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2018年8月13日月曜日

オリゲネス『ヘクサプラ』の作成理由 Law, "Origen's Parallel Bible"

  • T.M. Law, "Origen's Parallel Bible: Textual Criticism, Apologetics, or Exegesis?" Journal of Theological Studies, NS, 59 (2008): 1-21.

これまでオリゲネスが『ヘクサプラ』を作成した理由は、七十人訳テクストを改訂する本文批評的なものか、ユダヤ人と議論するための護教的なものだと考えられてきた。本論文は、第三の可能性として、釈義的なものであったことを論証している。

七十人訳が成立してからすぐに、それをヘブライ語テクストに近づけようとする試みが始まった。それが『ヘクサプラ』にも収録されているアクィラ、シュンマコス、テオドティオンの諸訳である。

アクィラ訳の特徴は、ギリシア語イディオムを無視したヘブライ語シンタックスへの拘り、語彙上の一貫性のための語源学的な造語、ヘブライ語動詞システムのギリシア語への移植などである。アクィラ訳はカイロ・ゲニザからも多数見つかっており、中世におけるユダヤ共同体でも使われていたことが分かっている。シュンマコス訳は、アクィラ訳に依拠しながらも、より洗練されたギリシア語を目指した。その特徴は、ヘブライ語とギリシア語を一対一対応にすることの拒否、神人同型論への繊細さ、単文の連鎖を複文に変えること、ヘブライ語の不定法の用法の独立属格への変換などである。シュンマコス訳は、ルキアノス校訂版の情報源かもしれない。

テオドティオン訳について、D. Barthelemyは次のように述べている:第一に、アクィラはギリシア語訳聖書の最初の改訂者ではなく、すでにあった改訂の伝統の中にあった。そして第二に、歴史的なテオドティオンに通常帰される版は、より以前の学派であるカイゲ・テオドティオンと共通した特徴を持っている。これを推し進めると、教父たちが証言する2世紀のテオドティオンは消えうせてしまうことになる。しかしながら、P.J. Gentryはヨブ記に関して、カイゲ・テオドティオンとテオドティオンとは区別され得ることを示した。またR. Timothy McLayは、ダニエル書に関して、カイゲ・テオドティオンとテオドティオンとは離れた従兄弟のような関係だと主張した。K.H. Jobes/M. Silva、N. Ferdinandez Marcos、J.M. Dinesらもこれに与する。またテオドティオン訳は、クインタやテオドレトスなどと誤解されてきたという問題もある。

オリゲネスはこれら諸訳を、おそらくはウェルギリウスの二言語テクストの影響下で共観聖書にまとめたのだった。その動機としては、しばしば本文批評的な観点と護教的な観点が挙げられる。本文批評的な観点からは、『ヘクサプラ』作成の主たる理由は、七十人訳の本来のテクストを作り上げることだったと説明される(S. Jellicoe)。これは彼の『マタイ福音書注解』15.14に基づく見解である。そこでは、ヘブライ語テクスト中に対応する箇所がないような七十人訳の一節にはオベロス記号が、一方でヘブライ語テクストにはあるが七十人訳にはない一節には、代わりに他のギリシア語テクストを挿入した上で、付加が分かるようにアステリスコス記号が付された。このように、オリゲネスは、ヘブライ語テクストを忠実に表しているはずの、真の七十人訳を取り戻そうとした、というのである。

しかしながら、この見解には3つの反論が考えられる:第一に、近代の文献学の目的をオリゲネスの活動に読み込むのは時代錯誤である。彼はテクストを「癒す」という言葉を用いているが、それはユダヤ人の聖書を投げかけることでキリスト教の聖書の妥当性を問うものでなく、あくまでギリシア語聖書の枠内での本文批評を指している。第二に、オリゲネスはヘブライ語テクストにはないが七十人訳にはある(オベロス記号のある)箇所を保持している。本当に「正しい」テクストを回復させたかったのなら、こうした箇所は削除すべきである。そして第三に、『ヘクサプラ』に諸改訂が採録されている。つまり、アクィラは七十人訳の真のテクストの案内人にはなり得ないし、シュンマコスもヘブライ語テクストを反映しているとはいえない。

一方で、護教的な観点からは、オリゲネスが『ヘクサプラ』を作成したのは、ユダヤ人との論争において防御となるものをキリスト者に与えるためだったと考えられる(S.P. Brock)。これは『アフリカヌスへの手紙』9に基づく考え方である。ただし、これが本当にユダヤ人との論争での使用を前提としているなら、アクィラら諸訳を採録していることは逆効果であろう。なぜなら、七十人訳は彼にとって、ユダヤ人の聖書から離れた、教会のための新しい摂理のはずだからである。さらに、オリゲネスは教会の外で『ヘクサプラ』が使われることを想定していないようなことも述べている(J. Wright)。

以上のように、本文批評的な観点も護教的な観点も、十分にオリゲネスの目的を表しきれていない。そこで論文著者は、第三の可能性として、釈義的な観点を提案する。オリゲネスの関心は、常に聖書解釈にあった。彼はアレクサンドリアでもカイサリアでも、イランやインドの東方知恵文学、ヘレニズムの異教神話、ラビ的聖書解釈、プラトン哲学、そしてキリスト教聖書解釈といったさまざまなテクスト解釈の伝統の中で生きていた。『ヘクサプラ』に集中的に取り組んだカイサリア時代には、より一般のキリスト者に向けた説教に力を入れていた。

『ヘクサプラ』を仕上げたあと、オリゲネスは七十人訳の注解を続けつつ、ときにギリシア語とヘブライ語のテクスト上の違いにも触れたが、そのとき彼は両方のテクストに語らせるようにした。これをA. Kamesarは「釈義的なマキシマリズム(exegetical maximalism)」と呼んだ。すなわち、解釈によるいくつもの意味によって駆動され、釈義的な可能性を増やすために聖書のサイズを広げるに至るような方法論である。オリゲネスは、原テクストへと戻るよりも、意味へと進むために、七十人訳に加えてギリシア語諸訳を用いた。また彼は、ひとつの意味を形作るために異なったいくつもの解釈を用いている。彼にとっては、写字生の誤りですら、意味ある釈義を導くことがあるために重要である。いくつもの聖書読解法によって、オリゲネスは聖書解釈の多様性を確信するようになった。

論文著者はこのように考えるが、反論が想定できないわけではない。第一に、本文批評的な観点から言うと、確かにオリゲネスはテクストを「癒す」ために『ヘクサプラ』を作成したと言っている。第二に、護教論的な観点から言うと、確かに『ヨブ記注解』の第5巻では、オリゲネスはグノーシスに対して護教論を述べている。第三に、彼の言葉ではなく彼の生の一般性に重きを置く論文著者の姿勢は方法論的に誤りかもしれない。しかしながら、オリゲネスの言葉は、その箇所だけでなく、全体の中で読まれなければ誤読されやすい。とりわけ、彼の目的を本文批評か護教論かに完全に色分けすることは不可能である。ひとつの回答がすべての問題を解決すると考えるのはやめたほうがいい。彼の言葉は重要だが、彼の聖書への態度もまた重要なのである。そしてそれは「釈義的なマキシマリズム」と呼ぶことができる。

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