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2019年1月23日水曜日

ヒエロニュムスのラテン語訳について Klostermann, "Einleitung" #2

  • Erich Klostermann, Jeremiahomilien, Klageliederkommentar, Erklärung der Samuel- und Königsbücher (GCS 6 = Origenes Werke 3; Leipzig: J.C. Hinrichs'sche Buchhandlung, 1901), XVI-XXIII.


ヒエロニュムスがオリゲネスの『エレミヤ書説教』のうち14篇を翻訳したのは、380年頃コンスタンティノポリスにおいてである。14篇は、自分が気に入ったものを選んだのであろう。このラテン語訳は、たくさんの写本が普及している。まだ批判的校訂版はないが、CSELシリーズで出ることになっている(おそらくW.A. Baerensがオリゲネスの説教のラテン語訳のテクスト伝承に関して研究していたことを指すのだろうが、Baerensはヒエロニュムスのラテン語訳のみが残っている2篇を校訂しただけだった)。

ギリシア語テクストの多くの箇所はラテン語訳の助けなしには確実に直すことはできないし、一方でラテン語話者による正しい読みの確定はギリシア語写本の正しい知識なしにはできないので、最も適切なのは、両方の伝承が一人の編者によって研究され、一緒に校訂されることである。少なくとも、ヒエロニュムスのテクスト改訂ができるだけシンプルに作成されなければならない。

こうした状況で、Klostermannはcod. Colon. XXVIII(12世紀)とVallarsiのテクストを校合した上で、LG I, 394 f. 400とcod. Laudun. 299(9世紀)を比較した。他に参照できるテクストとしては、自分の『エレミヤ書注解』を書くためにオリゲネス説教のヒエロニュムスによるラテン語訳を借用したRabanus Maurusがある。一般的に、ラテン語訳の読みはより正しく、ギリシア語のオリジナル本文により正確に一致している。KlostermannとVioletらが第10説教のラテン語訳の諸写本をテスト的に校合したところ、概して互いに一致していた。ただし、こうしたテスト校合がたくさんの異読をもたらさないからといって、すべての写本のより完全な研究が別の結果に至らないとは限らない。いずれにせよ、ヒエロニュムスのテクストが本文批評における決定権を持っていることは確かである。

ヒエロニュムスの翻訳技法を徹底的に調べれば、その翻訳が本文批評においてどのような価値を持っているかが分かるだろう。彼の仕事は丹精込めたものだが、起点テクストに隷属的に文字通りなわけではない。読者の負担を減らすために、いたるところで、パラフレーズ、省略、挿入などと共に、表現を強め、誇張し、絵に色を塗り、難しいテクストをエレガントに隠すために、作法、虚栄心、細部への拘りといった付加を足している。これらヒエロニュムスによる工夫はヨーロッパ世界の教会に対して大きな貢献であったが、オリゲネスのテクストの編者にとっては隷属的に文字通りの翻訳をしているところだけが価値を持っている。ヒエロニュムスの翻訳には、直接的な誤りはさほど多くないし、ルフィヌスが批判したような独断的な変更も確実なものはどこにもない。そうした意味では、多くの点でS写本よりもよい読みを提供している。S写本とヒエロニュムスのラテン語訳(H)を比較すると、両者がひとつのVorlageを持っていたと考えるよりも、同時に作成された速記原稿から2つの異なる伝承を導きたくなる。

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