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2019年2月28日木曜日

オリゲネス『諸原理について』の各証言:『フィロカリア』、ルフィヌス、ヒエロニュムス、ユスティニアヌス Crouzel and Simonetti, "Introduction"

  • Henri Crouzel and Manlio Simonetti (ed.), Origène: Traité des principes 1 (Sources Chrétiennes 252; Paris: Cerf, 1978), 22-33.

Traité des principes t.1
Traité des principes t.1
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Simonetti Manlio
Cerf

オリゲネス『諸原理について』のギリシア語原典の全体は存在しない。代わりに4つ、あるいは5つの証言が存在する。第一に、オリゲネスの『フィロカリア』である。これは2部に分かれたテクストで、『諸原理について』全体の約7分の1を含んでいる。信頼できるが教義上の慎重さから省略されたり要約されたりしている箇所がある。ルフィヌスやヒエロニュムスの版と比較できるという長所がある。

第二に、ルフィヌスのラテン語版がある。これは『諸原理について』の唯一の証言だが、必ずしも完全ではない。研究者たちの中にはこれをほとんど信頼しない者もいる。なぜなら、キリスト教的というよりも哲学的なオリゲネスの組織的な概念と一致しないからである。とはいえ、Gustave Bardyの比較研究によって大部分が復権している。ルフィヌスはまずは『オリゲネスの書物の偽造について』の中で、次に『諸原理について』の役者序文の中で、オリゲネスの著作には正統的なところと異端的なところがあると認めている。しかし、異端的なところは異端者による改竄であるという。ルフィヌスはこのことを、オリゲネス自身の証言(『アレクサンドリアの友人宛書簡』)と1世紀のキリスト教文学の例から証明している。それゆえに、オリゲネスの記述が不明瞭なとき、ルフィヌスはラテン語読者が分かりやすいように、オリゲネスの他の著作から付け加えたり、信仰上の問題点を取り除いたりした。しかし、ルフィヌスは自分自身の見解を持ち込んだり、オリゲネスが書いてもいないことを加えたりはしなかった。

ルフィヌス訳は『フィロカリア』の一部と比較することができる。オリゲネスの「危険な」アイデアがあるとき、『フィロカリア』選者はそれを省略し、ルフィヌスは保存する。ルフィヌスはそうした箇所を翻訳しないよりはパラフレーズして残すのである。訳し方も、ラテン語読者にとって明快であることを目指していたので、簡潔すぎる原文は、解説、移行、要約、申し立て、拡大などしたのだった。ルフィヌスが原文の意味をよく分かっていないようなところもあるが稀である。原文を逐語的に訳すこともあれば、原文から遠くアイデアだけを訳すこともある。哲学用語はルフィヌスにとって問題であった。自由意志について使われているストア派的語彙についてルフィヌスは当惑したため、ギリシア語のままにしたり、ラテン語化したり、パラフレーズしたりした。神学的語彙は自分の時代の用語に変えている。聖書引用はオリゲネスが用いた七十人訳から直接訳している。既存の古ラテン語訳は用いなかった。

結論としては、ルフィヌスの版は信頼に足る。翻訳というよりは、全般的に正確なパラフレーズというべきである。原文を削除することはあっても、オリゲネスが言っていないことを付け加えることはなかった。ヒエロニュムスやユスティニアヌスの版は、ルフィヌスが省略した部分を補うために使うことができるかもしれないが、ルフィヌスが二者と食い違うからといってアプリオリにルフィヌスが誤っているとは言えない。オリゲネスが別の著作でどのように述べているかを考慮しつつ、それぞれのケースは個別に調べるべきである。

第三に、ヒエロニュムスの断片がある。『諸原理について』のルフィヌス訳の正確性についてローマの友人たちから問い合わされたヒエロニュムスは、新たに逐語的な翻訳を作成した。しかし、その内容に恐れおののいた友人パンマキウスは、ヒエロニュムス訳を自分の書斎に鍵をかけて保存した。それから10年ほど経って、アウィトゥスなる人物がヒエロニュムスに手紙でその翻訳を読みたいと依頼してきたのだった。ヒエロニュムスは翻訳と共に手紙を送ったが、現存するのはそのうちの手紙だけである。その中で『諸原理について』の翻訳が引用されている。

『書簡57』で、ヒエロニュムスは聖書テクストと世俗テクストで翻訳法を区別する旨を書いているが(世俗は意訳、聖書は逐語訳)、オリゲネスの『エレミヤ書説教』などの世俗的なギリシア語テクストの翻訳にもそうした原則が働いていたのかを調べることができる。E. Klostermannは、『エレミヤ書説教』の翻訳で、ヒエロニュムスは聖書翻訳のように逐語的に訳しているところがあると述べる。しかし、読者が理解しやすいように、ときにパラフレーズ、省略、改竄、そしてヒエロニュムス特有の大袈裟さも見られる。彼はイメージ描写を行い、難解さをエレガントに隠し、気取りとお洒落さを拡大し、衒学的にしたのである。

『諸原理について』は文字通りに訳したとヒエロニュムスは主張するが、『フィロカリア』およびルフィヌス版と比較するとそうは思わない。第3巻(1.22)において、ルフィヌスはほぼギリシア語に忠実だが、ヒエロニュムスは魂の先在に関する暗示的な記述を明示的に訳している。第4巻(3.10)でもルフィヌスはヒエロニュムスより原文に忠実である。ただし、ヒエロニュムス版はルフィヌスが省略した「危険な」部分(三位一体など)や重複部分を含んでいる。ここから、ヒエロニュムスはオリゲネスの異端性を強調しようとしていたことが分かる。

しかしながら、ヒエロニュムスのテクストはあくまで『書簡124』の中での引用である。しかも、明示的な引用と、地の文との「結合組織(le tissu conjonctif)」(要約であったり前後の意味を与えるものであったりする)を区別しなければならない。ヒエロニュムス自身の解釈は、「結合組織」の方により多く含まれているはずである。

理性的被造物の肉体性と非肉体性の議論において、オリゲネスは両論を併記し、結論を読者に委ねている。ルフィヌス版では、両論を挙げた上で、肉体性に軍配が上がるような文章になっている。別のところでは、肉体性を強調するために、非肉体性を無益な重複として省略している。一方で、ヒエロニュムス版ではほぼ非肉体性の議論のみが扱われる。ヒエロニュムスの意図はオリゲネスの異端性の強調なので、彼は文脈の全体から異端側の議論だけを示したのだった。

ヒエロニュムス版は、ルフィヌスが省略したり縮めたりしたものを与えてくれる。これは、ある偏向に別の偏向を対立させることである。ヒエロニュムス版をルフィヌス版が保存する文脈の中に戻して、ヒエロニュムスの意図を再検討することが必要である。翻訳そのものに向かいがちだが、ヒエロニュムスの解釈を評価しなければならない。その際には、オリゲネスの他の著作やそれらの4世紀における理解を参照することが重要である。ヒエロニュムス特有の(ルフィヌスにもギリシア語原典にもないような)過剰さは剥ぎ取らなければならない。

第四に、ユスティニアヌス帝の選集断片がある。ユスティニアヌスは2つのテクストを残している。第一に、『諸原理について』の断片的な選集である『メナス宛書簡』(543年)と、第二に、コンスタンティノポリスで開かれた第5回公会議の『公会議書簡』(553念)である。論文著者が扱うのは一つ目の方である。のちに教皇となるペラギウスは、エルサレムでの公務を果たしたあと、当地でコンスタンティノポリスから同行した修道士と落ち合った。この修道士たちは、オリゲネスを批判するためにペラギウスを通じて皇帝に働きかけた。そこでユスティニアヌス帝はオリゲネス批判文書を作成させたのだった。その文書には『諸原理について』からの抜粋が収録されたが、その実質的な選者は修道士たちである。ユスティニアヌス帝は文書の著者ではないし、『諸原理について』も読んではいない。

選集としての『メナス宛書簡』は、解釈部分を別にすれば、部分的にオリゲネスのテクストを再現している。それは、ルフィヌスとヒエロニュムスの往復書簡との比較からも見て取ることができる。ルフィヌス版と比較すると、しばしば抜粋者たちはあちこちでフレーズを拾い集めつつも、それらを採録しないことがあったようである。一部が欠けている箇所もある。オリゲネスを非難するために作成された異端的な「真珠」の集成という性格上、この選集は文脈を与えてはくれないし、しばしば疑わしい部分を肯定的に説明してしまう。

ヒエロニュムス版と選集が文字通りに一致することがあるが、それは2対1の一致であるにもかかわらず、ヒエロニュムスとユスティニアヌスの正統性ではなく、むしろルフィヌスの正しさを示す。二者のテクストは混合された要約にすぎない。論文著者は、ヒエロニュムス版がラテン語訳であり、ユスティニアヌスの選集がギリシア語であるにもかかわらず、後者が前者を利用した可能性を指摘している。なぜなら、ヒエロニュムスが『諸原理について』を訳し、『書簡124』を書いたのも、選集の作成者である修道士たちがいたのもパレスチナだからである。あるいは、ラテン人であるペラギウスが修道士たちに協力したのかもしれない。これは『書簡124』からの影響を示唆するというわけである。いずれにせよ、ヒエロニュムス版もユスティニアヌスの選集も、オリゲネスのテクストの忠実な翻訳と見なすことはできない。

第五として、さまざまな著者による引用がある。これらが本当に引用であるかどうかは、ルフィヌス版との一致を確認する必要がある。言葉ではなく、アイデアを要約したものであることも多い。Koetschau版は、ルフィヌス版における欠落をこうしたテクストで埋めてしまったが、これは欠点といわざるを得ない。これはオリゲネス自身の原理とオリゲネス主義との混同が引き起こしたものである。後者は、ポントスのエウアグリオスやEtienne bar Sudailiなどに帰されるものである。一方で、反オリゲネス主義者たちの解釈は無理解に基づいていたり、オリゲネス主義者たちの理解をただ繰り返しているだけのこともあるので、これもまた信頼できない。オリゲネス主義は、確かに部分的にはオリゲネス自身の説を反映しているが、深いところでは変質してしまっているからである。

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