- 小高毅訳『オリゲネス:「諸原理について」』(キリスト教古典叢書9)創文社、1978年。
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オリゲネス『諸原理について』第4巻における聖書解釈に関する記述を抜粋しておく。
4.1.7 (pp. 283-84)
我々の弱い理解力が個々の言葉の下に秘められ、隠されている意味を見きわめ得ないからといって、聖書がその全体にわたって霊感によるものであるのを否認してはならない。なぜなら、〔聖書の〕粗末な言葉という器のうちい神的知恵の宝が隠されているからである。……実際、我々の書物〔聖書〕が、修辞学の手法とか哲学的明敏さをもって記述されることで人々を信ずべく誘引したのであったなら、疑いもなく、我々の信仰は、神の力に基づかず、言葉の巧妙さ及び人間的知恵に基づくものとみなされるだろう。
4.1.7 (pp. 283-84)
我々の弱い理解力が個々の言葉の下に秘められ、隠されている意味を見きわめ得ないからといって、聖書がその全体にわたって霊感によるものであるのを否認してはならない。なぜなら、〔聖書の〕粗末な言葉という器のうちい神的知恵の宝が隠されているからである。……実際、我々の書物〔聖書〕が、修辞学の手法とか哲学的明敏さをもって記述されることで人々を信ずべく誘引したのであったなら、疑いもなく、我々の信仰は、神の力に基づかず、言葉の巧妙さ及び人間的知恵に基づくものとみなされるだろう。
4.2.4 (p. 289)
各自がその魂のうちに聖書の理解を三回記すべきなのである。それは、まず単純な人々が、いわば聖書のからだそのもの――聖書の普通の歴史的意味を、ここで聖書のからだと呼んでいる――によって教化されるためであり、次にある程度進歩し始め、より一層深く洞察しうる人々が聖書の魂そのものによって教化されるためであり、ついに完全な人々、使徒〔パウロ〕が「しかし我々は完全な人々の間では知恵を語る。この知恵は、この世のものではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。むしろ我々が語るのは、隠された秘儀としての神の知恵である。それは神が、我々の受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれあものである」と言っているような人々が、「来るべき良いことの陰影をやどす」霊的律法によって、いわば霊によって教化されるためである。したがって、人間が身体と魂と霊によって構成されていると言われるように、人間の救いのために神の賜物として与えられた聖書も〔同様に構成されているのである〕。
4.2.5 (p. 290)
しかしながら、聖書のある箇所においては、「からだ」と言った〔意味〕、すなわち適切な歴史的な意味が存在しない場合があるのを知っておかねばならない。……そのような箇所には、先に聖書の「魂」及び「霊」と呼んだ意味のみが求められるべきである。
4.2.9 (pp. 294-95)
神の知恵は、不可能なことや辻褄の合わないことに関する話を途中に挿入して、文字通りの理解の上で、妨げあるいは中断ともなるものを〔聖書に〕挿入した。それは、叙述の中断が、障害物のように、読者の行く手をさえぎるためである。この障害物は、通俗的な理解の道を進むのをはばみ、〔この道を進むのを〕拒絶され引き返すのを余儀なくされた我々を、別の道の入り口に呼びもどし、こうして狭い小径の入り口を潜り抜け、一層高度な卓抜した道を通って神的知識の測り難い広がりへと導くためである。
4.2.9 (p. 295)
聖霊は、歴史上起こったある出来事が霊的意味を伝えるのに適しているのを見たときに、常により深い秘められた意味を隠しつつ、両者〔つまり歴史的意味と霊的意味〕を一つの叙述の中に含ませた。しかし歴史上の出来事の記述が霊的〔意味〕の一貫性に適合し得ない場合には、時として聖霊は、実際に起こらなかったこと、つまりあるいは全く起こり得ない出来事、あるいは起こりうるが実際には起こらなかったこと出来事の話をも聖書に挿入した。時としては、文字通りの意味では真理として認められ得ないと思われる若干の表現を挿入し、またある時には、そのような表現を数多く挿入した。……聖霊がこれらすべてのことを挿入したのは、我々が、一見真実でも有益でもあり得ないと思われることから、繰り返し、入念に、徹底的に、より深い真理を見きわめるべく導かれ、神からの霊感によって書かれたものと信じられている聖書のうちに、神にふさわしい意味を探究するよう刺激されるためである。
4.3.4 (pp. 299-300)
しかしながら、聖書の記述のあるものは実際の出来事ではあるまいと見なしているからといって、聖書の記述は何一つとして実際の出来事を述べていないと、私が主張しているとはとらないでほしい。また、不条理で遵守不能であるから、ある戒めは文字通りに遵守するのは不可能であると言ったからといって、律法の戒めは何一つとして価値がないと主張しているととらないでほしい。また救い主に関して書かれた事柄が、感覚的な形でも起こったということを私が否定したり、彼の戒めを文字通りに遵守する必要がないと考えたりしているととらないでほしい。大部分の場合、歴史的な意味を真実として認めうるし、認めねばならないというのが、私の意見であるとはっきり言っておこう。……単に霊的な意味のみを有している〔記述〕よりも、歴史的な意味をも固辞している〔記述〕の方が、遙かに多いのである。
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各自がその魂のうちに聖書の理解を三回記すべきなのである。それは、まず単純な人々が、いわば聖書のからだそのもの――聖書の普通の歴史的意味を、ここで聖書のからだと呼んでいる――によって教化されるためであり、次にある程度進歩し始め、より一層深く洞察しうる人々が聖書の魂そのものによって教化されるためであり、ついに完全な人々、使徒〔パウロ〕が「しかし我々は完全な人々の間では知恵を語る。この知恵は、この世のものではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。むしろ我々が語るのは、隠された秘儀としての神の知恵である。それは神が、我々の受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれあものである」と言っているような人々が、「来るべき良いことの陰影をやどす」霊的律法によって、いわば霊によって教化されるためである。したがって、人間が身体と魂と霊によって構成されていると言われるように、人間の救いのために神の賜物として与えられた聖書も〔同様に構成されているのである〕。
4.2.5 (p. 290)
しかしながら、聖書のある箇所においては、「からだ」と言った〔意味〕、すなわち適切な歴史的な意味が存在しない場合があるのを知っておかねばならない。……そのような箇所には、先に聖書の「魂」及び「霊」と呼んだ意味のみが求められるべきである。
4.2.9 (pp. 294-95)
神の知恵は、不可能なことや辻褄の合わないことに関する話を途中に挿入して、文字通りの理解の上で、妨げあるいは中断ともなるものを〔聖書に〕挿入した。それは、叙述の中断が、障害物のように、読者の行く手をさえぎるためである。この障害物は、通俗的な理解の道を進むのをはばみ、〔この道を進むのを〕拒絶され引き返すのを余儀なくされた我々を、別の道の入り口に呼びもどし、こうして狭い小径の入り口を潜り抜け、一層高度な卓抜した道を通って神的知識の測り難い広がりへと導くためである。
4.2.9 (p. 295)
聖霊は、歴史上起こったある出来事が霊的意味を伝えるのに適しているのを見たときに、常により深い秘められた意味を隠しつつ、両者〔つまり歴史的意味と霊的意味〕を一つの叙述の中に含ませた。しかし歴史上の出来事の記述が霊的〔意味〕の一貫性に適合し得ない場合には、時として聖霊は、実際に起こらなかったこと、つまりあるいは全く起こり得ない出来事、あるいは起こりうるが実際には起こらなかったこと出来事の話をも聖書に挿入した。時としては、文字通りの意味では真理として認められ得ないと思われる若干の表現を挿入し、またある時には、そのような表現を数多く挿入した。……聖霊がこれらすべてのことを挿入したのは、我々が、一見真実でも有益でもあり得ないと思われることから、繰り返し、入念に、徹底的に、より深い真理を見きわめるべく導かれ、神からの霊感によって書かれたものと信じられている聖書のうちに、神にふさわしい意味を探究するよう刺激されるためである。
4.3.4 (pp. 299-300)
しかしながら、聖書の記述のあるものは実際の出来事ではあるまいと見なしているからといって、聖書の記述は何一つとして実際の出来事を述べていないと、私が主張しているとはとらないでほしい。また、不条理で遵守不能であるから、ある戒めは文字通りに遵守するのは不可能であると言ったからといって、律法の戒めは何一つとして価値がないと主張しているととらないでほしい。また救い主に関して書かれた事柄が、感覚的な形でも起こったということを私が否定したり、彼の戒めを文字通りに遵守する必要がないと考えたりしているととらないでほしい。大部分の場合、歴史的な意味を真実として認めうるし、認めねばならないというのが、私の意見であるとはっきり言っておこう。……単に霊的な意味のみを有している〔記述〕よりも、歴史的な意味をも固辞している〔記述〕の方が、遙かに多いのである。
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