- E.C. Brooks, "The Translation Techniques of Rufinus of Aquileia (343-411)," in Studia Patristica 17, ed. Elizabeth A. Livingstone (Oxford: Pergamon Press, 1982), 357-64.
現代の研究者たち(Gruetzmacher, Hoppe, Bardenhewerら)は、ルフィヌスの翻訳の方法論が恣意的だと批判するのが常である。Kimmelはルフィヌスによるエウセビオス『教会史』の翻訳に見られる次のような点について批判している:
- 原典では直接話法になっているところを間接話法に変える(逆も)。
- 原典で、不快、不必要な反復、事実に反する、不適切だと考えるところを訳さない。
- 語の付加、説明、スタイルの優雅化、補足的な情報、明確化といった改変。
- 訳す必要がないと考えたところのパラフレーズ。
Koetschauも、オリゲネス『諸原理について』のルフィヌス訳には特にこうした点が見られるとして批判している。
しかしながら、古代におけるルフィヌス評価はこのようではなかった。ヒエロニュムスですら、ルフィヌスの翻訳技法については疑問視していなかった。彼が非難していた主として教義的な問題だったのである。他にもカッシオドルスやゲンナディウスらは、ルフィヌスの翻訳のエレガンスを称賛している。Gustave Bardyは、ルフィヌスを彼自身の言葉で検証すべきだと主張する。なぜなら、ルフィヌスは字義通りの翻訳を作ろうとしていたわけではなく、仮にそうしたところがあっても、それは彼の主たる関心事ではなかったからである。ルフィヌスの著者への共感と理解が重要である。Bardyにとってルフィヌスの仕事は翻訳というよりもパラフレーズに近いが、それはテクストの意味を伝えてくれる。
ルフィヌスの翻訳の目的は、ラテン語世界の人々に情報を提供することだった。読者は倫理的、修辞的、教義的、修道的な問題を議論するためにちょうどいいくらいの分かりやすい翻訳を求めていた。『ヒエロニュムス駁論』において、彼はヒエロニュムス自身の方法に従って、ギリシア語の意味をラテン語に与えるように翻訳したと述べている。つまり、原典をパラフレーズするような翻訳を強く望んでいたのである。
ルフィヌスは399年に、『クレメンスの手紙』、バシレイオスとナジアンゾスのグレゴリオスの説教、シクストゥスの著作、アダマンティオスの著作を皆訳したことになっているが、これらを本当にすべての一人で訳したのだろうか。正式なプロの翻訳家集団ではなくとも、ルフィヌスをサポートする修道者たちのグループなどがいたのではないだろうか。翻訳は財政的にも成功したはずである。またルフィヌスは句読点を用いたと考えられる。
論文著者は、『ヤコブに宛てたクレメンスの手紙』を例に、ルフィヌスの翻訳技法を14個指摘している(Monica Wagnerがルフィヌス訳のナジアンゾスのグレゴリオスの演説に基づいて分析したルフィヌスの翻訳技法と比較せよ。(1)考えが拡張されている。(2)ある語を訳すのに二つ以上の可能性を挙げる。(3)二語のフレーズを訳すときに、1つ目の語が2つ目の語の結果となるようにする。(4)異なった観点を持っている。(5)イメージを形作る。(6)不必要あるいは不適切な一節を削除する。(7)付加によって、ある言及を個人的なものに変える。(8)時間への言及を変更する。(9)冗長な接続詞の使用。(10)肯定を否定に変える。(11)テクストの修正。(12)テクストの保持。(13)オリゲネスのギリシア語の無愛想さを和らげる。(14)テクストを入念に変更する。
聖書の引用に関しては、細心の注意を払って正確に行っている。古ラテン語訳に従うときもあれば、自分で訳す場合もある。『諸原理について』における聖書引用については、オリゲネスのギリシア語本文から直接引用している。おそらくルフィヌスはラテン語訳聖書は一様であるという考えを持っていた。また聖書でない引用箇所に聖書の引用を当てはめることもあった。聖書箇所を暗示するよりは、直接引用することを好んだ。
オリゲネスのテクストは、ルフィヌスがそれを手に入れる以前にすでに改竄されていた。失われた部分があったり、省略されている箇所もあった。ルフィヌスは、写字生によってギリシア語テクストに入れられてしまった誤りに対処しなければならなかった。
ルフィヌスは文学的な天才ではなかったが、彼の人格の誠実さや勤勉さは称賛されるべきものであった。そして彼の仕事の重要さは言うまでもない。ウェルギリウス、ホラティウス、キケローからの影響を受けた彼のラテン語の優雅さは、ヒエロニュムスも渋々認めるところであった。さらに、ルフィヌスは歴史的および神学的な観点を持っていた。
ルフィヌスの翻訳の目的は、ラテン語世界の人々に情報を提供することだった。読者は倫理的、修辞的、教義的、修道的な問題を議論するためにちょうどいいくらいの分かりやすい翻訳を求めていた。『ヒエロニュムス駁論』において、彼はヒエロニュムス自身の方法に従って、ギリシア語の意味をラテン語に与えるように翻訳したと述べている。つまり、原典をパラフレーズするような翻訳を強く望んでいたのである。
ルフィヌスは399年に、『クレメンスの手紙』、バシレイオスとナジアンゾスのグレゴリオスの説教、シクストゥスの著作、アダマンティオスの著作を皆訳したことになっているが、これらを本当にすべての一人で訳したのだろうか。正式なプロの翻訳家集団ではなくとも、ルフィヌスをサポートする修道者たちのグループなどがいたのではないだろうか。翻訳は財政的にも成功したはずである。またルフィヌスは句読点を用いたと考えられる。
論文著者は、『ヤコブに宛てたクレメンスの手紙』を例に、ルフィヌスの翻訳技法を14個指摘している(Monica Wagnerがルフィヌス訳のナジアンゾスのグレゴリオスの演説に基づいて分析したルフィヌスの翻訳技法と比較せよ。(1)考えが拡張されている。(2)ある語を訳すのに二つ以上の可能性を挙げる。(3)二語のフレーズを訳すときに、1つ目の語が2つ目の語の結果となるようにする。(4)異なった観点を持っている。(5)イメージを形作る。(6)不必要あるいは不適切な一節を削除する。(7)付加によって、ある言及を個人的なものに変える。(8)時間への言及を変更する。(9)冗長な接続詞の使用。(10)肯定を否定に変える。(11)テクストの修正。(12)テクストの保持。(13)オリゲネスのギリシア語の無愛想さを和らげる。(14)テクストを入念に変更する。
聖書の引用に関しては、細心の注意を払って正確に行っている。古ラテン語訳に従うときもあれば、自分で訳す場合もある。『諸原理について』における聖書引用については、オリゲネスのギリシア語本文から直接引用している。おそらくルフィヌスはラテン語訳聖書は一様であるという考えを持っていた。また聖書でない引用箇所に聖書の引用を当てはめることもあった。聖書箇所を暗示するよりは、直接引用することを好んだ。
オリゲネスのテクストは、ルフィヌスがそれを手に入れる以前にすでに改竄されていた。失われた部分があったり、省略されている箇所もあった。ルフィヌスは、写字生によってギリシア語テクストに入れられてしまった誤りに対処しなければならなかった。
ルフィヌスは文学的な天才ではなかったが、彼の人格の誠実さや勤勉さは称賛されるべきものであった。そして彼の仕事の重要さは言うまでもない。ウェルギリウス、ホラティウス、キケローからの影響を受けた彼のラテン語の優雅さは、ヒエロニュムスも渋々認めるところであった。さらに、ルフィヌスは歴史的および神学的な観点を持っていた。
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