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2019年1月10日木曜日

ヒエロニュムスの翻訳 Fürst, "Prinzipien und Praxis des Übersetzens"

  • Alfons Fürst, Hieronymus: Askese und Wissenschaft in der Spätantike (2nd ed.; Freiburg: Herder, 2016), 83-95.

Hieronymus: Askese und Wissenschaft in der Spaetantike
Alfons Fuerst
Herder Verlag GmbH
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4世紀後半になると、ローマ帝国が政治的・文化的に東西に分裂をし始めたために、ギリシア文学のラテン語訳の需要が高まった。アウグスティヌスがヒエロニュムスにギリシア語の聖書解釈書の翻訳を依頼したのは、まさにそうした時代のことであった。ヒエロニュムスはこうした要求に応えていったのである。

ヒエロニュムスの最初の翻訳は、380年にコンスタンティノポリスで作成したエウセビオス『年代記』のラテン語訳である。これは聖書の名前リストとアブラハム以後の出来事について簡潔にコメントしたものである。ヒエロニュムスが訳さなかった第一部はアルメニア語訳のみで伝わる。このような「歴史モノ」には、ヒエロニュムスは基本的に関心を示さない。事実、予告された同時代史もついに書かれなかった。ではなぜこれを訳したのかというと、単に翻訳するのではなく、改訂しようとしたからである。エウセビオスはトロイア征服(前1182年)からコンスタンティヌス帝の治世(326年)までをカバーしたが、ヒエロニュムスはこれにローマ史と327-378年までの歴史を付け加え、西方キリスト教世界に初めての世界史の年代便覧を与えたのだった。この翻訳は、第一に、当時の三位一体論争におけるアレイオス主義への抵抗運動と、第二に、初期修道制のプロパガンダという側面も持っていた。

釈義や修道制に関する翻訳としては、380/81年のオリゲネス『エレミヤ書説教』、『エゼキエル書説教』、『イザヤ書説教』、383/83年の『雅歌説教』、387年のディデュモス『聖霊について』、392年のオリゲネス『ルカ福音書説教』、387-390/92年の『ヘブライ人福音書』(アラム語写本を370年代にナザレで入手し、ギリシア語とラテン語に訳した)、404年のパコミオスの『規則』と11書簡集などがある。他に、389/91年の『ヘブライ語の名前について』と『ヘブライ語の地名について』があるが、前者はギリシア語の名前辞典の翻訳であり、後者はエウセビオスの翻案である。『地名』の方は、ヒエロニュムス以前にも翻訳が存在したようである。

オリゲネス神学の正統信仰に関する議論の翻訳としては、ギリシア教父の書簡の翻訳がある。エピファニオス(書簡51、91)、テオフィロス(書簡87、89、92)、リダのディオニュシオス(テオフィロス宛書簡94)などである。テオフィロスがヨアンネス・クリュソストモスを誹謗する文書も訳したが、これは『イザヤの幻視に関するオリゲネス駁論』(書簡113参照)に断片が残るのみである。しかし、この分野で最も重要なのは、オリゲネス『諸原理について』の翻訳であろう。この翻訳は、現在ではヒエロニュムス自身の引用によって伝えられる(書簡124)。論文著者によれば、ヒエロニュムスの翻訳をギリシア語原典と比較すると、ごくわずかな誤りしか見られないという。彼の翻訳は正しいだけではなく、ラテン語としても魅力的なのである。そうした意味では、ヒエロニュムスは勤勉で有能な翻訳者であった。

聖書の翻訳は三段階に分かれている。第一段階では、ローマで福音書と詩篇を改訂した(383/84年)。この時期に、教皇ダマススは西方教会の典礼をラテン語化しようとしていたが、その一環でヒエロニュムスにこれらの文書の改訂を依頼したようである。第二段階では、ベツレヘムで『ヘクサプラ』版七十人訳を基礎として旧約聖書を改訂した。このときにはヨブ記、歴代誌、詩篇、ソロモンの文書(箴言、コヘレト書、雅歌)を改訂したことが知られているが、現存するのはヨブ記、雅歌、詩篇のみである。歴代誌とソロモンの書については序文が残るのみである。ヒエロニュムスは他の文書も改訂したが、彼の存命中にすでに大部分が失われたと報告している(アウグスティヌス宛書簡134.3)。

第三段階は直接ヘブライ語テクストからの翻訳である(390年以降)。順番は相対的にしか分からないが、論文著者によれば、サムエル記・列王記、預言書、ヨブ記、エズラ記、歴代誌、詩篇、五書、ヨシュア記、士師記、ルツ記、エステル記、ソロモンの書、トビト記・ユディト記であるという。ヒエロニュムスはトビト記をアラム語から訳したと述べるが、現存する2種類のギリシア語写本とも、クムランで発見されたアラム語断片とも異なる本文型である。ヒエロニュムスの力強いラテン語はヘブライ語やアラム語の訳として適している。個々の文書でスタイルは異なってはいるが、全体的に高度に文学的である。このラテン語訳を基にしたウルガータ聖書は、1546年にトリエント公会議で正典とされ、1979年に新ウルガータに替わるまで、カトリック教会の公用聖書であった。

翻訳論。ヒエロニュムスは翻訳に関する最初の論文を書いたが、その動機は実用的なものだった。彼はエピファニオスの手紙をあまりに意訳し、歪曲したとして非難を受けていた。それに対する反論である書簡57こそが、その論文に当たる。この中でヒエロニュムスは、一般的に翻訳は意味を重視すべきだが、語順も神秘である聖書は別だと述べている。

これだけを見ると翻訳者ヒエロニュムスは一貫した態度を取っているようだが、実際にはそうではなかった。そもそも書簡57も組織的な理論書ではなく、意訳の実例を豊富に挙げている。また別の書簡では、書簡57とは反対に、聖書以外の文書でも逐語訳が必要なときがあれば、聖書でも逐語訳が適さないときがあると述べている(『ダニエル書注解』3.9.24、書簡106.3, 29, 55, 57, 60)。聖書翻訳だけに限っても、エステル記は逐語的に、ユディト記は意味を重視し、ヨブ記はその両方に配慮したと述べている。また七十人訳に基づく改訂とヘブライ語テクストからの翻訳において、「我々の理解は一致している」(書簡112.19)と述べているが、これはヘブライ語とラテン語の言語構造からいってありえない。

文学スタイルに造詣の深いヒエロニュムスとしては、ヘブライ語聖書を正しく伝えるだけではなく、ラテン語としてエレガントに伝えたいと考えていた。それゆえに、書簡57で自ら設定したルールよりも、ラテン語のルールに拘ったのである。それと同時に、ヒエロニュムスの矛盾は、ルフィヌスとの論争における立場からも説明される。ルフィヌスの向こうを張るために、常にルフィヌスの立場とは逆を行かねばならなかったのである。そして結局は、翻訳者としての長い経験から、翻訳に一貫した理論など不可能だと悟ってもいたのだろう(「エウセビオス『年代記』序文」)。

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