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2017年3月7日火曜日

『アリステアスの手紙』とアリストブロス Siegert, "Early Jewish Interpretation in a Hellenistic Style" #2 

  • Folker Siegert, "Early Jewish Interpretation in a Hellenistic Style," in Hebrew Bible/Old Testament: The History of Its Interpretation 1: From the Beginnings to the Middle Ages (Until 1300), ed. Magne Sæbø (Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 1996), pp. 130-98, esp. pp. 144-62.

『アリステアスの手紙』(以下『手紙』)とアリストブロスに関する箇所を読んだ。ヘレニズム期のユダヤ人注釈家たちは、ギリシア語聖書とは別物としてのヘブライ語聖書には言及しなかった。これは『手紙』とアリストブロスにも言えることである。

『アリステアスの手紙』はギリシア語訳五書の成立縁起を扱っているので、実際のところは「報告(διήγησις)」と呼んだ方が相応しい。物語部分は政治的なプロパガンダにもなっている。『手紙』によると、七十人訳の翻訳者たちが互いに「比較(ἀντιβολή)」することで訳文を一致させたという。このἀντιβολήとは、アレクサンドリア文献学においては「校合」を意味する言葉でもある。

『手紙』はモーセをユニークな存在としてではなく、むしろ古代における律法制定者のイメージを積極的に用いて描いている。また五書の訳文の完璧な正確さと、それを変更することの禁止とに触れていることから、五書の他のギリシア語訳に反対していることが伺われる。すなわち、これはユダヤ内部の議論であると言える。

『手紙』の特徴は、犠牲のような具体的な規則を、抽象的な価値に基づいた倫理に転換することで、メタフォリカルに理解することである。神の栄光は焼き尽くす捧げ物の煙によってではなく、魂の清らかさと神の崇高な概念によって高められる。

『手紙』は聖書的伝統をギリシア哲学の枠組みの中で守ろうとした。同書を歴史書として読むと疑わしいが(アレクサンドリアのユダヤ人は当地の文献学の伝統に関心を示さなかったので)、神学護教論の文書として読むと、終末論をなくして哲学を語ろうとしている点で知的作品だと言える。

アリストブロスは、二マカ1:10に出てくる人物と同一視されることがあるが、基本的にどのような人物だったかはまるで分っていない。『手紙』よりは修辞的魅力に欠ける問答形式の作品が、5つの断片のみ残っている。それらはすべてエウセビオスによって引用されたものである。ラテン世界ではヒエロニュムスのみが彼の名に言及している。

アリストブロスによれば、モーセの言葉は必ずしも表面的な意味で受け取るべきでなく、メタフォリカルに理解しなければならないという。また彼は、ソクラテス、プラトン、ピタゴラス、さらにオルフェウスまでもが実はユダヤの律法を模倣したのだと考えた。アリストブロスもまた、ホメロスやヘシオドスの黙示的な一節を引用することに集中するあまり、アレクサンドリアの文献学の伝統には疎かった。その神理解はストア派のそれに近く、アラトスの汎神論のような記述が残されている。

アリストブロスが聖書を引用する場合、ほとんど七十人訳に依拠しているが、ヘブライ語テクストに近いところも見つかっている(出3:20)。その引用は必ずしも字義的でなく、多くの場合は短い。聖書解釈に関しては、ある一節にはいつも付加的な意味があるはずだと考えた。複数の意味の解釈を求めるという点で、ヘブライ語の用語で言うところのダラッシュに近い。

まとめると、アリストブロスは自然的な意味に対して関心を持ち、『手紙』はより倫理的な意味に対して関心を持った。前者の方が後者よりも知的だった。

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