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2019年3月12日火曜日

ルフィヌスとヒエロニュムスの翻訳論 Winkelmann, "Einige Bemerkungen zu den Aussagen des Rufinus von Aquileia und des Hieronymus"

  • Friedhelm Winkelmann, "Einige Bemerkungen zu den Aussagen des Rufinus von Aquileia und des Hieronymus über ihre Übersetzungstheorie und -methode," in Kyriakon: Festschrift Johannes Quasten, ed. Patrick Granfield and Josef A. Jungmann (2 vols.; Münster: Aschendorff, 1970), 2:532-47.

古代の翻訳には2つの問題がある。第一に、翻訳の質の問題である。原典が絶望的な状態のときに、我々の方法と理解の範囲で翻訳が扱われるということである。第二に、翻訳の成果の正しい評価という問題である。ここで問われる動機、目的、方法論、理論などはその時代から理解される。ルフィヌスについて、第一の問題を扱った研究はたくさんあるが、本論文は第二の問題を扱う。

20世紀はじめまでの研究者たちは、ルフィヌスについてほぼ否定的な見解だった。F. Cavalleraはヒエロニュムスとの論争におけるルフィヌスの信頼性を証明しようとした。G. Bardyは特に翻訳問題に注目し、ルフィヌスの翻訳に近代的な基準を当てはめるべきではないと主張した。現在ではルフィヌスへの見解は分かれている。肯定的なのはM. Wagner, F.X. Murphyで、否定的なのはV. Buchheitである。

ルフィヌスは翻訳理論や方法論を組織的・根本的に説明することはない。論文著者によれば、ルフィヌスに関しては2つの観点があるという。第一に、『弁明』や翻訳の前書・後書は弁明的な動機から作成されている。つまり、その文章は名宛人だけではなく、オリゲネスとルフィヌスの神学的な論敵全体に向けられている。第二に、しばしば見られるスタイル上・学術上の謙虚さや無能さの告白は古代の文筆スタイルである。

ルフィヌスが翻訳理論に言及するときは、ヒエロニュムスを論じるときが多い。『諸原理について』序文では、ルフィヌスは自分がヒエロニュムスの翻訳論を受け継いでいると主張した。『オリゲネスの書物の改竄について』でも、ヒエロニュムスに言及している。より大きな議論は『弁明』第2巻に見られる。ここでルフィヌスはヒエロニュムスの理論の正確な定義を試みるが、弁明や非難が目的なので結局包括的ではない。偽クレメンスの翻訳序文では、ヒエロニュムスを含む多くの論敵への反論として翻訳を論じている。

『改竄』は、ルフィヌスがオリゲネスの正統信仰を証明し、自分の翻訳を正当化するために書いたものであるが、この中でオリゲネスの文書は異端者による改竄があったと主張している。ルフィヌスはこうしたテクストへの後代の介入を削除したのである。『弁明』でもそうした介入を抜かしつつ、あとは文字通り訳したと述べている。これらはいずれも、神学的な非難に対する弁護であり防衛である。偽クレメンスの翻訳でも「改竄」の議論に基づいて修正を加えたが、ヒエロニュムスからの批判を受けて、神学的な議論の修正についは用心深く行った。オリゲネスの『ロマ書注解』の翻訳後書では、やはり「改竄」があったと主張しているが、それがどの程度だったのかについては触れていない。

ルフィヌスは自分の翻訳中の介入の方法を3つ挙げている。第一に、原典の神学的に不快な箇所の削除。これは翻訳活動の初期から主張していたことだが、のちにより用心深く行うようになった。第二に、原典の再構成での介入。これは『諸原理について』序文で最初に言及している方法である。第三に、これらの加えて、はっきりしない方法で恣意的にテクストを扱うこともある。これは『ロマ書注解』後書の中でヒエロニュムスに対抗するかたちで主張されている。以上より明らかなように、ルフィヌスの翻訳理論や方法論は弁明的なものであるため、不正確で不十分なものである。

ルフィヌスの発言をよりよく理解するためには、ヒエロニュムスの翻訳論を見なければならない。380年から407年にかけてのヒエロニュムスの記述から明らかなように、彼が目指しているのは、第一に、原典のキャラクターとスタイルに合わせ、著者の考えを歪曲しないこと、第二に、理解のために読者を方向付け、またそれを伝える言語を方向付けることである。ただし翻訳は分かりやすくあるべきなので、第二の観点がしばしば優先される。

ヒエロニュムスの翻訳論というと『書簡57』が取り上げられる。ここでは聖書以外の文書は自由訳こそが相応しいとヒエロニュムスが主張していると見なされてきたが、これはおそらく誤った解釈である。『詩篇注解』や『エフェソ書注解』などではそれとは反対のことも主張している。『書簡84』と『ルフィヌス駁論』1巻および3巻でヒエロニュムスが仄めかしていることには、彼は原典に対して小さな神学的修正を加え、異端的な見解は省略したという。ただしこれらの文書の目的は翻訳を論じることではなく、オリゲネス信奉者からの神学的批判をかわすことである。キケローの規範と一致するキリスト教的な翻訳例はあまりに少なかった。

個々の翻訳文書については、さまざまな研究がある。E. Klostermannは、オリゲネス『エレミヤ書説教』の翻訳について、「読者の理解を助けるための敷衍、省略、挿入と共に、表現の強化と誇張、画家の色塗り、難解さの優雅な隠蔽、様式上の付加、虚栄心と学識ある衒学」が見られると主張するが、それがどこの部分なのかを明らかにしない。おそらくはルフィヌス『弁明』第2巻の受け売りであろう。Klostermannのこの評価は、説教という文学ジャンルへの考慮もなく、また確実な校訂テクストに基づいてもいない。彼自身曰く、校訂テクストが確立すれば別の結論に至る可能性もあるという。さらにKlostermannによれば、そもそもヒエロニュムスの翻訳には直接的な誤りはさほど見られず、またルフィヌスが批判したような独断的な修正も見られないのである。

F. CavalleraはKlostermannとはまるで反対の評価を下している。前者によれば、『エレミヤ書説教』の翻訳はオリゲネスのスタイルに対し、唯一例外的なことに、雄弁な調子と華々しい色彩を与えているという。言い換えると、この翻訳はオリゲネス本来のシンプルな優雅さをほとんど保存していない。一方で、Cavellera曰く、ヒエロニュムスは人が翻訳者に期待する適度に忠実な翻訳を作成してもいるという。原典と翻訳を比較すると、ヒエロニュムスが翻訳者としてきちんと自分の役目を果たし、神学的正統性に関して問題ないところをローマに聞かせようとしたことが分かる。

Klostermannによれば、エウセビオス『名前について』にも『エレミヤ書説教』での翻訳方法の痕跡が見られる。原典に対して翻訳が省略しているところはないが、概念や名前の短い敷衍や西方での理解のための注釈などがある。いずれにせよ、ヒエロニュムスの翻訳は信頼に足るものといえる。オリゲネス『ルカ福音書説教』にもギリシア語断片が残っており、それとヒエロニュムスの翻訳を比較すると、その翻訳は信頼できるものだと評価できる。M. Rauerによれば、ヒエロニュムスの翻訳は経験者によるスムーズでしなやかなスタイルであるという。パコミオスの修道規則に関してもヒエロニュムスの翻訳は信頼できる。L.Th. Lefortによるコプト語断片との比較研究がある。ギリシア語の平行テクストがない文書についても、ヒエロニュムスの翻訳の信頼性は高いと考えられている。なぜなら、Cavalleraが言うように、彼の翻訳は正統信仰の観点からは都合の悪い箇所を修正していないからである。とはいえ、ヒエロニュムスの翻訳は現代的な基準から見て忠実とは言えない。

2つの問いがある。第一に、ルフィヌスはヒエロニュムスの議論と翻訳の何を知っていたのか。第二に、なぜルフィヌスはそれらを不完全で不正確なものと見なしていたのか。まず両者がもともと友人だったことを勘案すると、ルフィヌスがヒエロニュムスの考え方を知らなかったはずはない。『諸原理について』の翻訳序文でも、ルフィヌスはヒエロニュムスによる『雅歌説教』と『エゼキエル書説教』の翻訳序文を引用している。『弁明』の中でもヒエロニュムスの翻訳作品を列挙している。またルフィヌスがヒエロニュムス同様に神学的問題にまるで関心を持っていなかったことを勘案すると、ヒエロニュムスの翻訳論を大雑把なものと見なすことで、自分がそれを模倣したという印象を与えようとした。

ルフィヌス翻訳の目的。M. Wagnerによると、ルフィヌスの翻訳には、神学から離れた実務的・倫理的目的があったという。それは読者の「倫理的進歩(moral advancement)」や「霊的進歩(spiritual advancement)」を促すことである。この目的がルフィヌスの翻訳の方法論を規定したのだった。確かに、オリゲネス『詩篇注解』、バシレイオス説教、セクストスの言葉、またグレゴリオス説教などの翻訳には「教化(Erbauung)」の目的が垣間見える。またこうした霊的進歩は自然と修道文書を対象とするので、エウアグリオスの著作の翻訳もこちらに含まれる。

ただし、ルフィヌスの翻訳の目的はそうした倫理的な教化だけではなく、「なぐさめ(Trost)」を試みることでもあった。当時ローマはアラリックによる侵攻を受け、壊滅的な打撃を受けていた。そのようなときにあって、学術的な情報を伝えようとしていたというよりは、なぐさめを与えようとしていたと考える方が自然であろう。こうした意図はオリゲネス『民数記説教』、エウセビオス『教会史』の翻訳などに見られる。ただし、オリゲネス『六書説教』、『サムエル記説教』、『雅歌注解』の翻訳などには、「教化」の傾向も「なぐさめ」の傾向も見られない。

残りの翻訳(カイサリアのゲラシオス『教会史』、偽クレメンス文書、パンフィロス『オリゲネス弁明』、アダマンティオス対話、オリゲネス『諸原理について』、同『ロマ書注解』、エルサレムのキュリロスのカテキズムなど)は、論文著者の考えでは、情報や神学的な関心を伝えることが目的となっている。そもそもこれらの翻訳は教養人からの提案にによって作成されたものであった。

ルフィヌスは、学問的才能や関心についてはヒエロニュムスに劣っていたかもしれないが、ギリシア神学、修道制、教化文学の仲介者であることに使命を感じ、また自覚的であった。そして読者がルフィヌスに期待していたのも、敷衍や独断的な修正ではなく、翻訳であった。修正する場合でも、それは神学的・実用的事情と関係していた。

結論。以上より、3つの結論が引き出せる。第一に、ルフィヌスが自身の翻訳理論や方法論を不明瞭にするのは戦略的な熟慮からであって、理論への無関心からでも、情報を隠蔽しようとしたからでも、精神的な無能さからでもない。ルフィヌスは正直には語らないのである。

第二に、ルフィヌスが翻訳活動の実践を欺くようにして表現するのは、自分がヒエロニュムスの仕事を引き継いだという印象を与えるためである。両者は共に逐語訳を忌避したが、その理由は互いに異なっている。

第三に、ルフィヌスの翻訳方法は十分に明らかにはならない。なぜなら、彼の第一の目的は教化やなぐさめにあったからである。しかし、神学的・学術的な情報への要求という観点も見逃せない。

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