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2019年1月5日土曜日

オリゲネス『エレミヤ書説教』の諸問題 Nautin, "Introduction: Chapitre 1: Histoire de texte" #3

  • Pierre Nautin (ed. and trans.), Origène: Homélies sur Jérémie (Sources Chrétiennes 232; Paris: Cerf, 1976), 1:46-99.


タイトルと説教番号(コロフォン)。オリゲネス『エレミヤ書説教』の説教14と説教15の順番は問題があり、もともとは15の方が先だった。S写本(Scorialensis)は『エレミヤ書説教』全体のタイトルはなく、篇ごとについていた。それぞれのタイトルのあとに説教番号がくる。ヒエロニュムスのラテン語訳でも篇ごとにタイトルがあるので、この翻訳が古い時代の写本を基にしたものであることが分かるが、こちらには説教番号はついていない。ここから説教番号は後代のものであり、ヒエロニュムスのタイトルが古い形を保存していることが分かる。さらに、説教が一冊にまとめられたあとに番号を振る必要はないので、番号がついたのはまだ説教が分かれていたときのことだと言える。おそらく書物のかたちではなく巻物だったと思われる。

説教番号抜きのタイトルは、『ルカ福音書説教』や『イザヤ書説教』にもある。このタイトルはオリゲネス本人の時代にさかのぼるものなのか、かなり後代のものなのか。説教3のタイトルから、本人の時代にさかのぼるものと考えられる。説教3のタイトルは、聖書の一続きの一節でありながら、奇妙なことに途中に「~まで」という語が入っている。論文著者は、このことから、このタイトルはもともとは別の箇所を指していたはずと考える。本来もっと広い範囲をカバーする説教だったが、説教自体の後半部分が失われたため、それに合わせてタイトルも変更されたのである。それゆえに、論文著者は、本来のタイトルはもっと古い時代のものだと考えた。

テクスト伝承。第一に、速記者が説教テクストを手に入れたあと、それぞれの説教はタイトルを付され、別々の巻物に書き写された。これらの巻物が普及した後に、説教集として合冊版が作成された。

第二に、ヒエロニュムスの翻訳の底本、S写本、カテーナの三者は共通の誤りを含んでいることから、同じ祖形テクストαに依拠していたと考えられる。この古い祖形テクストは、オリゲネス著作普及の中心地であるカイサリアにあり、パンフィロスとエウセビオスが見つけたテクストをひとつにしたものである。パンフィロスの図書館にあった『エレミヤ書説教』の写本は説教番号を含んでいないもので、『オリゲネス擁護』の中で引用されている。

第三に、ヒエロニュムスの翻訳はαから直接作成されたものではない。なぜなら、彼はまだこのときカイサリアに行ったことがないからである。彼はアンティオキアで祖形テクストのコピーを手に入れた。

第四に、S写本は祖形テクストに由来するが、3つの中継を経ている。まずβである。これは説教番号が振られた分冊で、説教14と15の順番を間違えている。次にγである。これはエウゾイオスがカイサリア図書館の巻物を書物に書き換える改革をしたとき(366-379年)に作成された。最後にδである。これは破損が甚だしい。

第五に、『フィロカリア』を作成したナジアンゾスのグレゴリオスとカイサリアのバシレイオスは、番号つきの写本であるβかγに依拠した。『フィロカリア』はグレゴリオスが若い頃にカイサリアにいたときに入手した抜粋なので、βである可能性が高い。

第六に、カテーナは明らかにαと似たテクストを持っているが、5世紀以降の成立なので、大多数は直接αに依拠しているのではなく、γを介していると考えられる。

出版の歴史。1623年、ローマのクイリナーレ丘のサン・シルベストロ教会の聖職者であったMichael Ghisleriは3巻本のエレミヤ書注解を出版したが、その中でオリゲネスの『エレミヤ書説教』の版とラテン語訳を作成した。これはV写本とカテーナに基づく校訂版であるが、ヒエロニュムスのラテン語訳にない箇所に留まる。

1648年、イエズス会士Balthasar CordierはS写本の存在に気づいたが、オリゲネスではなくアレクサンドリアのキュリロスの著作だと考えた。当然、ヒエロニュムスの翻訳と比較することもなかった。彼の版は最初の完全版だが、写本をわずか3週間で筆写したために、誤りを多く含んでいる。

1668年、アヴランシュ司教のHuetは、オリゲネスの聖書関連著作の版を作成する際にこの説教を含めたが、写本ではなくGhisleriとCordierの版に依拠した。

1740年、Delarue(叔父と甥)たちはオリゲネスの全著作集を作成したが、『エレミヤ書説教』については、大部分Huetの版に依拠した。しかしながら、彼らは段落番号を付したり、Ghisleriからカテーナに由来する断片の選集を採録したりもした。

1831-1848年にはC.H. Lommatzschが、1857年にはMigneがオリゲネスの著作集を作成した。彼らはDelarue版に依拠した。

ここから分かるように、20世紀以前の版は、基本的にGhisleriの用いたV写本とCordierの用いたS写本(といっても正確でないテクスト)に基づいている。

1901年、Erich KlostermannがGCS第6巻として、批判的校訂版を出版した。これは直接・間接を問わない大々的なテクスト調査に基づくものであり、その調査の結果も1897年に研究書として出版されている。ただし、Klostermannはギリシア語写本に集中的に取り組むだけで、ヒエロニュムスのラテン語訳やカテーナとの照合はしなかった。脚注では、聖書引用や他のオリゲネス著作との並行箇所が示されている。Klostermann版は長い間必携であったが、いくつかの文章は解決策もなく損なわれた状態のままになっているので、改善が期待される。

Nautinの版。SCに収められた本校訂版は、Klostermann版を基礎としている。S写本を完璧に校合したわけではないが、疑わしい点については十分な調査を行った。Nautinは、大部分で、Klostermannの見解に反して写本のテクストを維持した。Klostermannの過ちは3つある。

第一に、Klostermannはヒエロニュムスの翻訳を信頼するあまり、かなりの付加をS写本につけている。ヒエロニュムスの付加のおかげで意味が取りやすくなることもあるが、彼自身の言葉を付け加えているときもあるので、用心が必要である。そこで、Nautinは次の2つのルールを設けた。第一に、ギリシア語テクストがそれ自体で意味をなすかどうかを考慮すること。第二に、ヒエロニュムスのラテン語訳にある付加がギリシア語写本の写字生によって簡単に取り去られることが可能かどうかを考慮すること、である。

第二に、Klostermannはしばしばギリシア語写本の言葉を四角括弧に入れて取り除いてしまう。確かに、さまざまな理由でギリシア語写本に写字生の修正や付加が入ることはある。しかし、オリゲネスの文体がそもそも同じ語を文中で二度三度と繰り返すときもある。Klostermannは、そうした箇所が文法的に理解不能であるからという理由で、括弧に入れて、写字生の付加として扱ってしまう。しかし、Nautinによれば、一見理解不能な語も意味を成す場合があるかもしれないのだから、テクストを維持するべきだという。

第三に、Klostermannは正しいギリシア語文法に合わせてテクストを修正してしまう。正しくない表現でも、同じものがオリゲネスの別の著作や同時代の作品に見出されるのであれば、修正はするべきではない。

ヒエロニュムスの翻訳でのみ伝わる説教。説教ⅡとⅢはヒエロニュムスの翻訳でのみ伝わるが、実際には説教Ⅲが先でⅡがあとである。Nautinの版では、説教ⅢをL. I、説教ⅡをL. IIと表現でしている。

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