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2011年10月20日木曜日

「音訳」が持つ解釈的な要素

今日もB. Kedar-Kopfsteinの論文をひとつ読みました。Kedar-Kopfsteinについては、昨日の記事をご覧ください。

  • B. Kedar-Kopfstein, "The Interpretative Element in Transliteration," Textus: Annual of the Hebrew University Bible Project 8 (1973): 55-77.


この論文では、聖書における「音訳」(transliteration、あるいは「字訳」でもいいですがここでは「音訳」で統一します)に現れる翻訳者の解釈が論じられています。そもそも、「翻訳」(translation)は避けがたく解釈を含みこむものですが、最も単純な翻訳的行為である「音訳」ですら、それを逃れることはできません。しかし翻訳の本来の目的である、意味を伝える、という点に至ることのない音訳をあえてするのはなぜなのか。Kedar-Kopfsteinはその理由を3つ挙げています。(1)原文の雰囲気を残すため、(2)目標言語に同じ意味を持つ語がないため、(3)固有名詞であるため、の3つです。この論文では、3つめの固有名詞の音訳が議論の対象となっています。

つづいて、固有名詞の特徴について述べられています。Kedar-Kopfsteinによれば、固有名詞は意味の幅が最も狭いゆえに、最も有意味な品詞であることになります。であるならば、他言語において同じ意味領域をまったくカバーすることなど不可能なので、これを翻訳する必要はないし、またすることはできません。しかし固有名詞、あるいは名前にはさまざまな情報(性別、時代、場所など)が含まれていることもまた確かですので、音訳するだけでは目標言語の読者はそうした情報を得ることはできません。むしろ音訳はそうした情報を消し去ってしまうとさえいえます。

そこで、古代から現代に至る聖書の翻訳者たちはさまざまな試行錯誤をしているわけですが、Kedar-Kopfsteinは固有名詞の1)形態論的側面、2)意味論的側面、3)機能の両義性の3つを取り上げ、具体的な例を示しながら論じていきます。特に興味深かったのは3つ目の両義的側面についてで、これはつまり、普通名詞とも固有名詞ともなる語のことですが、Kedar-Kopfsteinはここで「アダム」を例に引いています。ヘブライ語において「アダム」は、「アダムとエバ」のような固有名詞としての意味と、「人間」という普通名詞としての意味を両方持っています。たとえば創5:3のアダムはすべての翻訳聖書で音訳されており、創6:5ではすべて翻訳されています。これは、翻訳者たちが前者を固有名詞、後者を普通名詞ととらえたからです。ここでは、ヘブライ語の定冠詞である「ハ」の有無が重要なカギを握っているのですが、このあたりについては、次の手島勲矢氏の論文(普通名詞と固有名詞だけでなく、〈個〉有名詞という新たなコンセプトが提示されています)が参考になると思われます。

  • 手島勲矢「ユダヤ思想と二種類の名前:イブン・エズラの『名詞論』から」『宗教哲学研究』28号(2011年)、1-15頁。

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Kedar-Kopfsteinはこの他にも、「サタン」、「バアル」、「ベリアル」、「ベヘモット」などの例を挙げ、それぞれの語を翻訳者たちが固有名詞としてとらえたとき、また普通名詞としてとらえたときの問題を検討しています。

結論としては、翻訳が避けがたく解釈を含んでしまうのと同様に、音訳もまたある解釈を採用していることに他ならないと述べられています。それにしても、この人の論文は、序盤から中盤にかけての具体例の処理は見事なのですが、結論が何とも簡単なことが多いですね。しかし、ウルガータを翻訳学(Translation Studies)の観点からとらえているのは慧眼だと思います。このあたりは、言語学で博士号を取ったKedar-Kopfsteinの腕の見せ所で、他のヒエロニュムス研究者と一味違うところではないでしょうか。

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