- Matthew A. Kraus, Jewish, Christian, and Classical Exegetical Traditions in Jerome's Translation of the Book of Exodus: Translation Technique and the Vulgate (VCS 141; Leiden: Brill, 2017), 43-60.
Jewish, Christian, and Classical Exegetical Traditions in Jerome's Translation of the Book of Exodus: Translation Technique and the Vulgate (Supplements to Vigiliae Christianae)
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Matthew A. Kraus
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第2章"Translation Technique of the Vulgate"より。ヒエロニュムスのヘブライ語テクストのVorlageは、特に五書に関しては現在のマソラー本文と同じものだと見なされている(それゆえに、E. Tovによれば、ヘブライ語聖書の本文批評にはほとんど役に立たない)。ヒエロニュムスの翻訳技法を知るためには、テクストそのものと共に、翻訳に関する彼の発言(『書簡57』など)も参考にすることができる。
著者はヒエロニュムスの「意味(sensus)」という語の二段階の理解について分析している。ひとつのレベルは「文献学的な(philological)意味」で、語彙論、形態論、スタイルを統合したものである。これは語彙論と形態論だけに着目する「言葉(verbum)」と対になっている。もうひとつのレベルは「霊的な(spiritual)意味」で、宗教的な文脈における理解のことである。文献学的な意味が翻訳において優勢であるのに対し、霊的な意味は注解においてより中心的な役割を演じている。Pierre Jayによれば、注解においてヒエロニュムスは、聖書の字義的な意味を「ヘブライ的真理」に、そして霊的な意味を七十人訳に結び付けることもあれば、逆に霊的な意味をヘブライ語テクストに、そして字義的な意味を七十人訳に結びつけることもあるという。
『書簡57』には、聖書以外は意訳、聖書だけは逐語訳という原則を書いた箇所があるが、ヒエロニュムスは実際にはこれを無視しており、それどころか書簡の後半では矛盾したことすら述べている。これは、この書簡を書いたのが聖書翻訳の初期のことであり、実際に翻訳が進んでからはフレキシブルになったからと考えられる。またそもそもヒエロニュムス自身が意訳を好む性質だったために、最終的にはこの原則を覆したとも考えられる。
古典文学を引きながらヒエロニュムスが述べているところでは、たとえばキケローは、自身の言語の特徴(proprietas)を通じて、外国語の特徴を明らかにしようとして、省略したり付加したりしたという。というのも、原文のエレガントなスタイルを再現できていない翻訳は、原文の著者が文学的素養を欠いているという誤った印象を与えてしまうのである。それゆえに、「文献学的な意味」が必要なのである。
新約聖書には旧約聖書からの非逐語訳的な訳があるが、著者によると、このことはヒエロニュムスの「意味」の理解を複雑化すると共に明らかにもしているという。さまざまな具体例から、ヒエロニュムスは福音書記者やパウロは聖書を意訳したと結論付けた。それどころか、彼は逐語訳をしているアクィラを悪い例として出してもいるので、『書簡57』における原則(「聖書は逐語訳すべき」)と矛盾しているわけである。著者は、福音書記者らは翻訳において「霊的な意味」を得たのであり、アクィラは「文献学的な意味」への注意を引こうとしたのだと説明している。
このように、ヒエロニュムスの翻訳技法の分析とは彼の意訳へのコミットメントを認めるところから始まる。ウルガータの五書は、古ラテン語訳や、彼が訳した他の聖書文書よりは自由だとされている。ヘブライズムはヒエロニュムスの逐語訳者としてのテクニックを示すが、語源学的な訳し方や釈義的な訳し方、ギリシア語Vorlageの使用、またラテン語の語法に沿う傾向は、彼の自由訳者としてのテクニックを示す。
著者は、ヒエロニュムスの翻訳に三つの方法論があると考えている。第一に、ヘブライ語テクストのみを直接的に考慮している場合、第二に、七十人訳など他の伝承を参照している場合、そして第三に、釈義的な伝承に関わっている場合である。つまり、彼の翻訳がヘブライ語と一致しないときに、すぐにそれは釈義的な伝承の影響と考えるのではなく、まずは七十人訳、古ラテン語訳、アクィラ、シュンマコス、テオドティオンを用いた可能性を考慮するのである。そしてもしヘブライ語ともこれらの版とも大幅に異なる場合に、初めて釈義的伝承を考慮するのである。しかもそれは、ユダヤ的、古典文学的、そしてキリスト教的な伝承すべてを考慮する必要がある。
ウルガータの出エジプト記の翻訳技法は、逐語訳者を志向してはいるかもしれないが、それは「逐語訳」という言葉の定義に相当の自由度を認めた上でのことであった。翻訳はときにヘブライ的、ギリシア的、古典文学的、キリスト教ラテン的でもあり得た。これをBenjamin Kedar-Kopfsteinのように「一貫していない」とか「矛盾している」とか評価することもできよう。しかしながら、非一貫性とは翻訳の本質である。翻訳とは本性上、同一性や一貫性に基づいた評価に逆らうような文化間あるいは文化内の現象である。
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