が東方に注意していたほど、東方は彼のことを注意しなかった。しかし、いつも彼は西方への神託の役割を演じていた。イタリア、アフリカ、ガリア、イスパニア、パレスチナは、皆ヒエロニュムスのアドバイスをほしがった。彼が何か言えば、皆心して耳を傾けた。この時代、教会の統一は理論上まだ維持されており、東方世界と西方世界には分裂は起こっていなかった。しかしながら、実際には、東方世界も西方世界も自分のことにしか関心がなく、両方のグループをつなぐような問題は存在しなかったのである。
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