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2019年2月2日土曜日

オリゲネス『エレミヤ書説教』のラテン語訳の検証 Bergren, Kraft, and Wright III, "Jerome's Translation of Origen's Homily on Jeremiah"

  • Theodore A. Bergren, Robert A. Kraft, and Benjamin G. Wright III, "Jerome's Translation of Origen's Homily on Jeremiah 2.21-22 (Greek Homily 2; Latin 13)," Revue Bénédictine 104 (1994): 260-83.

オリゲネス『エレミヤ書説教』は、239年から242年の間にカイサリアで行われたものとされる(おそらく全40篇だが、20篇が現存する)。それから140年後、380年にコンスタンティノポリスで(あるいは少し前にアンティオキアで)、ヒエロニュムスはその14篇をラテン語訳した。そのうち12篇はギリシア語原典と共に残り、あとの2篇はラテン語訳のみが残っている(オリゲネスの著作でギリシア語原典とラテン語訳が共に残っているのは、『エレミヤ書説教』の12篇と『マタイ福音書注解』16:13-22:33[訳者不詳])。W.A. Baehrensによると、ヒエロニュムスは先に12篇を訳し、それからしばらくして別のVorlageから2篇を訳したというが、この説はP. Nautinによって反論されている。

この『エレミヤ書説教』が重要な理由は3つある:第一に、オリゲネスの著作中、ギリシア語原典とラテン語訳が両方残る2作のうちのひとつであること;第二に、ヒエロニュムスのオリゲネス著作の翻訳中、ギリシア語原典と共に残る唯一の作品であること;そして第三に、高名な翻訳者であるヒエロニュムスの初期の翻訳活動を代表する作品であること、である。オリゲネス『エレミヤ書説教』より前の翻訳としては、エウセビオス『年代記』とオリゲネス『イザヤ書説教』9篇があり、前者はわずかなギリシア語断片と引用があるが、後者はラテン語訳のみが残る。

本論文の目的は、『エレミヤ書説教』2.21-22(=ラテン語版の第13篇)の原典と翻訳を比較することで、ヒエロニュムスの釈義部分と聖書引用部分の翻訳技法を明らかにすることである。まずギリシア語原典の写本、伝承史、版について。唯一の写本はエスコリアル写本(11-12世紀)である。さらに、預言者のカテーナと『フィロカリア』にもわずかなギリシア語本文がある。最初の批判的校訂版は1901年のE. Klostermannによるものであるが、1983年にP. Nautinによって改訂版が出ている。

次に、ラテン語訳の写本、伝承史、版について。ラテン語訳は中世において人気があったため、数多くの写本が現存するが、まだ信頼できる校訂版は存在しない。W. Baehrensによると、写本は基本的にAとBの2グループに分けることができるという。両グループの写本は共に極めて損なわれており、両者が共にさかのぼる9世紀以前のVorlageもすでに損なわれていた。AグループとBグループの他には、9世紀のラバヌス・マウルス『エレミヤ書注解』の中に保存されている長めの引用(Rと呼ばれる)があり、これは11世紀のBritish Litrary Arundel Codex 45に残っている。KlostermannやBaehrensらによると、RのテクストはAとBより優れているという。しかし、まだ校訂版は存在しない。ラテン語訳の校訂には、ヒエロニュムス自身の『エレミヤ書注解』を参照することができる。またヒエロニュムスのラテン語訳の底本となるギリシア語のVorlageは、エスコリアル写本よりも600年以上古いので、より優れているといえる(筆者注:ここでエスコリアル写本と比較すべきは、Vorlageでなくラテン語訳写本そのもの、つまり9世紀の写本ではないか?)。いずれにせよ、ギリシア語テクストもラテン語訳テクストも、問題のないものはないので、いずれも用いるときには細心の注意が必要である。

『エレミヤ書説教』2.21-22のラテン語訳は、極めて自由な訳である。付加や削除の頻繁さ、語や句の順序、等価性の一貫性、テクストの内容や意味を検証すると、ヒエロニュムスが敷衍、再編成、拡張、スタイルの変更を意のままに行っていることが分かる。この自由な翻訳スタイルは、『書簡57』での翻訳哲学と軌を一にしている。

ヒエロニュムスの説教翻訳において最も特徴的なのは、ギリシア語原典の「濃縮(condensation)」の傾向である。ヒエロニュムスは翻訳する際に、テクストの合理化(streamlining)を図り、反復的な語や説教の本質に寄与しない語を削除したり、他の要素と結合させている。こうした「濃縮」は多くの場合、意図的なものであり、テクストの内容を失ったり、意味を変化させることはない。

ヒエロニュムスは翻訳において「拡張(expansion)」を志向することもある。これはすでに述べたことやギリシア語では暗示的なことを、明確化したり明示的にしたりするための操作である。こうした「拡張」は、ギリシア語原典から逸脱するような場合もある。

テクストの意味を「修正(modify)」し、新しい要素を「導入(introduce)」することもある。といっても、意味を変化させたにもかかわらず、ギリシア語とラテン語の間に意味論的な等価性を保持しようとしている。逆に、ギリシア語テクストが理解不能なときに、大幅に変更するときもある。

このような変化がヒエロニュムスによって意図的になされたのか、彼が異なったあるいは損なわれたギリシア語Vorlageを使ったためなのか、それとも単なる誤訳なのかは、はっきりしないことが多い。

まとめると、ヒエロニュムスの翻訳のねらいは、ギリシア語テクストの個々の要素を文字通りに再現することではなく、その基本的な意味を伝えるような訳文を作成することだった。その特徴は:
  1. 一貫してテクストをタイトに、濃縮する。
  2. アイデアを明らかにしたり新しいアイデアを導入するために、何らかの要素を加えることがある。
  3. 第三に、イデオロギー、スタイル上の検討、あるいは誤解により、テクストの意味を変容させることがある。
  4. 文字通りの翻訳ではなくとも、ギリシア語の基本的な意味を保持している。
これまでヒエロニュムスの翻訳者としての評価は、主として聖書に関わるものであり、それは『書簡57』で本人が述べているように、逐語訳を旨とするものだった。しかし、本論文は聖書以外の文書の翻訳には、まったく異なった翻訳モードが機能していたことを明らかにした(筆者注:この理解は単純すぎる。聖書翻訳は逐語訳とは言えないから)。

ここまではBergrenが『エレミヤ書説教』の釈義部分の翻訳について論じてきたが、ここからはWrightが聖書引用部分の翻訳について検証する。しかし、写字生、写本の編者、翻訳者はしばしば写本間の聖書引用の乱れを調和させる(harmonize)傾向があるので、難しい作業となる。オリゲネスは説教において、かなり自由に聖書を引用することが知られている。『エレミヤ書説教』2.21-22の部分において、釈義中の聖書引用は古ギリシア語訳(七十人訳)と一致しているが、説教の基礎となるベース・テクストの引用は語順が異なることがある。

このギリシア語原典に対し、ヒエロニュムスの翻訳は2つの傾向を持つ。一方では、定型句に導かれた比較的長い引用は、語の選択や語順などに関して極めて逐語的に訳している。他方では、自由で敷衍的な翻訳も存在する。それはしばしばテクストの「結合(consolidation)」とでも言えるような特徴を示す。語の選択や語順のヴァリエーションは、テクストの調和や損傷、あるいはヒエロニュムスがエスコリアル写本とは別のVorlageを用いていた可能性、そして彼が誤訳した可能性を示唆する。

またヒエロニュムスの聖書引用の翻訳は、かなりの場合、既存の古ラテン語訳と一致している。おそらく、目の前にあるオリゲネスの説教における引用をそのまま翻訳したのだが、ときに彼が通じていた伝統的な古ラテン語訳からの影響を受けたのだろう。

まとめると、ギリシア語原典における聖書引用は、七十人訳や新約聖書の本文とほぼ完全に一致している。ヒエロニュムスのラテン語訳は、全般的にとても逐語的であり、古ラテン語訳に伝えられている言葉を通常用いている。ただし、ときに敷衍やテクストの結合を示すことがある。そのときは、ギリシア語テクストとは異なった引用となる。いわば、『書簡57』で述べられている非逐語訳的な翻訳という原則は、聖書引用の翻訳にも影響している。

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