- Eugene Ulrich, "Origen's Old Testament: The Transmission History of the Septuagint to the Third Century, C.E.," in Origen of Alexandria: His World and His Legacy, ed. Charles Kannengiesser and William L. Petersen (Christianity and Judaism in Antiquity 1; Notre Dame, Ind.: University of Notre Dame Press, 1988), 3-33.
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本論文は、オリゲネスによって用いられた旧約聖書テクストの性質を明らかにしたものである。
古ギリシア語テクストの起源と性質。『アリステアスの手紙』以外の七十人訳に関する証言としては、デメトリオス、エウポレモス、ベン・シラの序文、いくつかのパピルス、クムラン写本などがある。つまり、ギリシア語訳聖書の現存する証拠は、前2世紀から3世紀にさかのぼる。研究史においては、ヘブライ語聖書のユダヤ的翻訳としての古ギリシア語テクストと、初期キリスト教の教会の聖書としてのギリシア語旧約聖書を区別しなければならない。前者は、ヘブライ語聖書のより古くよりよい本文に戻ることを目的とした観点であり(E. Tov)、後者は、教会の聖書テクスト使用を知ることを目的とした観点である(M. Harl)。前者の観点は、P. de Lagardeによる理論(現在のさまざまな七十人訳テクストは、3つの改訂を通じて、単一の翻訳にさかのぼる)に依拠している。ヘブライ語テクストと七十人訳のテクスト上の違いは、神学的な傾向によるものというよりは、七十人焼くテクストが定本としたヘブライ語テクストと、現在のヘブライ語テクストが異なるからである。
初期ギリシア語テクストから『ヘクサプラ』への伝達。ヘブライ語テクストの伝達は比較的単純であり、死海文書の聖書写本とマソラー本文に大きな違いは見られない。『ヘクサプラ』以前のギリシア語聖書のテクストは、プロト・テオドティオン、アクィラ、シュンマコスらの改訂など、各地各時代さまざまだった。他に見るべきは、古ラテン語訳、新約聖書や古代作家たちによるヘブライ語聖書の引用、ヴァティカン写本、パピルス967などがある。
オリゲネスと『ヘクサプラ』。ミニマリスト的立場から言うと(D. Barthelemy, P. Nautinら)、第一に、オリゲネスのヘブライ語能力は貧弱であり、第二に、オリゲネスが「ヘブライ人」というとき、それはヘブライ語テクストそのものではなく、それを反映したギリシア語訳であるアクィラらのことを指しており、第三に、『ヘクサプラ』にヘブライ語の欄は存在しなかった。
これに対し、論文著者はもう少しバランスの取れた見解を持とうとする。オリゲネスは少なくとも少しはヘブライ語ができたようであり、ヘブライ語テクストを直接見た(イザ7:14について)ことを証言しており(『ケルソス駁論』1.34)、『ヘクサプラ』にヘブライ語の欄がなかったと証明はできないという。
ただし、ヘブライ語テクストを直接見た件に関する論文著者の議論はやや苦しい。処女懐胎についての議論で、オリゲネスは「アルマー」というヘブライ語について論じている。そこで申22:23-26での用法を例として挙げているわけだが、そこに「アルマー」という語は出てこない。つまりオリゲネスはヘブライ語テクストをチェックしていないわけだが、論文著者はこのことが証明しているのはオリゲネスがヘブライ語を知らなかったことではなく、彼がヘブライ語テクストをチェックするほど根気強くなかったことだと主張する。
『ヘクサプラ』にヘブライ語欄がないというミニマリストの主張は、現存する『ヘクサプラ』の後代の写本(メルカーティ写本など)にそうした欄がないこと、そしてエウセビオスの証言にヘブライ語欄についての説明がないことに基づいている。論文著者は、現存する写本は『ヘクサプラ』そのものではなく、あくまで後代の写本であると指摘する(そして後代にヘブライ語を読めた写字生は少なかったはずである)。またエウセビオスは他の欄についてもいい加減な説明をしているので、彼がヘブライ語欄について述べていないからと言って、その存在がなかったとは言えないと主張する。それどころか、写本のひとつには、ヘブライ語欄の跡のように見える4つの点もあるという。
オリゲネスの評価。オリゲネスが『ヘクサプラ』によって成したことに対する評価という点では、多くの研究者は否定的である(S.R. Driver, D. Barthelemyら)。否定的でなくとも、肯定的ではない(J.W. Trigg, P. Nautinら)。オリゲネスは、同時代のユダヤ人が用いていたヘブライ語テクストが、七十人訳の底本だったヘブライ語テクストと同じものだと考えた。そして、その自分の持っているヘブライ語テクストに基づいて七十人訳を改訂してしまったわけである。しかし、もしかしたら七十人訳(およびその底本だったヘブライ語テクスト)の方が優れた読みだったかもしれないのである。
古ギリシア語テクストの起源と性質。『アリステアスの手紙』以外の七十人訳に関する証言としては、デメトリオス、エウポレモス、ベン・シラの序文、いくつかのパピルス、クムラン写本などがある。つまり、ギリシア語訳聖書の現存する証拠は、前2世紀から3世紀にさかのぼる。研究史においては、ヘブライ語聖書のユダヤ的翻訳としての古ギリシア語テクストと、初期キリスト教の教会の聖書としてのギリシア語旧約聖書を区別しなければならない。前者は、ヘブライ語聖書のより古くよりよい本文に戻ることを目的とした観点であり(E. Tov)、後者は、教会の聖書テクスト使用を知ることを目的とした観点である(M. Harl)。前者の観点は、P. de Lagardeによる理論(現在のさまざまな七十人訳テクストは、3つの改訂を通じて、単一の翻訳にさかのぼる)に依拠している。ヘブライ語テクストと七十人訳のテクスト上の違いは、神学的な傾向によるものというよりは、七十人焼くテクストが定本としたヘブライ語テクストと、現在のヘブライ語テクストが異なるからである。
初期ギリシア語テクストから『ヘクサプラ』への伝達。ヘブライ語テクストの伝達は比較的単純であり、死海文書の聖書写本とマソラー本文に大きな違いは見られない。『ヘクサプラ』以前のギリシア語聖書のテクストは、プロト・テオドティオン、アクィラ、シュンマコスらの改訂など、各地各時代さまざまだった。他に見るべきは、古ラテン語訳、新約聖書や古代作家たちによるヘブライ語聖書の引用、ヴァティカン写本、パピルス967などがある。
オリゲネスと『ヘクサプラ』。ミニマリスト的立場から言うと(D. Barthelemy, P. Nautinら)、第一に、オリゲネスのヘブライ語能力は貧弱であり、第二に、オリゲネスが「ヘブライ人」というとき、それはヘブライ語テクストそのものではなく、それを反映したギリシア語訳であるアクィラらのことを指しており、第三に、『ヘクサプラ』にヘブライ語の欄は存在しなかった。
これに対し、論文著者はもう少しバランスの取れた見解を持とうとする。オリゲネスは少なくとも少しはヘブライ語ができたようであり、ヘブライ語テクストを直接見た(イザ7:14について)ことを証言しており(『ケルソス駁論』1.34)、『ヘクサプラ』にヘブライ語の欄がなかったと証明はできないという。
ただし、ヘブライ語テクストを直接見た件に関する論文著者の議論はやや苦しい。処女懐胎についての議論で、オリゲネスは「アルマー」というヘブライ語について論じている。そこで申22:23-26での用法を例として挙げているわけだが、そこに「アルマー」という語は出てこない。つまりオリゲネスはヘブライ語テクストをチェックしていないわけだが、論文著者はこのことが証明しているのはオリゲネスがヘブライ語を知らなかったことではなく、彼がヘブライ語テクストをチェックするほど根気強くなかったことだと主張する。
『ヘクサプラ』にヘブライ語欄がないというミニマリストの主張は、現存する『ヘクサプラ』の後代の写本(メルカーティ写本など)にそうした欄がないこと、そしてエウセビオスの証言にヘブライ語欄についての説明がないことに基づいている。論文著者は、現存する写本は『ヘクサプラ』そのものではなく、あくまで後代の写本であると指摘する(そして後代にヘブライ語を読めた写字生は少なかったはずである)。またエウセビオスは他の欄についてもいい加減な説明をしているので、彼がヘブライ語欄について述べていないからと言って、その存在がなかったとは言えないと主張する。それどころか、写本のひとつには、ヘブライ語欄の跡のように見える4つの点もあるという。
オリゲネスの評価。オリゲネスが『ヘクサプラ』によって成したことに対する評価という点では、多くの研究者は否定的である(S.R. Driver, D. Barthelemyら)。否定的でなくとも、肯定的ではない(J.W. Trigg, P. Nautinら)。オリゲネスは、同時代のユダヤ人が用いていたヘブライ語テクストが、七十人訳の底本だったヘブライ語テクストと同じものだと考えた。そして、その自分の持っているヘブライ語テクストに基づいて七十人訳を改訂してしまったわけである。しかし、もしかしたら七十人訳(およびその底本だったヘブライ語テクスト)の方が優れた読みだったかもしれないのである。
論文著者も、この点ではオリゲネスの改訂は褒められたものではないと考えている。何となれば、ゲッティンゲン版やケンブリッジ版の七十人訳校訂版は、この『ヘクサプラ』改訂版の影響を脱することを目的としているからである。とはいえ、キリスト教伝統のために聖書の本文批評のパイオニアとなったことは確かである。
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