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2019年9月16日月曜日

『エノク書』の研究状況 Knibb, "The Ethiopic Book of Enoch in Recent Research"

  • Michael A. Knibb, "The Ethiopic Book of Enoch in Recent Research," in id., Essays on the Book of Enoch and Other Early Jewish Texts and Traditions (Studia in Veteris Testamenti Pseudepigrapha 22; Leiden: Brill, 2009), 17-35.
Essays on the Book of Enoch and Other Early Jewish Texts and Traditions (STUDIA IN VETERIS TESTAMENTI PSEUDEPIGRAPHA)
Michael A. Knibb
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『第一エノク書』はユダヤ教の発展に関する情報を提供してくれることと、黙示文学の最上の例であることから重要なテクストである。現在では5~6世紀に作成されたエチオピア語訳でのみ全体が残るが、もともとは前3世紀終わりにアラム語で書かれた。エチオピア語訳は、次の五部から構成される:

  1. 「寝ずの番人の書」(前3世紀後半)
  2. 「たとえの書」(前1世紀後半)
  3. 「天文の書」(前3世紀後半)
  4. 「夢幻の書」(前165年すぐあと)
  5. 「エノク書簡」(前2世紀前半)

「たとえの書」は「人の子」という表現を含むので新約聖書学者の興味を引いたが、アラム語断片はそれを含まず、代わりに「巨人の書」を含む。

アラム語断片は11もの写本から成るため、クムランでの『エノク書』の権威のほどが知られるが、党派的文書ではなく、クムラン意外でも広く読まれていた。その証拠に、『ヨベル書』4:16-25には『エノク書』への言及がある。アラム語の『エノク書』はディアスポラのユダヤ人のためにギリシア語訳されたが、その状況は不明である。「寝ずの番人の書」と「エノク書簡」のギリシア語訳は前2世紀頃に作成されたと考える研究者もいる(J. Barr)。第七洞窟から発見されたギリシア語断片(7Q4, 7Q8, 7Q11-14)は「エノク書簡」と見なされている。「たとえの書」と「天文の書」が「寝ずの番人の書」と「夢幻の書」の間に挿入されたのは、ギリシア語訳された段階でのことと考えられる。

『エノク書』のギリシア語訳はキリスト教徒の間でよく読まれた。「寝ずの番人の書」については、アクミーム写本(6世紀)と、シュンケッルス『年代記』の抜粋(9世紀)が、「エノク書簡」については、チェスター・ビーティ=ミシガン・パピルス(4世紀)が重要な証言である。これらの書以外のギリシア語訳はほとんどない。

『エノク書』は次第に東西教会での重要性を失ったが、エチオピア正教会では例外的に権威を認められていた。エチオピア語訳はギリシア語訳からの重訳である。「たとえの書」はイエスに言及していると解釈された。『エノク書』に関するわれわれの知識はこのエチオピア語訳に負うところ大であるが、最古の写本でも15世紀のものである。。

近代になると、まずJoseph Scaliger(1606)やJohann Fabricius(1713)らによってギリシア語訳が注目され、次いでNicholas PeirescやJames Bruce(1773)らによってエチオピア語訳が紹介された。エチオピア語訳の英訳と校訂本はRichard Laurenceが出版した(1821, 1838)。ドイツ語訳と校訂本はAugust Dillmanの手による(1851, 1853)。1886/7年のアクミーム写本の発見は研究を進展させた。このあとさらに英語圏ではRobert H. Charlesが英訳と校訂本を出版した(1893, 1906)。これはのちのThe Apocrypha and Pseudepigrapha of the Old Testament in English (1931)に結実する。

クムランで1952年に発見されたアラム語断片は、Josef Milikによって1976年に出版された。このThe Books of Enochは非常に強い影響力を持ったが、「たとえの書」をキリスト教徒の手になるものと主張するなど、批判されるべき点も多く含む。このアラム語断片の研究成果を受けて、Michael Knibbは新たなエチオピア語訳校訂本を出版した(1978)。Milikが除外していた「天文の書」のアラム語断片は、DJD 36に収録された(2000)。『エノク書』の包括的な注解書は、George Nickelsburgによって2001年に発表された(Hermeneiaシリーズ)。

前3世紀後半に書かれた「寝ずの番人の書」はユダヤ史上最古の黙示文学である。これは正典に含まれるダニエル書よりも古い。黙示文学のルーツはヘブライ語聖書の預言文学(エゼキエル書やゼカリア書)であるとされる。ただし、エノク自身はあくまで「見る者」であって、預言者としては描かれない。

『エノク書』はさらに、ヨブ記や箴言などの知恵文学と比較されることもある。とはいえ、『ソロモンの知恵』を除いて、知恵文学は終末論的な議論を含まないことにも注意が払われるべきである。『シラ書』との比較は興味深い。というのも、Benjamin Wrightによれば、「寝ずの番人の書」を書いたサークルと『シラ書』を書いたサークルには緊張関係(敵対関係まではいかない)があるというのである。クムランの知恵文学(4QMysteriesと4QInstruction)との比較もなされてきた。どちらも黙示的な文学ではないが、知恵に対するエノク的伝統との関係性を有している。エノクは「秘儀」である特別な啓示の受け取り手として描かれている。そして彼はそれをノアへと伝えるのである。こうした意味で、『エノク書』は「明らかにされた知恵(revealed wisdom)」であるといえる。

『エノク書』をより広い第二神殿地代のユダヤ教の枠組みで捉えようとした研究としては、Gabriele Boccacciniのものがある(Roots of Rabbinic Judaism, 2002)。Boccacciniは前6世紀から前2世紀のユダヤ教を、神殿体制を代表する「ツァドク派ユダヤ教(Zadokite Judaism)」と、もともとは祭司だったが派閥闘争に負けた「エノク派ユダヤ教(Enochic Judaism)」の対立として説明する。これにさらに「知恵的ユダヤ教(sapiential Judaism)」もあったが、これとエノク派ユダヤ教との対立はすぐに中立化した。またツァドク派ユダヤ教とエノク派ユダヤ教の中間に位置したダニエル書は、プロト・ラビ的テクストと呼べるという。

ツァドク派ユダヤ教は、エゼ40-48章、ネヘミヤ記、エズラ記、五書の祭司資料、歴代誌に現れ、知恵的ユダヤ教はアヒカル(『トビト記』)、箴言、ヨブ記、ヨナ書、コヘレト書に現れ、そしてエノク派ユダヤ教は「寝ずの番人の書」、アラム語レビ資料、「天文の書」、「動物の黙示録」などに現れる。

ツァドク派は、Boccacciniによるとエリート層の祭司で、エゼ40-48章で示される改革をユダの共同体に適用しようとした。それにより、大祭司の独占的な権利が保証される。エノク派は、捕囚後に権力を失い、のちにエッセネ派となった祭司たちである。彼らは「寝ずの番人」、すなわち天使たちが天から落ちてきたという信仰を持っている。「寝ずの番人の書」には2つの墜落伝承が残されている。第一に、シェミハザに関わるものは、創世記の記述に従い、人間の女性への欲望に負けてこれと交わり、巨人を生んだ物語である。第二に、アザエルに関わるものは、プロメテウス伝承のように、人間にさまざまな知恵を授けるために落ちてきたという物語である。いずれも、この世になぜ罪が存在するかを説明するための物語である。

Boccacciniは、このように、第二神殿時代のユダヤ教にさまざまなシャープな対立を描いてみせるが、論文著者は、実際のユダヤ教はもっと複雑だったに違いないと主張する。

2019年9月12日木曜日

聖書翻訳の中のラビ伝承 Kraus, "Rabbinic Traditions in Jerome's Translation"

  • Matthew Kraus, "Rabbinic Traditions in Jerome's Translation of the Book of Numbers," Journal of Biblical Literature 136.3 (2017): 539-63.

ヒエロニュムスはラビ文献を直接読んだわけではないが、タルグムやミドラッシュやタルムードに保存された口頭伝承へのアクセスを持っていた。かつてはラビ伝承のためにウルガータを研究することは、場当たり的で方法論を欠いていた。単純にミドラッシュ的な自由な敷衍訳をしてあるところには直接的なラビ的影響があると考えるという姿勢だった。しかし、それはヒエロニュムスの翻訳底本である聖書のVorlageの違いかもしれない。こうした研究はウルガータを聖書注解としてよりもヘブライ語の解釈として読もうとしている。そこでは、翻訳者を文化のメディエーターとして見るという視点がない。この論文は、ヒエロニュムスがユダヤ的な知識や情報提供者を用いつつ、聖書翻訳を通じて聖書解釈をしていたという可能性を追求する。聖書注解にラビ伝承を入れ込んだように、聖書翻訳にもそうしていたのではないか。

こうした観点からの研究には、C.T.R. Hayward, Friedrich Avemarie, Sebastian Weigertらのものがある。Adam Kamesarによると、『創世記のヘブライ語研究』はすぐのちに始まった聖書翻訳のための新しい文献学的システムを防御するために書かれたものだというが、Haywardは、同書中の創世記の訳文とウルガータ創世記の訳文にはかなりの相違があるため、『研究』で取り入れたラビ伝承をウルガータでは避けたと主張する。しかし、論文著者はウルガータの中にさまざまなラビ伝承があることを示してみせる。さらに、そもそも『研究』とウルガータの訳文が異なるのは、前者が注解という性質上さまざまな可能性を残せるのに対し、後者は翻訳としてひとつの訳文を選択しなければならなかったからである。いわば、ヒエロニュムスの基本路線であるrecentiores-rabbinic philologyは彼の聖書翻訳をも導いていたといえる。

ヒエロニュムスが注解を書いていない聖書文書の翻訳から、どのようにラビ伝承を確実に抽出すべきか。論文著者は、まずそれが普通でない翻訳であることを確定し、それとギリシア語訳のテクスト伝承との関係を定義し、比較可能なラビ伝承を探し、そしてヒエロニュムスの他の著作から彼がその伝承を知っていたかを確認する、という手順を提案する。

具体例を挙げる段階では、たとえば専門用語に注目したり、ラビの聖書解釈テクニック(たとえば聖書のひとつの単語を2つの単語で言い換えたりすること)と同じものを探したり、古代末期の文脈でのラビの聖書解釈を見つけたりしている。中でも興味深いのは、民数記24:24において「キッティーム」を「ローマ人」と同一視する解釈は、死海文書の『ハバクク書ペシェル』にも見られるものである。『ダニエル書注解』11:30-31でも同様の解釈をしている。もうひとつ興味深いのは、民数記10:5-7におけるラッパの音の違いを訳し分けており、それが『ミシュナー』「ローシュ・ハシャナー」4.9や『ピルケー・デ・ラビ・エリエゼル』32でのラッパの音の違いに関する説明にも見られる点である。おそらくヒエロニュムスは実際にショファールを見たことがあったに違いない(ただしそれがローシュ・ハシャナーと結びついていることまでは知らなかったようである)。

Megan Hale Williamsは、ヒエロニュムスが自分の翻訳にラビ的影響があることを公言するのは、自己構築の現れであると主張した。ヒエロニュムスがユダヤ学習やユダヤ人を描いてみせたり否定してみせたりするのは、修道者として自らを作り上げるプロセスにおける肉付けだというのである。さらにWilliamsは、ヒエロニュムス自身が説明するユダヤ人やユダヤ学習との交流を研究することと、実際の交流関係を研究することとは異なるという、方法論的に重要な指摘もしている。そしてそれゆえに、ヒエロニュムスのユダヤ学習の展開は、ユダヤ教とキリスト教の間に橋ではなく壁を作ったと主張するが、論文著者はこれに反論する。なぜなら彼の翻訳の方法論は境界を越えることを要求するものであるため、これはまさに壁ではなく橋をかけているといえるからである。

George Steinerによると、翻訳プロセスの四段階は、信頼trust、攻撃aggression、結合incorporation、互恵reciprocityであるが、ヒエロニュムスが「攻撃」に留まったままだったのに対し、オリゲネスは「互恵」の段階に達していたと考えられる。

ウルガータ中のラビ伝承は次のように同定される。ヘブライ語とラテン語の普通でない不一致があること。ラビ文学の中にユニークで比較可能な伝承があること。ウルガータの外部の資料(注解など)にラビ伝承の知識について言及があること。基本的には文献学的な翻訳であるが、ときにラビ的な解釈が適用されることがあるという点では、タルグム・オンケロスとの類似が指摘できる。ただし、さまざまな影響を含んでいるので、Adam Kamesarによる「改訂者的・ラビ的文献学(recentionres-rabbinic philology)」という表現の方がより適切である。またヒエロニュムスの実際の翻訳へのユダヤ的影響と、自己構築のためのユダヤ的影響への言及を区別するというWilliamsの主張も再考が求められる。

2019年7月8日月曜日

ヒエロニュムスとパレスチナの聖地 Newman, "Between Jerusalem and Bethlehem"

  • Hillel I. Newman, "Between Jerusalem and Bethlehem: Jerome and the Holy Place of Palestine," in Sanctity of Time and Space in Tradition and Modernity, ed. A. Houtman, M.J.H.M. Poorthuis, and J. Schwartz (Jewish and Christian Perspectives Series 1; Leiden: Brill, 1998), 215-27.

教父による聖地巡礼への否定的評価の代表例が、ニュッサのグレゴリオス『書簡2』とヒエロニュムス『書簡58』である。グレゴリオスは、キリスト者は聖地巡礼の義務がないこと、エルサレムまでの道のりが危険なこと、聖地と呼ばれながら多くの罪にまみれていることなどを挙げ、本当の巡礼は聖地の重要性を霊的に内面化することだと主張した。

ヒエロニュムスは、395年に書いたノラのパウリヌス宛の『書簡58』の中で、エルサレムに来たことがあるだけでは意味がないこと、神の力には地理的な制限がないのだからむしろ天のエルサレムを探求するべきこと、神の国は信者の中に宿るのだからエルサレムであろうがイギリスであろうが変わりないこと、多くの聖者はエルサレムを訪れたことがないこと、現在のエルサレムは異教に汚染されていることなどに言及している。

ヒエロニュムスは実際にはエルサレムに聖地巡礼し、ベツレヘムに住んでいるのだから、こうした批判は直ちに自分に帰ってくるはずだが、それについては不問に付している。しかしながら、『書簡58』以外では、ヒエロニュムスは聖地巡礼や聖地そのものを賞賛している(『書簡5』1、『書簡22』30、『書簡45』2)。

中でも彼の聖地巡礼に対する見解の代表例が、『書簡46』(386年)である。これはパウラとエウストキウムによって書かれた体になっているが、実際にはヒエロニュムスの筆によるものである。聖地における聖書の奇跡や、そこで暮らす修道者たちの平和な生活、諍いや争いがないことなどを例に、ローマのマルケラに聖地に来るように促している。その後『書簡47』(393年)でも、『書簡53』(394年)でも、ヒエロニュムスは友人にベツレヘムに来るように誘っている。ところが、先に見たように、その数年後の395年の『書簡58』では一転して聖地巡礼に批判的な態度を取るわけである。しかし、そのあとはまた聖地巡礼を友人に勧めたり、肯定的に説明している(『書簡68』、『書簡71』、『書簡108』、『書簡122』、『書簡139』)。

ヒエロニュムスは『書簡58』ではなぜ聖地巡礼を否定したのか。主たる理由は、F.M. AbelやF. Cavalleraらの言うように、「オリゲネス主義論争」の勃発ゆえであろう。論敵ルフィヌスのパートナーであるメラニアの親族であるパウリヌスが聖地に来たら、敵方に与することは明らかであるし、そもそもヒエロニュムスは論敵ヨアンネスに破門されていたので、パウリヌスを迎える準備ができなかったのである。

確かに主たる理由はオリゲネス主義論争だが、かといって『書簡58』でのヒエロニュムスの主張を過小評価することはミスリーディングである。『書簡64』でエルサレムをソドムと呼んでいるように、地上のエルサレムへの批判は他にも見られる。またマタ27:52-53の描写を天上のエルサレムと捉えることもあれば(『書簡46』)、そうではないと捉えることもある(『書簡60』)。『詩篇96への説教』では、おそらくエルサレムに住む聴衆に対し、対立する地上の聖地と霊的な聖地のうち、後者の優越を主張した。

論文著者は、こうしたヒエロニュムスの変節の理由を、オリゲネス主義論争以外にも挙げている。第一に、まさにエルサレムが「都市」であるがゆえに、それと修道生活が相容れなかったからである。エルサレムに限らず都市一般に対する修道的な敵意は昔から表れている(『書簡2』、『書簡43』、『書簡46』、『ヒラリオン伝』、『書簡125』、『詩篇91への説教』など)。

第二に、ユダヤ的終末待望論への反発である。ユダヤ人は終末において、神殿祭儀と共に地上のエルサレムが救済されると考えていたが、ヒエロニュムスはそれを批判し、霊的な救済を説く(『詩篇96への説教』、『書簡129』)。また彼に言わせれば、廃墟となったエルサレムを見ることこそがキリスト教的に正しい巡礼であるといいう。なぜならば、エルサレムが廃墟であるさまを見ることで、救済が地上の問題ではないことを理解できるからである(『詩篇86への説教』)。おそらくこうした議論は、エウセビオスやミレウムのオプタトスらから取ってきたものだろう。

ヒエロニュムスはそもそもエルサレムに住むことは望まなかったが、ではなぜベツレヘムに住んだのか。それは、『書簡58』で述べているように、ベツレヘムに住めば、都市を避けることと、聖地に近くあることを両立させることができるからである。ついでに言えば、ベツレヘムは砂漠に近いが、ヒエロニュムスのコスモポリタン的な社会的・知的な交わりを途絶えさせずにおけるほどには都市に近い。シリアの砂漠でアラム語の野蛮な響きに囲まれていたときとは異なり、ベツレヘムでは周囲に文化的な言語を話す者たちがいるのである。ベツレヘムは大都市でも、オリゲネス主義論争の中心地でも、ユダヤ人の終末待望の地でもない。

2019年6月29日土曜日

タルグムについて  Le Déaut, "The Targumim"

  • Loger le Déaut "The Targumim," in Cambridge History of Judaism, volume 2: The Hellenistic Age, ed. W.D. Davies and Louis Finkelstein (Cambridge: Cambridge University Press, 1990), 563-90.


タルグムという言葉は一般にアッカド語起源とされるが、Ch. Rabinはヒッタイト語起源を主張する。ティルゲムはヘブライ語から他の何らかの言語に翻訳することを意味するが、タルグムというとアラム語訳を意味する。エズラ記、ネヘミヤ記、ダニエル書以外のすべての文書のアラム語訳が存在する。かつては、「タルグムは文書化が禁じられていたので、その成立自体はキリスト教以前にさかのぼるが、文書化はラビ文学の初期(後200年)をさかのぼらない」と考えられていたが、クムランでの発見によって、文書化もキリスト教以前であったことが分かっている。

捕囚時にユダヤ人は主要言語であるアラム語を学ぶように強いられたが、ヘブライ語は礼拝と聖なる文学の言語として使われ続けた。捕囚後になるとアラム語使用は増えていき、反対にヘブライ語は人々の話し言葉ではなくなった。とはいえ、ユダヤ地方で発見された諸文書は、ユダヤ地方に限っては、バルコフバの乱の頃までヘブライ語が生きていたことを示している。

ではヘブライ語が生きていたのに、なぜタルグムが必要になったのか。ヘブライ語が次第に読まれなくなったから、というのが伝統的な回答だが、実際にはヘブライ語を読める人もタルグムを必要としたのだった。なぜなら、難解な聖書テクストは「解釈」を必要としたからである。それゆえに、エズラが律法を読んだときに、「翻訳し(メフォラシュ)、その意味を提供した」のである(ネヘ8:8-9)。

口伝タルグムはシナゴーグでの朗誦の礼拝とともに発展した。新約聖書の時代には、律法と預言書を安息日に朗誦する習慣は出来上がっていたが、その内容はよく分かっていない。ミシュナー(メギラー4)には詳細が残っている。ヘブライ語テクストの朗誦者が律法なら一節ごとに、預言書なら三節ごとに読むと、翻訳者(メトゥルゲマン)が「記憶から」その翻訳を提供するのである。すでに律法を最高とするヒエラルキーができあがっていた。「記憶から」というのは「書いてはいけない」ということだが、それは現実には守られていなかった。

1832年L. Zunzはすでに、ハスモン朝時代には文書化されたアラム語訳があったに違いないと指摘していたが、クムラン文書の発見によってそれは証明された。ヨブ記のアラム語訳(11QtgJob)は、外典創世記よりもダニエル書のアラム語に近い。クムランで発見されたという以外にはクムラン的な特徴はないので、アラム語訳の文書化はクムランの特殊事情ではないだろう(見つかったのがヨブ記であることを、エッセネ派的な現象と解釈する研究者はいるが)。パレスチナ・タルグム的な過度な付加はなく、シンプルなスタイルである。第四洞窟でもヨブ記のアラム語訳は見つかっている(4QtgJob)が、こちらは小さな断片である。ヨム・キプールには大祭司の前でヨブ記を読む習慣があったが(ヨマー1.6)、難解なヨブ記を読むためには翻訳が必要だったのであろう(A. Berliner)。第四洞窟からはレビ記のアラム語訳(4QtgLev)も発見されているが、これも断片である。基本的に、クムラン文書自体の膨大さに比して、タルグム資料の収穫はわずかであったが、それはJ.Y. Milikによれば、高度に知的なエッセネ派共同体がアラム語訳を必要としなかったからだという。初期のタルグムは一般向けだったのである。クムランのタルグム資料はすべて帝国アラム語で書かれている。

創世記4:8において、タルグム、七十人訳、ペシッタ、サマリア五書には挿入句が見られることから、これらはマソラー以前の似たVorlageに依拠しているという議論がある(S.R. Isenberg)。またヨセフスは『ユダヤ戦記』をもともとアラム語で書いたので、タルグムを用いていたと考えられている。新約聖書中にもタルグムに依拠していると見られる箇所がある(エフェ4:8、マタ27:46、Ⅱテモ3:8、ルカ6:36、同11:27など)。こうしたことからパレスチナ・タルグムと新約聖書の直接的な依存関係を議論する研究者はいる。とはいえ、こうした一致は同じテクストに依拠しているというよりは、たまたま同じ口伝解釈の伝承に依拠したと考える方がよいだろう。

五書のタルグム。タルグム・オンケロスはパレスチナ・タルムードではアクィラと混同されている。オンケロスは帝国アラム語で書かれており、パレスチナを起源とするが(プロト・オンケロス)、その編纂はバビロニアで4-5世紀に行われ、スーパーリニア母音が付された。それゆえに、アキバ学派をはじめとするタナイームの教えが反映する直解主義的な方法論を取る。つまり、パレスチナの教師たちが、彼らよりも直解主義的なバビロニアの伝統に出会って生まれたのがオンケロスである。

パレスチナの諸タルグムにUrtextを求めることはできない。口伝の枝分かれが複雑だからである。完全な訳としては、偽ヨナタン(エルサレム・タルグムⅠ)とネオフィティがあり、不完全なものとしては、フラグメント(エルサレム・タルグムⅡ)とカイロ・ゲニザがある。偽ヨナタンは、翻訳というよりは敷衍である。その最終的な編纂はタルムード後である。というのも、出26:9にはミシュナーについて、創21:21にはムハンマドの妻アディシャと娘ファーティマについての言及があるからである。ただし、申33:11にはヨアンネス・ヒュルカノスへの祈りもあり、伝承の中にはかなり古いものも含まれていることが分かる。ゲニザ・フラグメントは、最も古い形を残しており、オンケロスからの影響が皆無である。アラム語を日常的に話していた写字生によって書かれている。ネオフィティは、しばしばマソラー以前のVorlageや、タナイームのミドラッシュ以前のハラハーを反映している。また、しばしばゲニザ・フラグメントとの驚くべき一致を見せる。

預言書のタルグム。預言書はシナゴーグの礼拝においてかなり初期から読まれていた。ヨナタンは、ヒレルの弟子であるヨナタン・ベン・ウジエルに帰されるが、これはテオドティオンとの混同であろう。オンケロスと平行関係にあり、パレスチナを起源とするがのちにバビロニアで編纂された。ただし、オンケロスよりは逐語的でない。

諸書のタルグム。諸書はどの文書も公認版のタルグムを持っていない。メギロット以外にはシナゴーグでの朗誦がされなかったからだろう。諸書のタルグムはすべてパレスチナ起源であるが、バビロニアからの影響も大きく受けている。箴言タルグムはシリア語訳との類似が認められる。

すべての翻訳は解釈を前提としている。タルグムもしばしば、テクストの意味を明らかにすることを躊躇なく超えることがある。またテクスト本来の意味よりも、同時代の解釈を優先することもしばしばである。タルグムのテクニックを2つにまとめると、第一に、テクストを一見して理解できるようにすること、すなわち「説明(explanation)」であり、第二に、テクストをシナゴーグの会衆に関係あるものとすること、すなわち「実現(actualization)」である。

「説明」の例は以下のようなものである。タルグムは原文のシンタックスを変え、疑問文を平叙文に変え、間接話法を直接話法に変える。二つの別のエピソードをつなげる。不明瞭な語や表現は解釈を加え、一般的でない語はより簡単な語に代える。一語をたくさんの語によって説明することもある。メタファーやアレゴリーの本来の意味を伝える。イメージを具体的なものに置き換える。聖書は無謬の書のなので、空白や矛盾は排除する。

「実現」の例は以下のようなものである。神人同型的表現を避け、神の超越性を前提とするために、神の名を呼ぶことを避ける(代わりに、メムラ、カヴォード、シェヒナーを用いる)。聖書の登場人物(アブラハム、モーセ、アロンら)の不適切な行動の描写をリタッチする。メシアニズム、終末論、天使論、トーラー祭儀などを含む。「社会学的」な翻案、すなわち地理や歴史的な事柄を同時代のものに代えることもある(イザ9:11のアラムとペリシテがシリアとギリシアになる)。ただし、タルグム作者は恣意的な方法でこうしたことをするのではなく、聖書の一体性を重視する。

タルグムは古代のユダヤ人の聖書解釈である。聖書を理解するために作られたものである。現在の研究においては、本文批評や言語学的研究に寄与するために、正確な校訂版を作成することが求められている。また文法や辞書の整備も求められる。ミドラッシュ研究との協力も必要とされている。

2019年6月26日水曜日

ヒエロニュムスとタルグム Hayward, "Saint Jerome and the Aramaic Targumim"

  • Robert Hayward, "Saint Jerome and the Aramaic Targumim," Journal of Semitic Studies 32/1 (1987): 105-23.

近年のタルグム研究は、ある伝承の古さや新約聖書への影響に関心を持つことが多く(特に、R. le Deaut, M. McNamara, L. Diez Merinoらカトリックの研究者)、タルグムと教父の著作の関係はあまり話題に上がらない。本論文は、小預言書、とりわけゼカリヤ書、マラキ書、ナホム書のタルグムに残されているユダヤ伝承をヒエロニュムスがどのように用いたかを明らかにするものである。小預言書のタルグムが作られたのは、ヒエロニュムスが生きた4世紀から5世紀頃のことである。ちょうどパレスチナ・タルムードの成立時期でもある。

ヒエロニュムスがタルグムに由来する伝承を保存しているといえるのは、それが次のような伝承と同じでないことが明らかなときである。すなわち、七十人訳、聖書の諸訳、ラビ文学以前のユダヤ文学、ヒエロニュムスより古いラビ文学、オリゲネスらキリスト教文書である。ヒエロニュムスは、こうした前提のもとで、ヒエロニュムスの解釈のソースがタルグム伝承に由来することを裏付ける9つの例を挙げている。

そこから明らかなのは、ヒエロニュムスの時代は反ユダヤ的な法律が次々に施行された時代であったにもかかわらず、この教父がユダヤ人との付き合いを妨げなかったことである。またヒエロニュムスは、タルグムやラビ伝承が現存する写本よりももっと前の時代にどのように発展したのかを見せてくれる。ヒエロニュムスはユダヤ教の内部の人間ではないので、4世紀から5世紀にかけての非聖書的な伝承の状態を述べ伝えるのに最適の人物である。ヒエロニュムスにとっても、一節ごとになっているタルグムは、ハラハーやアガダーのポイントに沿って再編成されているミドラッシュやタルムードよりも便利だったに違いない。またハラハー的な議論についてはあまり知識を持っていないヒエロニュムスは、一般向けの聖書解釈を扱うタルグムの方が使いやすかった。

2019年6月24日月曜日

タルグム概論 Hayward, "The Aramaic Targums"

  • C.T.R. Hayward, "The Aramaic Targums," in The New Cambridge History of the Bible 1, ed. James C. Paget and Joachim Schaper (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), 218-41.

The New Cambridge History of the Bible: Volume 1, From the Beginnings to 600

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ヘブライ語聖書のアラム語訳を指す「タルグム」の語は、ヒッタイト語起源ではないかとされている。五書には三種類の完全なタルグムがある。第一は、タルグム・オンケロス。オンケロスはユダヤ人改宗者で、ラビ・エリエゼルとラビ・ヨシュアの二人のパレスチナの賢者たちから教えを受けた。一般的にオンケロスはバビロニア由来とされており、確かにバビロニア・タルムードと同様に東部アラム語の特徴も持っているが、パレスチナで成立した死海文書のアラム語と似ているところもある。そのため多くの研究者たちは、もともとパレスチナで成立したあとに(プロト・オンケロス)、バビロニアにもたらされ、ラビの学塾で最終的に編纂されて公認版となったと考えている。

第二は、タルグム・ネオフィティ(MS Neophyti 1)。パレスチナのタルグムで、アレハンドロ・ディエズ・マチョによって、1956年にヴァチカン図書館で発見された(オンケロスと誤認されていた)。エルサレム・タルムードと似たアラム語である。欄外注や行間注があることが特徴的である。長い挿入がありつつも、基本的にはヘブライ語テクストに忠実である。11世紀のナタン・ベン・イェヒエルが引用している。ミシュナーと矛盾するような律法解釈を含んでいる。成立はおそらく4世紀頃か。

第三は、タルグム・偽ヨナタン。多くの拡張的な解釈を含むため、ヘブライ語の五書の二倍の長さになっている。言語的にはオンケロスと似ているが、拡張的な解釈についてはネオフィティ、フラグメント、その他のラビ文学と共通したものを持っている。他のラビ文学にはない解釈も保存している。創21:21の解釈で、ムハンマドの妻と娘に言及していることから、最終的な編纂は少なくともイスラーム期と見られる。ただし原型はラビ的権威が明確に拒絶した解釈を多く保存していることから、タルムード期以前と考えられる。

これらの完全な五書のアラム語訳に加えて、部分的な翻訳もある。第一は、フラグメント。これは西部アラム語で書かれたパレスチナ・タルグムである。解釈を穏当に付加するネオフィティと拡大解釈を含む偽ヨナタンの中間くらいの自由度である。第二は、カイロ・ゲニザの7つの断片。これもパレスチナ・タルグムである。断片は7世紀から14世紀のもの。そして第三は、タルグムのトセフトット。オンケロスとパレスチナ・タルグムの両方の要素を持った言語的特徴を持っている。

預言者については、完全なタルグムはひとつだけである。すなわち、タルグム・ヨナタンである。ヨナタン・ベン・ウジエルに帰される。バビロニア・タルムードでしばしば引用される。オンケロスと同様に、もともとイスラエルの地で成立したが、のちにバビロニアで最終的に編纂されたと考えられる。オンケロスよりも長く、またより詳細な解釈的付加が見られる。そうした解釈は他のラビ文学でもおなじみのものが多い。

諸書については、公認版のタルグムは存在しない。しかし、箴言、歴代誌、ヨブ記、詩篇、5つのメギロットなどはアラム語に訳されている。エステル記には2つか3つの訳があり、特にその二つ目は原文からかけ離れた長い解釈を含んでいる。

これら各種タルグムの共通した関心は、彼らが思うヘブライ語テクストの正しい意味である。翻訳者たちにとって聖書は無謬の書である。それゆえに、聖書にある矛盾、不明瞭さ、不合理さは、読者が表層の意味をこえて聖書の完全な意味を知るためのシグナルの役割を果たしていると理解される。そこで、タルグムは次のような操作を図る。たとえば、明らかな矛盾の排除、聖書の一貫性への関心、聖書に見られる反復表現への意味づけ(associative or complementary translation)、イスラエルや聖書の偉大の人物への批判の最小化、現在の問題解決を図るためにテクストを反転させた翻訳(converse translation)などである。

神の表現においては、神聖四文字は使われない。タルグムは神人同型的な表現を和らげ、何事も神自身ではなく「神の面前で現された」とする。こうした婉曲表現はもともとペルシアの宮廷で使われたものである。詩的表現を散文化することも多い。シェヒナーをはじめとする神の呼び名はほとんどが他のラビ文学にも出てくるが、タルグム独特のものとして「メムラ(言葉・発話)」がある。

タルグムは複数の解釈を紹介することがあるが、そうした解釈は別個に現れるのではなく、テクストの表面にシームレスにひとつの解釈のように現れる。それが複数の解釈であることは、もとのヘブライ語テクストの知識がないとわからない。一方で、律法解釈に関してはどのタルグムもひとつの解釈を提示する。タルグム・オンケロスの律法解釈はラビ・アキバのハラハー的ミドラッシュと一致しており、それはとりもなおさずバビロニア・タルムードと一致しているということである。

タルグムのジャンルの可能性としては、ミドラッシュ、再話聖書、翻訳が挙げられる。ミドラッシュと似たところを持っているが、次の3点に関して大きく異なっている。第一に、タルグムはヘブライ語テクストを翻訳したものだが、ミドラッシュはそうではない。最も敷衍が見られる雅歌タルグムやエステル記のタルグム・シェニですら、翻訳という枠組みを失っていない。第二に、タルグムはラビの名を挙げて引用することは決してないが、ミドラッシュはしばしばする。タルグムには引用を示す「ダヴァル・アヘル」のような定型句は出てこない。そして第三に、タルグムは底本のヘブライ語テクストの全体を提供するのに対し、ミドラッシュは特定のレンマだけを挙げる。

再話聖書の代表例は、ヨベル書、外典創世記、聖書古代誌、ヨセフス『ユダヤ古代誌』などであるが、タルグムとはやはり次の3点で異なっている。第一に、再話聖書はしばしば聖書のエピソードの一部分を完全に削除するが、タルグムはそうではない。第二に、再話聖書は聖書の話の順番を大きく再編成することがあるが、タルグムはそうではない。そして第三に、タルグムが底本のヘブライ語テクストのすべての語に注意を払うのに対し、再話聖書は必ずしもそうしない。

ではタルグムは翻訳なのだろうか。タルグムには翻訳に加えてエクストラの情報を組み込むことがあるし、敷衍することもある。そこでSamelyは、タルグムとはan Aramaic narrative paraphrase of the biblical text in exegetical dependence on its wordingだと定義している。

タルグムの社会的な場所はシナゴーグである。ミシュナー(メギラー4.10)には、読まれるべき(あるいは読まれるべきでない)聖書箇所や解釈されるべき(あるいは解釈されるべきでない)聖書箇所が挙げられているが、それはシナゴーグにおける問題である。タルグムは教育的あるいは説教的な目的のもとで、ヘブライ語を解さない者から解す者まですべてを対象としている。申命記シフレ(161)によると、タルグムが学塾で用いられていた可能性が示唆されている。神への崇敬が聖書に、聖書がタルグムに、タルグムがミシュナーに、ミシュナーがタルムードに、タルムードが行為に、行為が畏れに人々を導く。つまり、ミシュナーはタルグムによる前知識を必要としているというのである。このように、タルグムは個人にも共同体にも宛てられているが、非ラビ的解釈を含むことから、ラビの世界の外で生じたものではないかと考えられる。それがのちにバビロニアでラビたちに公認されたということである。

タルグムの成立時期を特定するのは難しい。最終的な編纂の時期と、文書として成立した時期も異なる可能性がある。成立時期の議論については、Renee BlochとGeza Vermesらによる先駆的な研究がある。すなわち、タルグム中の個々の解釈と、年代特定が可能な文書中の平行箇所を比較するという方法論である。他にも、聖書の地名を同時代のものに勝手に変えること、ギリシア語やラテン語からの借用語、アラム語の形態などを見ることで、年代を特定することができる。こうした分析の結果、オンケロスは後1世紀から2世紀初期に成立し、最終的な編纂はバビロニアで5世紀以前になされたと考えられる。ヨナタンも同様。ネオフィティは4世紀初期。偽ヨナタンは7世紀初期。フラグメントはネオフィティと偽ヨナタンの中間くらい。トセフトットは特定不可能。諸書のタルグムは6世紀以降。

しかし、これら以前にも、クムランには聖書のアラム語訳が存在した証拠がある。レビ記(4QTgLev = 4Q16)とヨブ記(4QTgJob = 4Q157, 11QTgJob = 11Q10)である。これらは、既存のタルグムよりもシリア語のペシッタにより近いという見解がある。ヨブ記に関しては、ヘブライ語のヨブ記以外からも影響を受けている。つまりクムランのアラム語訳ヨブ記は初期の非ラビ的タルグムを代表している。

2019年4月29日月曜日

教父のヘブライ語とアラム語理解 Gallagher, "The Language of Hebrew Scripture and Patristic Biblical Theory"

  • Edmon L. Gallagher, Hebrew Scripture in Patristic Biblical Theory: Canon, Language, Text (VCS 114; Leiden: Brill, 2012), 105-42.

Hebrew Scripture in Patristic Biblical Theory: Canon, Language, Text (Supplements to Vigiliae Christianae)
Edmon L. Gallagher
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本書の第4章は、第二神殿時代とラビ・ユダヤ教期の教父たちがヘブライ語やアラム語をどのように理解していたかという論点を扱っている。彼らはヘブライ語とアラム語を区別できたのか、これらの言語についてどのような見解を持っていたのか、そして彼らが世界の諸言語の中でヘブライ語の地位について持っていた見解はどのように彼らの聖書理論に影響していたのか。

初期ユダヤ教の言語。パレスチナはヘブライ語、アラム語、ギリシア語など多言語環境だった。とりわけギリシア語は、Saul LiebermanやMartin Hengelが論じているように、重要な役割を演じていた。またこの時代にヘブライ語とアラム語では、アラム語が主要な言語ではあるがヘブライ語も第二言語として重要だったと考えられている。かつてはヘブライ語はすでに死語であって、ラビたちが人工的に用いていたとされていたが(Abraham Geiger)、現在では第二次ユダヤ戦争後もヘブライ語は話されていたという(M.H. Segal, P.S. Alexander, J.T. Milik)。ただし、そのヘブライ語の重要性も、特定の言語的イデオロギーに基づいた二次的なものに留まるので、あまり過大評価はできない。パレスチナの外では、ヘブライ語の役割の小ささの傾向はさらに強まる。エジプトのユダヤ人は完全にギリシア語を話していた。フィロンはヘブライ語を知らなかった。ローマでも同様に、ユダヤ人はギリシア語か、より少ないがラテン語を話していた。

このように、ヘブライ語はパレスチナ以外ではほとんど、パレスチナではごくわずかにしか使われていなかったが、ユダヤ教においては「聖なる言語(ラション・ハコデシュ)」として神学的な重要性を持っていた。ヘブライ語聖書はヘブライ語に関するイデオロギーをほとんど示さないが、第二神殿時代のユダヤの硬貨やいくつかの文学(Ⅰマカ、シラ書など)はヘブライ語を重視している。中でもクムランの断片4Q464は「ラション・ハコデシュ」の初出である。『ヨベル書』はヘブライ語が人類の最初の言語だと記している。そもそもクムランで発見された八割がヘブライ語写本であることからも、その重要性が知られる。ナハル・ヘヴェルの写本にも、アラム語とギリシア語と共に、ヘブライ語のものがある。

ヘブライ語は、トーラーおよびその神的な著者との関係により重視された。ミシュナーなどのラビ文学でヘブライ語が用いられていることは、ラビたちの言語的なイデオロギーに結びついている。ディアスポラのユダヤ人たちですら、ヘブライ語を読んだり書いたりはできなくとも、この言語にユダヤ人としてのアイデンティティーを託していた。フィロンもそうである。ギリシア語訳聖書の写本でも神の名だけは古ヘブライ文字で書かれているのは、ヘブライ語の方がギリシア語よりも神聖だと考えられていたからである。古ヘブライ文字とアラム文字では前者の方がより重視されることもあったが、聖性に関する議論で両者が比較されることはなかった。議論はあくまで言語間の比較であった。

では教父思想におけるヘブライ語とアラム語はどのような位置にあったか。研究者たちはしばしば、ギリシア語およびラテン語ソースで「ヘブライ語」と書かれているとき、それは実はアラム語を指していると考えてきた。これは、新約聖書、フィロン、ヨセフスなどにそうした用法があるからだが、最近では使徒言行録に出てくる「ヘブライ語」はまさにヘブライ語を意味したと論じる研究者たちもいる(John C. Poirier, Ken Penner)。

しかしながら、より後代の作家には「ヘブライ語」をアラム語の意味で用いる者たちがいた。ギリシア語やラテン語では、アラム語は「シリア語」と呼ばれていた。こうした混乱した用法の例外は、ヒエロニュムスとエピファニオスである。ヘブライ語もアラム語も実際に学んだことのある両者は、当時のユダヤ人の言語状況についてある程度正確な知識を持っていた。しかしながら、彼らでさえアラム語のことを「ヘブライ語」と呼ぶことがある。それは第一に、単なる思い違いによるものであり、第二に、両言語が極めて近しい関係にあるためである。

ヒエロニュムスやエピファニオスはアラム語をヘブライ語のいちカテゴリーであると見なすることがあったが、それは次のような理由による。第一に、実際にはアラム語を話していようとも、「ヘブライ人」の言語は「ヘブライ語」と呼ばれるに相応しいと、彼らが考えたから。第二に、キリスト者の中には両言語の言語的な実際の関係性を感じていた(すなわち、アラム語を含むすべての言語は、原始の言語であるヘブライ語の子孫だと感じていた)から。そして第三に、文字が一緒だから(ただし、ヘブライ語がアラム文字を借用しているのではなく、エズラが新たに文字を発明したと考える。)、である。

教父文学におけるヘブライ語論。教父たちは、ヘブライ語について、人類の最初の言語でありユダヤ人の言語であることゆえに特別視はしていたが、それはラビたちが言うような「聖なる言語」という考え方とは異なっていた。オリゲネスは、神はすべての民の神として、すべての言語での祈りを受け入れると述べている。「ヘブライ的真理」という言葉を用いたヒエロニュムスはヘブライ語を神聖視しているように見えるが、実際には「カルデア的真理」や「ギリシア的真理」という言葉も用いていることから、ことさらヘブライ語を神聖視しているわけではないことが分かる。教父たちがヘブライ語を神聖視しないまでも特別視するのは、第一に、それが人類の最初の言語だから、そして第二に、それが古い契約の民であるユダヤ人の言語だからである。

教父文学におけるアラム語論。教父たちは、アラム語をヘブライ語のいちカテゴリーと考える。これは、ヘブライ語に比べてアラム語を軽視するラビたちとは対照的である。しかし、教父たちにとってアラム語はヘブライ語と同じような聖書言語ではない。そもそも教父たちの中には聖書の一部がアラム語で書かれているという事実すら知らない。例外的に詳しい知識を持つヒエロニュムスは、トビト記やユディト記を訳す際に、ユダヤ人教師にアラム語からヘブライ語に訳してもらい、それを自分でラテン語に訳した。つまり原典に基づく翻訳を重視していたにもかかわらず、これらの書物は重訳したわけだが、それは問題視していない。またエズラ記とダニエル書に関しては、アラム語だけでなくヘブライ語部分もあることから、他の書物と同じようにヘブライ語の書物と見なしている。