- Matthew A. Kraus, Jewish, Christian, and Classical Exegetical Traditions in Jerome's Translation of the Book of Exodus: Translation Technique and the Vulgate (VCS 141; Leiden: Brill, 2017), 15-42.
Jewish, Christian, and Classical Exegetical Traditions in Jerome's Translation of the Book of Exodus: Translation Technique and the Vulgate (Supplements to Vigiliae Christianae)
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Matthew A. Kraus
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第1章"Recentiores-Rabbinic Philology and Vg Exodus"より。ヒエロニュムスは、一方では、ヘブライ語に基づく翻訳のために七十人訳を拒絶したという異端的な批判から身を守る必要があり、他方では、ヘブライ語とユダヤ伝承を不十分にしか理解していないという批判に反論する必要があった。彼が『創世記におけるヘブライ語研究』と聖書の翻訳において用いた方法論は、Adam Kamesarによって「改訂者的・ラビ的文献学(recentiores-rabbinic philology)」と呼ばれている。すなわち、アクィラら改訂者たちとの緊密な関係性のもとでラビ的なソースを用いることで、ヘブライ語テクストの理解に至るという方法論である。
ヒエロニュムスのユダヤ伝承への通暁は明らかだが、2つの問題点がある。第一に、彼はいくらかラビ文献を見たことがあるかもしれないが、その量は個人的なそのときどきのものにすぎない。つまり、ある箇所について特定のラビ的解釈に触れただけであって、全体ではない。それゆえに、ヒエロニュムスが持っている伝承が、たとえば『メヒルタ』やタルグムにあったとしても、彼がそれらを直接読んだかどうかは分からないのである。むしろユダヤ人教師から聞いたものである可能性が高い。第二に、ユダヤ伝承そのものの年代決定が難しい。なぜなら現存するものは、後代になってからまとめられたからである。
ヒエロニュムスのヘブライ語能力は、昨今ではある程度認められている。そもそもこれを否定する言説は、Gustave BardyとPierre Nautinが嚆矢である。彼らは、ヒエロニュムスのユダヤ伝承はオリゲネス由来だと述べたのである。確かに、ヒエロニュムスはヘブライ語教育を受けたと主張しており、実際多くの言及があるが、そこには誤りがあったり、改訂者たちやオリゲネスからのコピーと思われるものがあったりする。しかしながら、著者は、わずかな誤りよりも多くの正しい言及がヒエロニュムスのヘブライ語能力を証明していると述べる。そもそもヘブライ語の誤りが直ちにヘブライ語能力の欠如を示すわけではない。高度な誤りはむしろヘブライ語への習熟を教えてくれる。また彼のヘブライ語能力の発露には、段階や機会の違いが反映することもある。
著者は何人かの研究をまとめている。Megan H. Williamsは、ヒエロニュムスが自己成型(self-fashioning)のために修道制と聖書釈義を統合したと主張する。また彼がユダヤ人やユダヤ教を否定的に描いている一方で、ユダヤ伝承を肯定的に用いているのはなぜか、という問いについて、Williamsは次のように答える。ユダヤ人を否定的に描くのは、修道者としての自己成型のプロセスによるものである。つまり、ヒエロニュムスのユダヤ人との交流を彼自身がどう説明しているかという論点と、実際のテクスト上の平行箇所は、別物として研究しなければならないのである。ヒエロニュムスのユダヤ伝承の利用と彼のユダヤ人描写は、ユダヤ文化とラテン世界のキリスト教との間に架け橋ではなく壁を作ってしまったと言える。彼の翻訳も、その作成過程ではキリスト教とユダヤ教の境界線を超えるものだったが、出来上がったものはその境界線の間の壁となってしまった。
Andrew Cainは、ヒエロニュムスの書簡から、彼の生涯に関する情報というよりは彼のアイデンティティの形成について検証した。Hillel Newmanは、ユダヤ人やユダヤ文学に関する数多くの言及を検証して、古代末期のユダヤ教の実像を明らかにした。Alfons Fürstによれば、こうした昨今のヒエロニュムス研究のトレンドは、「彼の著作が客観的なゴールのみならず、著者の自己成型的かつ散漫な解釈を知ることに資する」のだという。これは、ヒエロニュムスが『エレミヤ書注解』の中でローマ略奪にどのように反応したかを分析したPhilip Rousseauの研究などにも見られる傾向である。
著者が否定的に紹介しているのがJohn Cameronの"The Rabbinic Vulgate?"である。この中でCameronは、ヒエロニュムスが教会の旧約聖書をラビ聖書と取り替えようとしたという(G. Bardyからの影響を受けた)Dominique Barthélemyの主張を覆そうとしている。そのためにCameronは、そもそもヒエロニュムスの聖書はラビ聖書と呼ぶにはラビ的解釈に乏しいのだから、ラビ的釈義ではなく文献学的な翻訳なのだと主張する。これに対し著者は、ヒエロニュムスの聖書がラビ聖書だと言いたいわけではなく、Cameronがヘブライ語テクストに基づく翻訳とラビ聖書とを混同していることを問題視している。そもそもヒエロニュムスの「ヘブライ的真理に従った」という表現は、ラビ的・ユダヤ的翻訳を指すのではなく、ヘブライ語伝統からの文献学的正確さに基づく、キリスト教徒のための翻訳を指している(その注解もミドラッシュではない)。また釈義(exegesis)と文献学(philology)二項対立となるものではなく、古典の文法学で釈義は文献学の一部である。それゆえに、Cameronが「科学的」と呼ぶ文献学的方法論には釈義も入っていなければならないはずである。つまりCameronは、ヒエロニュムスが言ってもいないこと(「自分の聖書翻訳はラビ的釈義だ」)を否定しているだけといえる。それにCameronがこうした主張をするために詩篇に関するヒエロニュムスの見解しか考察していないのも問題である。なぜなら詩篇と翻訳と五書の翻訳ではユダヤ伝承を使う量が明らかに異なっているからである(それは詩篇を扱った『書簡106』と創世記を扱った『ヘブライ語研究』の比較からも見て取ることができる)。
これまでのウルガータ研究のアプローチは、Georg Grützmacherのそれに従ってきた。すなわち、ヘブライ語テクストから翻訳した理由を分類し、翻訳の特徴を定義し、ヒエロニュムスの能力を評価し、その方法論の原則を定義しようとするのである。Grützmacher自身はこうした検証の結果、ヒエロニュムスの翻訳には、アウグスティヌスのような創造的な精神は見られないと主張した。現在の研究ではウルガータの翻訳としての良し悪しを評価することはあまりないが、基本的にはGrützmacherの姿勢を踏襲している(H.F.D. Sparks, Dennis Brown, Eva Schulz-Flügel)。こうした研究は多くの場合わずかな一節や特定の文書の翻訳の分析に終始する(創世記についてFelix Reuschenbach、サムエル記についてVictor Apotowitzer、箴言についてCyrus Gordon、詩篇についてColette Estin, David Paul McCarthy, John Cameron、ルツ記についてRafael Jiménez Zamudio、ダニエル書についてRégis Courtray、エズラ記についてDieter Böhler、トビト記についてVincent T.M. Skemp)。
まだ誰も彼のソース、方法論、翻訳の性格を古代末期の文脈に位置づけて総合的に研究した者はいない。Benjamin Kedar-Kopfsteinは、ヒエロニュムスの翻訳からユダヤ伝承を見つけ出したが、そのうちのいくつかは説得的でない。特に、しばいばギリシア語訳がすでに持っているユダヤ伝承からの影響を見落としている。Neil Adkinは、ラテン古典文学からの影響を検証したが、これも最高の余地がある。著者はこれらの試みを否定しているわけではない。脱文脈化されたフレーズや孤立した問題ではなく、より全体論的かつ十全なアプローチが必要だと考えているのである。
そこで著者はウルガータの出エジプト記を対象とする。出エジプト記は物語、法、詩歌を含み、最も成熟した翻訳の一つでもあるからである。著者は問う。ウルガータの出エジプト記は「改訂者的・ラビ的文献学」を翻訳技法として用いているのだろうか。
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