- Sarah Kamin, "Rashbam's Conception of the Creation: In Light of the Intellectual Currents of his Time," Scripta Hierosolymitana 31 (1986): 91-132.
本論文は、ラシュバム(ラビ・シュモエル・ベン・メイール、1080-1160)による創世記1章の注解に焦点を当てて、彼の聖書解釈の特徴を明らかにしたものである。彼の主張をまとめると以下のようになる。創世記1章の創造物語は、創造の全過程を明らかにしたものではなく、あくまで部分的に記しているにすぎない。記述の中で最初に実際に創造されたのは、3節の光である。しかし光が創造されたときにはすでに天と地は創造されていたので、天と地の創造は、創世記1章で描かれる六日間の創造の中には入っていないのである。著者はラシュバムの聖書解釈の特徴を、ラシとの比較、同時代のキリスト教聖書解釈との比較、そして同時代のユダヤ教聖書解釈との比較から明らかにしている。
ラシとの比較。ラシュバムは部分的にラシと聖書解釈を共有しており、共に創1:1を後続の節に対する時間的な従属節と捉えている。これは、文法的にベレシートという言葉が「はじめに」という独立した句にはなり得ず、むしろ次の言葉と共に「天と地の創造のはじめに」と取られるべきだからである。といっても、両者の力点の置き所は異なっている。ラシュバムは「天と地の創造のとき〔あと〕に、〔すでに創造されていた〕地は混沌だった」と読むのに対し、ラシは「天と地の創造のはじめに、また地が混沌で闇があるときに、神は光あれと言った」と読む。すなわち、ラシュバムは主節を2節とするのに対し、ラシは3節としているのである。ただしいずれの場合も、創世記の記述の中で最初に創造されたものは3節の光であって、天と地の創造は描かれていないことになる。水の上を漂っていた「風」について、ラシはそれをミドラッシュに依拠して「神の玉座」のことと解釈するが、ラシュバムは単なる「風」とし、その風が上の水と下の水を分けたと説明した。すなわちラシに比して、ラシュバムは我々が現実の世界で見えることのみに限定して創造物語を説明しようとしている。
さらにラシュバムは、創造物語の目的とは創造の過程を示すことではなく、十戒における安息日遵守の掟を示すことだと考えている。すなわちトーラーの本当のはじまり創1:1ではなく、シナイ山におけるモーセへのトーラー授受のときだというのである。ラシュバムによれば、聖書は必ずしもそのときに必要でないことも、あとで別の場所で出てくるときのために先に説明することがあるので、創世記1章も同様の機能を持っている(この原理は北フランスの聖書解釈者たちに共通して知られていたが、それを創造物語に適用したのはラシュバムのみ)。すなわち、安息日遵守こそが創世記の著者としてのモーセの目的ではあるが、実際に出エジプト記でそのことを説明する前に、創世記のはじめにそのアイデアを示しているのである。すると、ここで描かれていることは創造物語のすべてではなく、安息日について説明するために必要なことのみであるといえる。ラシュバムの解釈に、宇宙進化論的(cosmogonical)な説明が欠けているのも、このことゆえにである。
ラシとの比較。ラシュバムは部分的にラシと聖書解釈を共有しており、共に創1:1を後続の節に対する時間的な従属節と捉えている。これは、文法的にベレシートという言葉が「はじめに」という独立した句にはなり得ず、むしろ次の言葉と共に「天と地の創造のはじめに」と取られるべきだからである。といっても、両者の力点の置き所は異なっている。ラシュバムは「天と地の創造のとき〔あと〕に、〔すでに創造されていた〕地は混沌だった」と読むのに対し、ラシは「天と地の創造のはじめに、また地が混沌で闇があるときに、神は光あれと言った」と読む。すなわち、ラシュバムは主節を2節とするのに対し、ラシは3節としているのである。ただしいずれの場合も、創世記の記述の中で最初に創造されたものは3節の光であって、天と地の創造は描かれていないことになる。水の上を漂っていた「風」について、ラシはそれをミドラッシュに依拠して「神の玉座」のことと解釈するが、ラシュバムは単なる「風」とし、その風が上の水と下の水を分けたと説明した。すなわちラシに比して、ラシュバムは我々が現実の世界で見えることのみに限定して創造物語を説明しようとしている。
さらにラシュバムは、創造物語の目的とは創造の過程を示すことではなく、十戒における安息日遵守の掟を示すことだと考えている。すなわちトーラーの本当のはじまり創1:1ではなく、シナイ山におけるモーセへのトーラー授受のときだというのである。ラシュバムによれば、聖書は必ずしもそのときに必要でないことも、あとで別の場所で出てくるときのために先に説明することがあるので、創世記1章も同様の機能を持っている(この原理は北フランスの聖書解釈者たちに共通して知られていたが、それを創造物語に適用したのはラシュバムのみ)。すなわち、安息日遵守こそが創世記の著者としてのモーセの目的ではあるが、実際に出エジプト記でそのことを説明する前に、創世記のはじめにそのアイデアを示しているのである。すると、ここで描かれていることは創造物語のすべてではなく、安息日について説明するために必要なことのみであるといえる。ラシュバムの解釈に、宇宙進化論的(cosmogonical)な説明が欠けているのも、このことゆえにである。
同時代のキリスト教聖書解釈との比較。ラシュバムは聖書解釈におけるプシャット(字義的解釈)とデラッシュ(説教的解釈)との区別、そして両者の価値を共に認めつつも、自身のプシャットへの依拠を明確にしている。実はこうした「並行するいくつかのレベルの意味解釈の中で、字義的解釈の優位性を認める」という姿勢は、当時のキリスト教聖書解釈(サン・ヴィクトール学派、アベラール)の特徴でもあった。彼らは字義的解釈を中心にしつつも、寓意的、倫理的、そして神秘的解釈をも視野に入れていた。また字義的解釈の重視から、両者は共に、モーセ(著者)が創造物語の中で言及しているのは、目に見えるこの世のものについてのみであると考えていた。ただし両者には違いもあって、キリスト教聖書解釈は、字義的解釈と寓意的解釈とが相互に依存しており、前者が後者の素地であると考えるのに対し、ラシュバムは、字義的解釈(プシャット)と非字義的解釈(デラッシュ)とを相互に独立した等価値のものであると考えた。さらに、創造物語が安息日の遵守の説明になっているという理解は、やはりラシュバム独自のものである。いうなれば、キリスト教聖書解釈が現世的な可知的世界と精神的な不可知的な世界とを区別するという哲学的なアプローチを取るのに対し、ラシュバムは理解可能な人間世界と、神秘主義の対象となる神的世界とを区別しているのである。以上より、同時代のキリスト教聖書解釈はラシュバムと共通点も持っているが、それだけではラシュバムの独創性を説明できないといえる。
同時代のユダヤ教聖書解釈との比較。同時代のユダヤ教聖書解釈と比較してラシュバムがぬきんでているのは、彼が創造物語を説明するのに宇宙進化論的あるいは神智学的な説明を一切用いなかったという点である。コヘレト書2:3, 13の注解において、ラシュバムはセフェル・イェツィラーやメルカバー神秘主義といった「深い知恵」と、普通の人間が持っている「常識的な知恵」とを区別しているが、彼は創造物語の解釈に際して後者のみを使うべきと考えているのである。つまり、神秘主義的説明の欠如は意図的なものだったのだ。これは翻って考えると、当時のユダヤ教聖書解釈の多くは、創造物語の説明のために「深い知恵」ばかりを用いてしまっているということでもある。たとえばラシである。ラシュバムもラシも共に、創造物語が創造の順序について教えているわけではないという認識を共有していたが、ラシはミドラッシュに依拠し、宇宙進化論的な理解をもとに創造物語を解釈していた。またラシュバムはベレシートという言葉を「~の創造のあとで」と読むことで、無からの創造の立場を取らなかった。つまり、モーセが創造物語を可知的なことにのみ限定して描いたように、ラシュバムももまた創造以前のことには何の言及もしないようにしたのである。なぜなら、当時の多くのユダヤ教聖書解釈(ラビ・ユダ・ハシッドやシャバタイ・ドノーロ、ベホル・ショル)のように、これを「~の創造の前に」と取ってしまうと、創造の神秘を説明するための宇宙進化論的説明が必要になってしまうからである。たとえばベホル・ショルは創世記の記述を創造の全体像を表しているものと捉え、そこから神学的な原理を論じている。しかしながら、ラシュバムにとって聖書解釈とはあくまでプシャットとデラッシュに基づいたものであり、それ以外の「深い知恵」によるメルカバー神秘主義やセフェル・ハイェツィラーの解釈は受け入れ不可能なのであった。
同時代のユダヤ教聖書解釈との比較。同時代のユダヤ教聖書解釈と比較してラシュバムがぬきんでているのは、彼が創造物語を説明するのに宇宙進化論的あるいは神智学的な説明を一切用いなかったという点である。コヘレト書2:3, 13の注解において、ラシュバムはセフェル・イェツィラーやメルカバー神秘主義といった「深い知恵」と、普通の人間が持っている「常識的な知恵」とを区別しているが、彼は創造物語の解釈に際して後者のみを使うべきと考えているのである。つまり、神秘主義的説明の欠如は意図的なものだったのだ。これは翻って考えると、当時のユダヤ教聖書解釈の多くは、創造物語の説明のために「深い知恵」ばかりを用いてしまっているということでもある。たとえばラシである。ラシュバムもラシも共に、創造物語が創造の順序について教えているわけではないという認識を共有していたが、ラシはミドラッシュに依拠し、宇宙進化論的な理解をもとに創造物語を解釈していた。またラシュバムはベレシートという言葉を「~の創造のあとで」と読むことで、無からの創造の立場を取らなかった。つまり、モーセが創造物語を可知的なことにのみ限定して描いたように、ラシュバムももまた創造以前のことには何の言及もしないようにしたのである。なぜなら、当時の多くのユダヤ教聖書解釈(ラビ・ユダ・ハシッドやシャバタイ・ドノーロ、ベホル・ショル)のように、これを「~の創造の前に」と取ってしまうと、創造の神秘を説明するための宇宙進化論的説明が必要になってしまうからである。たとえばベホル・ショルは創世記の記述を創造の全体像を表しているものと捉え、そこから神学的な原理を論じている。しかしながら、ラシュバムにとって聖書解釈とはあくまでプシャットとデラッシュに基づいたものであり、それ以外の「深い知恵」によるメルカバー神秘主義やセフェル・ハイェツィラーの解釈は受け入れ不可能なのであった。
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