- Rodney Aist, "St Jerome's Images of Jerusalem, Bethlehem and the Mount of Olives: A Critical Investigation of Epistula 108," Holy Land Studies 4 (2005): 41-54.
メラニアとルフィヌスは370年代からオリーブ山で修道院を営んでいた。386年にはヒエロニュムスとパウラがベツレヘムで修道院を始めた。4人とも知り合いだったので、ヒエロニュムスたちがパレスチナにやってきたときには旧交を温めるような会談があったと思われるが、オリゲネス主義論争によって両陣営は敵対する。404年のパウラの死後、ヒエロニュムスは『書簡108』を著して彼女の死を悼んだが、その中で385年に聖地を旅したことに触れている。注目すべきは、エルサレム、ベツレヘム、オリーブ山についての記述で、特にオリーブ山の説明には歪曲が見られる。本論文はその理由を、ルフィヌスとメラニアとの関係の悪化からの影響だと主張している。
『書簡108』は、ヒエロニュムスが唯一本当に愛情を感じていたと思われるパウラの死を悼むもので、丸二晩の口述によって著されたという。この中での聖地巡礼の場面にヒエロニュムス自身は登場しないが、おそらく実体験を書いているものと思われる。ただし、この書簡が書かれたのは実際の巡礼から20年も経ってからなので、その後得た知識も反映している可能性には注意を払う必要がある。とはいえ、一旦住み着いてからのヒエロニュムスはほとんど巡礼らしいことはしていない。
エルサレムにおいて、パウラはさまざまな場所を訪れたはずだが、『書簡108』では、イエスが十字架に架けられたところ、復活した墓所、シオンの古代の砦にしか触れていない。パウラは聖書の出来事を想像しながら、狂信的なといってもいいほどの情熱をもってエルサレム各地を巡礼した。ヒエロニュムスのエルサレム描写は、町全体が聖なるものというより、個々の聖なる場所からなる町というイメージになっている。町自体に聖性が宿るとは考えていないようである。また他の巡礼記と比べると、聖なる場所への言及が少ない。またオリーブ山がエルサレムから切り離されていることも特徴的である。
ベツレヘムは、ヒエロニュムスが特にお気に入りの場所であり、多くの言葉が費やされている。パウラはベツレヘムで幻を見たようである。それは、マタイとルカによるイエス聖誕の合成であり、ベツレヘムを見下ろせるような場所からの記述であり、また聖書の記述における時間の流れを濃縮したものであった。ヒエロニュムスはベツレヘムが出てくる聖書箇所を数多く引いて、モザイクのように組み合わせている。ただし、そのチョイスは多くの場合、オリゲネスとエウセビオスからの影響を強く受けている。ベツレヘムに関する記述は、聖書的ヴィジョン、聖書引用、そしてパウラとヒエロニュムスの個人的な敬虔さに溢れている。
オリーブ山は、パウラが一度パレスチナ南部を巡礼した帰りの道行きで登場する。つまり、エルサレムの記述とは分離している。しかし、最初にエルサレムを巡礼したときにオリーブ山に行かなかったとは考えがたい。南からオリーブ山に近づくことで、エルサレムよりもテコアとの関連が強調されている。キリスト者はオリーブ山に対し、肯定的な見方と否定的な見方をしていた。なぜなら、新約聖書中のオリーブ山のシーンには、差し迫った磔刑へのダーク・ドラマと勝利の昇天とが共に描かれているからである。しかし、4世紀までには年毎のエルサレムでの礼拝にオリーブ山も組み込まれていた。ヒエロニュムスは、民19:1やエゼ11:23などに出てくるオリーブ山については論じているが、共感福音書中のイエスの黙示的な記述やゲッセマネの挿話などについては触れていない。オリーブ山に関する記述ではヒエロニュムスが一人称で語っている部分もあり、そこは実際の巡礼というよりは聖地のヴィジュアル・ツアーといった呈をなしている。
『書簡108』はヒエロニュムスとパウラのベツレヘムへの深い愛情を表現している。エルサレムについてもそのユニークな地位を認めている。一方で、オリーブ山は地理的・聖書解釈的な歪みを持っており、エルサレムからも分離して描かれている。論文著者によれば、ルフィヌスやメラニアに対するヒエロニュムスの喧嘩が、彼のオリーブ山理解に影響しているという。
『書簡108』はヒエロニュムスとパウラのベツレヘムへの深い愛情を表現している。エルサレムについてもそのユニークな地位を認めている。一方で、オリーブ山は地理的・聖書解釈的な歪みを持っており、エルサレムからも分離して描かれている。論文著者によれば、ルフィヌスやメラニアに対するヒエロニュムスの喧嘩が、彼のオリーブ山理解に影響しているという。
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