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2011年10月19日水曜日

ヒエロニュムスのイザヤ書におけるヘブライ語の読みの逸脱

今日はウルガータによるヘブライ語聖書の本文批評に関する論文を2本読みました。


  • B. Kedar-Kopfstein, "A Note on Isaiah XIV, 31," Textus: Annual of the Hebrew University Bible Project 2 (1962): 143-45.
  • Idem, "Divergent Hebrew Readings in Jerome's Isaiah," Textus: Annual of the Hebrew University Bible Project 4 (1964): 176-210.

Benjamin Kedar-Kopfsteinは、1968年にエルサレム・ヘブライ大学の言語学科でPhDを取得しています。ヘブライ大学図書館のカタログによると、指導教授はなんとH. J. PolotskyとC. Rabinの二人だったようです。C. Rabinは来日した際に聖書学研究所で講演をしたのですが、確かにそのときに自分が指導している学生としてKedar-Kopfsteinについて少し触れています。

  • ハイム・ラビン(関根正雄訳)「翻訳としての七十人訳:日本聖書学研究所における講義(’67.3.7)」『聖書学論集』第5号(1967年)、7-21頁。

ヘブライ語からラテン語への翻訳技術の発達経過はJeromeの訳業を見れば跡づけられる。この問題については私の所にいる学生、Benjamin Kedarが学位論文にしており、近いうちに出版されるはずである。(17頁)

その博士論文は残念ながら実際には出版されませんでしたが、ウルガータ研究では今でもしばしば引用されているものです(未見)。

  • B. Kedar-Kopfstein, "The Vulgate as a Translation : Some Semantic and Syntactical Aspects of Jerome’s Version of the Hebrew Bible," (PhD. diss., Hebrew University of Jerusalem, 1968), xv+307pp. 


今日読んだ論文の2本目、"Divergent Hebrew Readings in Jerome's Isaiah"の方は、かなり勉強になるものだったので、少しまとめておきます。まずKedar-Kopfsteinは、多くの学者がウルガータをヘブライ語聖書の本文批評(ここではUrtextの復元の意)に使うことに否定的である旨を紹介しています。ウルガータがヘブライ語の本文批評に使えない理由は主に2点で、第1に、ヒエロニュムスはヘブライ語ではなくてギリシア語写本(七十人訳)を底本にしていたに違いないから、第2に、ウルガータは後代の成立なので、底本となったかもしれないヘブライ語写本もマソラー本文に近いものだった(ゆえに七十人訳の方がUrtextに近い)と考えられるから、というものです。この2つの見解は当然ながら両立しないのですが、とにかくこれまでのウルガータ研究史の中ではこう考えられてきました。

しかしKedar-Kopfsteinは、第1の見解に対しては、ギリシア語に引きずられた訳が見られることはあっても、ヘブライ語写本がベースであると考えるべき証拠がなくなるわけではないこと、ヒエロニュムスが先行教父(オリゲネス、エウセビオス等)やユダヤ人教師から情報を得たり、諸々のギリシア語訳を見ていたのは、現在でいえばコンコーダンスや辞書を使うようなもので、あくまでヘブライ語を原典と考えていたこと、そして第2の見解に対しては、確かにウルガータのテクストは七十人訳よりは確定的だが、マソラー本文よりは流動的な性格を持っていたこと、などから反論していきます。

そしてこの論文では、ウルガータのイザヤ書と、『イザヤ書注解』にあるラテン語訳とが読みにおいて異なる箇所を取り上げ、当時のさまざまな読みの伝承を検証していきます。検証に際しては、マソラー本文、七十人訳、タルグム、ペシッタ、クムラン出土のイザヤ書(ヘブライ語)を比較しています。その結果マソラーに対してウルガータは次のような違いを持っていることが分かりました。分類すると、(1)母音の読み替え、(2)単語の分かち書きの分け方の違い、(3)子音テキストの読み替え、(4)単数複数の違い、(5)人称の違い、(6)文法構造の違い、(7)人称接尾辞の省略、(8)前置詞の変化、(9)単語の置き換え、(10)単語の省略、(11)ウルガータ写本内の異読、となります。こうした具体例はどれも興味深いものばかりで、論旨と関係なく読んでいるだけでかなり面白いものでした。とはいえ、ウルガータや『イザヤ書注解』の読みは、マソラー本文と同じものもあれば、クムラン・イザヤ書の読みと同じものもあるので、結論としては、当時のヘブライ語写本にはかなり多様性があった、ということ以上の結論は言っていないように思われます。まあこの論文は、ウルガータの訳の面白さを具体例に即して紹介することに意義があるのでしょう。

このTextusという雑誌にKedar-Kopfsteinはあと3本論文を載せているので、これも続けて読みたいと思います。

  • B. Kedar-Kopfstein, "Textual Gleanings from the Vulgate to Jeremiah," Textus: Annual of the Hebrew University Bible Project 7 (1969): 36-58.
  • Idem, "The Interpretative Element in Transliteration," Textus: Annual of the Hebrew University Bible Project 8 (1973): 55-77.
  • Idem, "The Hebrew Text of Joel as Reflected in the Vulgate," Textus: Annual of the Hebrew University Bible Project 9 (1981): 16-35.


ちなみに、Kedar-Kopfsteinの書籍所収論文としては次のようなものがあります。特に1つ目の論文はよくまとまっており、私も繰り返し読んだことを覚えています。


  • B. Kedar, "The Latin Translations," in Mikra: Text, Translation, Reading, and Interpretation of the Hebrew Bible in Ancient Judaism and Early Christianity, ed. M. J. Mulder and H. Sysling (Philadelphia: Fortress, 1988), 299-338.

0801047234Mikra: Text, Translation, Reading, & Interpretation of the Hebrew Bible in Ancient Judaism & Early Christianity
Martin Jan Mulder
Baker Academic 2004-03

by G-Tools

  • B. Kedar-Kopfstein, "Jewish Traditions in the Writings of Jerome," in The Aramaic Bible: Targums in their Historical Context, ed. D. R. G. Beattie and M. J. McNamara (Sheffield: Sheffield Academic Press, 1994), 420-30.

1850754543Aramaic Bible: Targums in Their Historical Context (Journal for the Study of the Old Testament. Supplement Series, 166)
Royal Irish Academy
Sheffield Academic Pr 1994-04
by G-Tools

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