- Pierre Nautin, "La lettre Magnum est de Jérôme à Vincent et la traduction des homélies d'Origène sur les prophètes," in Jérôme entre l'Occident et l'Orient: XVIe centenaire du départ de saint Jérôme de Rome et de son installation à Bethléem. Actes du Colloque de Chantilly (septembre 1986), ed. Yves-Marie Duval (Paris: Études Augustiniennes,1988), 27-39.
ヒエロニュムスによるオリゲネス『エゼキエル書説教』翻訳の序文は、実際にはウィンケンティウス宛の書簡であるが、書簡集に収録されていないので歴史家たちの注意を引かなかった。しかし、ヒエロニュムスがオリゲネスの預言者に関する説教を翻訳した時期を特定するのに有益である。論文著者はこの序文を、冒頭の言葉から『マグヌム・エスト書簡』と呼ぶ。
書簡の中で呼びかけられている友人の名前は分からない。本来その名が書かれていたであろう宛名部分はないが、ルフィヌスはそれがウィンケンティウス宛であったことを証言している。ヒエロニュムスは当時の書簡の慣例どおり、前回受け取った手紙の内容を冒頭で繰り返し、すでに『エレミヤ書説教』の翻訳を送ったことに言及している。
書簡の目的は次の3点を説明することである:第一に、『エレミヤ書説教』の翻訳のあと、なぜ『エゼキエル書説教』の翻訳にこれほど時間がかかったのか、第二に、送った翻訳作品はどういうものか、そして第三に、他の著作の翻訳の提案である。第一の翻訳の遅れの原因は視力の悪化である。そこから、読書への過度の熱望と、貧窮ゆえの写字生の不足という事態が生じた。ウィンケンティウスは、ヒエロニュムスが金の無心をしていることを察したことだろう。
第二に、翻訳作品の説明については、『エレミヤ書説教』を14篇と『エゼキエル書説教』を14篇訳したと述べている。そしてそれらの説教を「混乱した順序で(confuso oridine)」、つまり聖書とは異なる順序で訳したという(『エゼキエル書説教』については本来の順番に戻そうとした)。これらの説教の翻訳時にヒエロニュムスが主に気にしていたのは、すべての修辞的技巧を捨てたオリゲネスの執筆方法論を翻訳でも維持することだった。彼の翻訳に説教らしい誇張がないために翻訳の腕前を低く評価することのないように、ウィンケンティウスに頼んでいる。
ヒエロニュムスによれば、オリゲネスの著作には、スコリア、説教(ホミリア)、注解の三種があるという。しかし、これはヒエロニュムス独自の分類である(エウセビオスのリストでは、スコリアはtomes[聖書に関わるものだけでない連続した注解によって書物が形成されているもの]の中に入れられている)。スコリアは、オリゲネスがある聖書文書の詳細な注解を書く時間がなかったり完成させられなかったりするときの補完物なので、ヒエロニュムスが考えるように、説教の最上の概要とは言えない。説教は、オリゲネスが注解を書いたりtomes形式で著作を出版したあとの、いわゆる説教サイクル(un cycle de prédications)の239-242年に成立したものである。
第三に、他の著作を翻訳することの提案について、ヒエロニュムスは「視力の悪化」と「貧窮による写字生の欠如」という2つの困難さを挙げているが、それでも援助があれば翻訳を続けると宣言している。ウィンケンティウスはこれに対し、写字生(を雇うための資金)を提供することを約束したわけだが、論文著者は、ヒエロニュムスは実際には口述筆記でなくとも著作活動をすることができたはずと主張する。かつて彼は、ルフィヌスのためにヒラリウスの著作を、またダマススのためにラクタンティウスの著作をコピーしてあげたことがある。ウィンケンティウスはこうした過去を知っていたわけだが、それでも資金提供を申し出たのは、ヒエロニュムスの真意が「貧窮」の解消であったことを理解していたからである。ヒエロニュムスは単なる金の無心を恥と考え、「自分」という写字生を雇うための資金を要求したわけである。『ソロモンの書序文』にも、写字生の雇用という表向きの理由のために資金提供を受け、実際には別の用途に用いたらしい逸話がある。
オリゲネスの預言者説教のラテン語訳の作成時期は、通常コンスタンティノポリス滞在時(380-382年)と考えられている(ナジアンゾスのグレゴリオスの影響による)。これは『著名者列伝』の自作リストにおいて、この時代に作成された『雅歌説教』とダマスス宛書簡論文の間にこれらの翻訳が挙げられているからである。しかし、本当にこれらの説教翻訳はコンスタンティノポリス時代の仕事なのだろうか。この問題を解決するためには、『エレミヤ書説教』翻訳と『マグヌム・エスト書簡』の分析が有効である。またコンスタンティノポリス説の証拠としてしばしば引き合いに出される『著名者列伝』は再考の余地がある。
『エレミヤ書説教』翻訳の順序は無秩序である。これは写字生のせいではない。カイサリアの図書館に収蔵されていたギリシア語原典の最初の状態は、巻物に分かれていて、番号もふられていなかった。しかし、こうした巻物は、366年から379年にかけて図書館長のエウゾイオスの主導で、聖句の順に整理され、番号をふられた上で、羊皮紙のコーデックスに書き写された。つまり、この整理作業のあとの写本をもとにしてヒエロニュムスが翻訳を作成したのなら、順序が無秩序になるはずはない。ちなみにグレゴリオスは『フィロカリア』に『エレミヤ書説教』を収録したが、そこには番号がついていることから、整理後の写本を用いたと分かる。
ヒエロニュムスが『エレミヤ書説教』を翻訳したのは、通説のようにコンスタンティノポリス滞在時ではなく、アンティオキアにて、司祭エウアグリオスのもとにいたときである。この祭司が支援していた司教エウスタティオスはオリゲネスを論駁するために、その著作を所有していた。そしてそれは、エウゾイオスによる整理前の巻物だったのである。ヒエロニュムスは無秩序に置かれていた『エレミヤ書説教』の巻物を、手当たり次第に訳したのだろう。それゆえに、彼の翻訳版の並び順も無秩序になったのである。言い換えれば、ヒエロニュムスの翻訳の無秩序さゆえに、翻訳はコンスタンティノポリスではなくアンティオキアで行われたと考えられる。
『マグヌム・エスト書簡』からは、ヒエロニュムスが遠慮しつつも、ウィンケンティウスに金を無心している様が見て取れる。二人が同じ都市にいたならば、こうした苦境は手紙に書かずとも口頭で伝えることができたはずである。しかし、ヒエロニュムスがそうしなかったのは、二人が離れていたからと考えるのが自然である。すなわち、ウィンケンティウスはコンスタンティノポリスに、ヒエロニュムスはアンティオキアにいたということである。ここから、この書簡で言及されている『エレミヤ書説教』と『エゼキエル書説教』はアンティオキアで翻訳されたと考えることができる。
さて、歴史家たちが預言書説教の翻訳の場所をコンスタンティノポリスと信じて疑わない理由は、『著名者列伝』において、ヒエロニュムス自身がこれらの翻訳を当地での著作と共に並べているからである。そして、このリストは時系列になっていると考えられてきたのだった。しかし、論文著者はこのリストの順がそれほど単純でないことを明らかにした。リストは時系列ではなく、概論・説教・書簡という当時の古典文学のジャンルにも従っているのである。
リストは2つのグループに分かれている。第一グループは概論と書簡、すなわち『パウロス伝』と『さまざまな人への書簡』および『ヘリオドルス駁論』である。これらはアンティオキア滞在中にシリア砂漠にて書かれた。第二グループは概論と説教、すなわち『ルキフェル派と正統派の論争』および『年代記』と『エレミヤ書説教』および『エゼキエル書説教』の翻訳である。これらは砂漠時代とローマ時代の間、すなわちアンティオキアやコンスタンティノポリスにいたときの作品とされている。しかし実際には、『エレミヤ書説教』は本来なら第一グループの時代に作成されたものである。ヒエロニュムスは説教ジャンルが両グループに分散するのを嫌い、時系列を多少乱しても『エレミヤ書説教』を第二グループに入れたのだった。それゆえに、預言書説教の翻訳をコンスタンティノポリス時代のものとするために『著名者列伝』に依拠することは不当なのである。
オリゲネス『イザヤ書説教』が上のリストにないのはなぜか。論文著者は同書もアンティオキアでの作品と考える。その理由は、第一に、説教の順序が『エレミヤ書説教』のように無秩序である。第二に、『マグヌム・エスト書簡』によると、ウィンケンティウスがこうした仕事をヒエロニュムスに「しばしば」頼んでいたというので、『エレミヤ書説教』が初めてではないと考える。そして第三に、後年の『イザヤ書注解』の中で、自分はコンスタンティノポリスにいたときにオリゲネスのセラフィム理解を批判する文書を書いたと述べており、そこで『イザヤ書説教』の翻訳を用いている。
では、預言書説教の翻訳がアンティオキア時代のことだったとして、ヒエロニュムスは滞在中(371-380年)のいつ頃に、説教を翻訳し、『マグヌム・エスト書簡』を書いたのだろうか。第一に、『書簡』より明らかなのは、ヒエロニュムスはウィンケンティウスに翻訳を3回に分けて送っている。ヒエロニュムスは金欠だったので、職業的な配達人は雇えなかった。
ヒエロニュムスの周囲にいた旅行者は、巡礼者とそれ以外の旅行者がいた。コンスタンティノポリス方面からエルサレムに巡礼する者たちは、必ずアンティオキアを通った。ヒエロニュムス自身が巡礼したときも、旅の途中で病に倒れたときにアンティオキアで回復を待った。巡礼者たちは往路では春に、復路では夏の終わりにアンティオキアに立ち寄ったので、当地にいるヒエロニュムスにはパレスチナ方面とコンスタンティノポリス方面の両方に手紙を出すことができたが、復路で頼んだ手紙への返事はもらえないので、翌年新しく使いを出す必要があった。巡礼以外の旅行者でもアンティオキアからコンスタンティノポリスに赴く者たちはいた。彼らは春に出発して冬より前に帰ってくるので、彼らに頼めばヒエロニュムスは年内に返事を受け取ることができた。しかし、不意に現れるそうした旅行者に手紙を頼むためには、あまり推敲することができないし、春より前には手紙を送ることができない。
こうした当時の郵便事情を考えると、『イザヤ書説教』、『エレミヤ書説教』、『エゼキエル書説教』の翻訳は別々の年に発送されたものであり、最後の翻訳の前には少なくとも1年間隔があるので、全体で4年はかかったと考えられる。
第二に、ルフィヌスによると、アンティオキア時代より前に初めてオリエント世界にやってきたとき、ヒエロニュムスはギリシア語を知らなかった。彼がアンティオキアにやってきたのは371年のことである。エルサレムへの巡礼を前に重い病気にかかったのは372年である。そこでヒエロニュムスは旅を続けるのをあきらめてギリシア語を学び始めたのだった。彼の学習速度は目覚しかったが、それでも文学作品を翻訳できるまでに2~3年かかっただろう。ここから、ヒエロニュムスがアンティオキアで預言書説教を翻訳したのは、375/6年から379/80年の間だと言える。そして『マグヌム・エスト書簡』はこの時期の終わり頃に序文として付されたのだった。
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