- Andrew S. Jacobs, "'What Has Rome to do with Bethlehem?' Cultural Capital(s) and Religious Imperialism in Late Ancient Christianity," Classical Receptions Journal 3 (2011): 29-45.
キリスト者が社会における公的な役割を果たすようになった4世紀、ローマの古典的なパイデイアは道具ともなれば危険ともなった。洗練された神学議論はギリシア文化に由来する哲学的言語なしには不可能だったが、それは同時に非キリスト教的・異教的な考えを蓄えてしまうことにもなった。パイデイアのキリスト教的な翻訳をめぐる緊張関係は、ヒエロニュムスとルフィヌスの論争からも分かる。両者の互いへの敵意にはさまざな理由があり、個人的なものと宗教的なものが指摘されることが多いが、論文著者は文化的かつ政治的な理由もあるという。
こうした学識の政治学を明らかにするために、論文著者はピエール・ブルデューの「文化資本(cultural capital)」という概念を援用している。教育や文化といった知識獲得の制度化は、階級の権力を先導し維持するための保守的な手段なのである。ホメロスも、プラトンも、ウェルギリウスも、キケローも、支配階級に属する世襲財産である。
ルフィヌスとヒエロニュムスの論争は、オリゲネスに関する神学的なものだけではなく、「翻訳」に関わるものだった。この「翻訳」という一見機械的な手続きこそが、文化資本の再生産に一役買っているのである。初期ローマ帝国において、ギリシア語からラテン語への翻訳能力は文化資本の源だった。貴族たちは、自分たちの文化的な優越を、知的・政治的な統制を証明するギリシア語の知識、すなわちバイリンガリズムという枠組みで保持したのである。
ヒエロニュムスの時代には、こうした二言語使用の学識はそれほど一般的ではなかった。アウグスティヌスがギリシア語をほとんど解さなかったことからそれは分かる。しかしながら、それでもなおギリシア語の知識はラテン語教育の中に文化的価値の名残を留めていた。ヒエロニュムスはこのギリシア語の知識という文化資本をもとに、翻訳を通じてキリスト教的パイデイアを豊かにする知識人に仕立て上げたのである。このように、翻訳は確かにヒエロニュムスやルフィヌスに文化資本を獲得する手段を授けたが、それは同時に社会的な摩擦も生んだ。両者は翻訳を価値あるプロジェクトだと考えてはいたが、異なった価値観を持っていたからである。
ヒエロニュムスは、ローマ定刻特有の多言語の文化資本の伝統にキリスト教的フレーバーを与えようとした。ローマの文化経済は、その領域内の異質さ(heterogeneity)を保存しようとする。翻訳を通じて他者の知識を吸収することは、ローマの統制を知らせている。ヒエロニュムスはこうした統制モデルが有用であることに気づいた。そこで、シリアとコンスタンティノポリスに住んでいた380年以降、ギリシア語のキリスト教文学をラテン語に翻訳し始めたのだった。翻訳という文化資本は、ヒエロニュムス自身のみならず、キリスト教の知識を生み出すことにも権威を与えた。さらに、ヒエロニュムスは聖地に移ってからもこうしたローマ式の文化資本を追及したことで、翻訳のモデルを拡張することにも成功した。A. Kamesarが言うように、彼の鋭敏な「ラテン語性」や「ラテン語的な感受性」が新たな聖書翻訳に彼を導いたのだった。論文著者はそこにローマのキリスト教の文化的帝国主義を見出している。
ルフィヌスは、ヒエロニュムスが有用と考えていた、翻訳による「他者(=非キリスト者)」の知識の統制という観点を問題視した。ルフィヌスによれば、ヒエロニュムスは古典文学を捨てたと言いながら読み続けている偽善者であり、古典に傾倒することで天への忠誠心も持たぬ不届き者だと批判した。とりわけ、キリストへの攻撃者であるポルフュリオスに言及したり、ユダヤ人教師のようなキリスト教の外部の者から知識を得たりしていることは万死に値する、と。ヒエロニュムスは、自分がギリシア人やユダヤ人から得た知識の他者性はキリスト教において評価されてきたものだと主張し、ルフィヌスはこうした文化資本の帝国主義的モデルを拒絶したのだった。
ルフィヌスはヒエロニュムスの翻訳の価値を下げることを試みた。ルフィヌスに言わせれば、オリゲネスでさえ『ヘクサプラ』を欄で分けることで、聖書と教会外の知識を物理的に離そうとしたにもかかわらず、ヒエロニュムスは不敬虔にもキリスト教を汚染した。ヒエロニュムスがもたらした他者の知識の翻訳は、彼が他のキリスト者にトレードできるような信用や資本を何も与えなかった、という。
ヒエロニュムスはこれに対し、ルフィヌスの知的努力は無教養な者のフリにすぎず、キリスト教信仰の文化経済におけるまがいものだと攻撃した。つまるところ、ヒエロニュムスはルフィヌスを異端者呼ばわりしているわけである。ルフィヌスは忠実な翻訳者のふりをしているが、実際には、オリゲネスの写本が異端者に改竄されたと信じてさまざまな改変を施した。自分はそれを癒すレメディーたることを望まれている、とヒエロニュムスは主張した。
ルフィヌスは、ヒエロニュムスが有用と考えていた、翻訳による「他者(=非キリスト者)」の知識の統制という観点を問題視した。ルフィヌスによれば、ヒエロニュムスは古典文学を捨てたと言いながら読み続けている偽善者であり、古典に傾倒することで天への忠誠心も持たぬ不届き者だと批判した。とりわけ、キリストへの攻撃者であるポルフュリオスに言及したり、ユダヤ人教師のようなキリスト教の外部の者から知識を得たりしていることは万死に値する、と。ヒエロニュムスは、自分がギリシア人やユダヤ人から得た知識の他者性はキリスト教において評価されてきたものだと主張し、ルフィヌスはこうした文化資本の帝国主義的モデルを拒絶したのだった。
ルフィヌスはヒエロニュムスの翻訳の価値を下げることを試みた。ルフィヌスに言わせれば、オリゲネスでさえ『ヘクサプラ』を欄で分けることで、聖書と教会外の知識を物理的に離そうとしたにもかかわらず、ヒエロニュムスは不敬虔にもキリスト教を汚染した。ヒエロニュムスがもたらした他者の知識の翻訳は、彼が他のキリスト者にトレードできるような信用や資本を何も与えなかった、という。
ヒエロニュムスはこれに対し、ルフィヌスの知的努力は無教養な者のフリにすぎず、キリスト教信仰の文化経済におけるまがいものだと攻撃した。つまるところ、ヒエロニュムスはルフィヌスを異端者呼ばわりしているわけである。ルフィヌスは忠実な翻訳者のふりをしているが、実際には、オリゲネスの写本が異端者に改竄されたと信じてさまざまな改変を施した。自分はそれを癒すレメディーたることを望まれている、とヒエロニュムスは主張した。
結論。ヒエロニュムスはローマの文化経済をキリスト教化しようとした。その際に、他者(異端、異教徒、ユダヤ人)の知識はすべてキリスト教にとっての潜在的な資本であった。一方でルフィヌスにとって翻訳とは慎ましい営為であって、ヒエロニュムスの理解のように統制と関わるものではなかった。他者の知識がキリスト教サークルに入るには、翻訳というプロセスの中で浄化されて「洗礼」を受けなければならなかった。ヒエロニュムスの帝国主義的な考え方とルフィヌスの禁欲主義的な考え方は、対極にあるというよりは、パイデイアをめぐって補完的な関係にある。
0 件のコメント:
コメントを投稿