- Hillel I. Newman, "Between Jerusalem and Bethlehem: Jerome and the Holy Place of Palestine," in Sanctity of Time and Space in Tradition and Modernity, ed. A. Houtman, M.J.H.M. Poorthuis, and J. Schwartz (Jewish and Christian Perspectives Series 1; Leiden: Brill, 1998), 215-27.
Sanctity of Time and Space in Tradition and Modernity (Jewish and Christian Perspectives Series, V. 1)
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教父による聖地巡礼への否定的評価の代表例が、ニュッサのグレゴリオス『書簡2』とヒエロニュムス『書簡58』である。グレゴリオスは、キリスト者は聖地巡礼の義務がないこと、エルサレムまでの道のりが危険なこと、聖地と呼ばれながら多くの罪にまみれていることなどを挙げ、本当の巡礼は聖地の重要性を霊的に内面化することだと主張した。
ヒエロニュムスは、395年に書いたノラのパウリヌス宛の『書簡58』の中で、エルサレムに来たことがあるだけでは意味がないこと、神の力には地理的な制限がないのだからむしろ天のエルサレムを探求するべきこと、神の国は信者の中に宿るのだからエルサレムであろうがイギリスであろうが変わりないこと、多くの聖者はエルサレムを訪れたことがないこと、現在のエルサレムは異教に汚染されていることなどに言及している。
ヒエロニュムスは実際にはエルサレムに聖地巡礼し、ベツレヘムに住んでいるのだから、こうした批判は直ちに自分に帰ってくるはずだが、それについては不問に付している。しかしながら、『書簡58』以外では、ヒエロニュムスは聖地巡礼や聖地そのものを賞賛している(『書簡5』1、『書簡22』30、『書簡45』2)。
中でも彼の聖地巡礼に対する見解の代表例が、『書簡46』(386年)である。これはパウラとエウストキウムによって書かれた体になっているが、実際にはヒエロニュムスの筆によるものである。聖地における聖書の奇跡や、そこで暮らす修道者たちの平和な生活、諍いや争いがないことなどを例に、ローマのマルケラに聖地に来るように促している。その後『書簡47』(393年)でも、『書簡53』(394年)でも、ヒエロニュムスは友人にベツレヘムに来るように誘っている。ところが、先に見たように、その数年後の395年の『書簡58』では一転して聖地巡礼に批判的な態度を取るわけである。しかし、そのあとはまた聖地巡礼を友人に勧めたり、肯定的に説明している(『書簡68』、『書簡71』、『書簡108』、『書簡122』、『書簡139』)。
ヒエロニュムスは、395年に書いたノラのパウリヌス宛の『書簡58』の中で、エルサレムに来たことがあるだけでは意味がないこと、神の力には地理的な制限がないのだからむしろ天のエルサレムを探求するべきこと、神の国は信者の中に宿るのだからエルサレムであろうがイギリスであろうが変わりないこと、多くの聖者はエルサレムを訪れたことがないこと、現在のエルサレムは異教に汚染されていることなどに言及している。
ヒエロニュムスは実際にはエルサレムに聖地巡礼し、ベツレヘムに住んでいるのだから、こうした批判は直ちに自分に帰ってくるはずだが、それについては不問に付している。しかしながら、『書簡58』以外では、ヒエロニュムスは聖地巡礼や聖地そのものを賞賛している(『書簡5』1、『書簡22』30、『書簡45』2)。
中でも彼の聖地巡礼に対する見解の代表例が、『書簡46』(386年)である。これはパウラとエウストキウムによって書かれた体になっているが、実際にはヒエロニュムスの筆によるものである。聖地における聖書の奇跡や、そこで暮らす修道者たちの平和な生活、諍いや争いがないことなどを例に、ローマのマルケラに聖地に来るように促している。その後『書簡47』(393年)でも、『書簡53』(394年)でも、ヒエロニュムスは友人にベツレヘムに来るように誘っている。ところが、先に見たように、その数年後の395年の『書簡58』では一転して聖地巡礼に批判的な態度を取るわけである。しかし、そのあとはまた聖地巡礼を友人に勧めたり、肯定的に説明している(『書簡68』、『書簡71』、『書簡108』、『書簡122』、『書簡139』)。
ヒエロニュムスは『書簡58』ではなぜ聖地巡礼を否定したのか。主たる理由は、F.M. AbelやF. Cavalleraらの言うように、「オリゲネス主義論争」の勃発ゆえであろう。論敵ルフィヌスのパートナーであるメラニアの親族であるパウリヌスが聖地に来たら、敵方に与することは明らかであるし、そもそもヒエロニュムスは論敵ヨアンネスに破門されていたので、パウリヌスを迎える準備ができなかったのである。
確かに主たる理由はオリゲネス主義論争だが、かといって『書簡58』でのヒエロニュムスの主張を過小評価することはミスリーディングである。『書簡64』でエルサレムをソドムと呼んでいるように、地上のエルサレムへの批判は他にも見られる。またマタ27:52-53の描写を天上のエルサレムと捉えることもあれば(『書簡46』)、そうではないと捉えることもある(『書簡60』)。『詩篇96への説教』では、おそらくエルサレムに住む聴衆に対し、対立する地上の聖地と霊的な聖地のうち、後者の優越を主張した。
論文著者は、こうしたヒエロニュムスの変節の理由を、オリゲネス主義論争以外にも挙げている。第一に、まさにエルサレムが「都市」であるがゆえに、それと修道生活が相容れなかったからである。エルサレムに限らず都市一般に対する修道的な敵意は昔から表れている(『書簡2』、『書簡43』、『書簡46』、『ヒラリオン伝』、『書簡125』、『詩篇91への説教』など)。
第二に、ユダヤ的終末待望論への反発である。ユダヤ人は終末において、神殿祭儀と共に地上のエルサレムが救済されると考えていたが、ヒエロニュムスはそれを批判し、霊的な救済を説く(『詩篇96への説教』、『書簡129』)。また彼に言わせれば、廃墟となったエルサレムを見ることこそがキリスト教的に正しい巡礼であるといいう。なぜならば、エルサレムが廃墟であるさまを見ることで、救済が地上の問題ではないことを理解できるからである(『詩篇86への説教』)。おそらくこうした議論は、エウセビオスやミレウムのオプタトスらから取ってきたものだろう。
ヒエロニュムスはそもそもエルサレムに住むことは望まなかったが、ではなぜベツレヘムに住んだのか。それは、『書簡58』で述べているように、ベツレヘムに住めば、都市を避けることと、聖地に近くあることを両立させることができるからである。ついでに言えば、ベツレヘムは砂漠に近いが、ヒエロニュムスのコスモポリタン的な社会的・知的な交わりを途絶えさせずにおけるほどには都市に近い。シリアの砂漠でアラム語の野蛮な響きに囲まれていたときとは異なり、ベツレヘムでは周囲に文化的な言語を話す者たちがいるのである。ベツレヘムは大都市でも、オリゲネス主義論争の中心地でも、ユダヤ人の終末待望の地でもない。
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