ページ

2019年1月31日木曜日

ルフィヌスによるオリゲネス『ロマ書注解』のラテン語訳について Scheck, "Introduction"

  • Thomas P. Scheck, Origen: Commentary on the Epistle to the Romans, Books 1-5 (The Fathers of the Church 103; Washington, D.C.: The Catholic University of America Press, 2001), 10-19.


ヒエロニュムスは、アンブロシウス、ヨアンネス・クリュソストモスと共に、ルフィヌスをけなしたが、その評価はあまり当てにならない。古代においてすでに、パラディウス、ゲンナディウス、ヨアンネス・カッシアヌス、カッシオドルスらはルフィヌスを極めて肯定的に評価している。

オリゲネス『ロマ書注解』のラテン語訳は、ルフィヌスがアクイレイアかローマにいた406/7年に作成された。この翻訳に着手する前に、すでに『諸原理について』、『詩篇説教』、『創世記説教』、『出エジプト記説教』、『レビ記説教』、『ヨシュア記説教』、『士師記説教』の翻訳は完了していた。ルフィヌスに翻訳を依頼したのはヘラクリウスという人物である。彼は翻訳だけでなく、分量を半分になるように省略することも依頼していた。現存するギリシア語断片とルフィヌスの翻訳がときに一致しないのは、この省略ゆえのことであろう。それゆえに、両者の不一致をもって、翻訳者としてのルフィヌスの信頼性を疑問視することはできない。

序文においてルフィヌスは、オリゲネスの本文が「改竄/中断」されていると不満をもらしている。これは異端者たちが意図的に改竄したということか、それとも単純に写本が失われたためにテクストの継続性が中断したということか。後者の場合、ルフィヌスはその「中断」を埋めるために、オリゲネスの他の著作から失われた部分を埋めることになる。一方で、意図的な改竄という説も否定しきれない。

B.F. Westcottによると、ルフィヌスは『ロマ書注解』の翻訳において、聖書引用のレンマ部分では、自分でラテン語訳を作成せず、古ラテン語訳をそのまま使っているという。Hammond Bammelは、オリゲネスのもともとのテクストではレンマは省略されていたためにそうなったと説明している。確かに、こうすることで翻訳者は労力を抑えることができ、また古ラテン語訳に親しんでいる読者にも親切である。しかし、注解の中身で聖書が引用されているところでは、オリゲネスのギリシア語を訳しているので、レンマとの不一致が出てきている。ルフィヌスが用いた古ラテン語訳は、アクイレイアかローマで流布していたものと考えられる。

Hammond Bammelによると、ルフィヌスとペラギウスは互いに知り合いであり、ペラギウスはルフィヌスの翻訳をさかんに利用していたという。とはいえ、ペラギウスの思想はオリゲネスとは必ずしも相容れない。アウグスティヌスもルフィヌス訳でオリゲネスの著作を読んでいた。ルフィヌスが『ロマ書注解』を訳した理由のひとつは、アウグスティヌスの厳しい人間観と真っ向から対立するようなオリゲネスのロマ書解釈をラテン世界に紹介したかったからであった。

『ロマ書注解』のギリシア語断片は、バシレイオス『聖霊について』、ソクラテス『教会史』、カテーナ、『フィロカリア』、そして1941年に新発見されたトゥーラ・パピルスに保存されている。K.H. Schelkeがギリシア語断片とルフィヌスのラテン語訳を詳細に比較した結果、伝統的な見解――ルフィヌスの翻訳は当てにならないのでギリシア語断片を優先すべき――を疑問視するに至った。そもそもギリシア語断片はオリゲネス本人の手にさかのぼるものではなく、おそらくは省略された抜粋のようなものでしかない。ルフィヌスの翻訳は信用できるものだったのである。それと同時に、ルフィヌスがテクストのある箇所を大部分訳さなかったことは明らかであり、またおそらく非正統的な見解を変えたと考えられる。ルフィヌスの言葉はオリゲネスと比べて、洗練されておらず、技術的にも高くない。

2019年1月23日水曜日

ヒエロニュムスのラテン語訳について Klostermann, "Einleitung" #2

  • Erich Klostermann, Jeremiahomilien, Klageliederkommentar, Erklärung der Samuel- und Königsbücher (GCS 6 = Origenes Werke 3; Leipzig: J.C. Hinrichs'sche Buchhandlung, 1901), XVI-XXIII.


ヒエロニュムスがオリゲネスの『エレミヤ書説教』のうち14篇を翻訳したのは、380年頃コンスタンティノポリスにおいてである。14篇は、自分が気に入ったものを選んだのであろう。このラテン語訳は、たくさんの写本が普及している。まだ批判的校訂版はないが、CSELシリーズで出ることになっている(おそらくW.A. Baerensがオリゲネスの説教のラテン語訳のテクスト伝承に関して研究していたことを指すのだろうが、Baerensはヒエロニュムスのラテン語訳のみが残っている2篇を校訂しただけだった)。

ギリシア語テクストの多くの箇所はラテン語訳の助けなしには確実に直すことはできないし、一方でラテン語話者による正しい読みの確定はギリシア語写本の正しい知識なしにはできないので、最も適切なのは、両方の伝承が一人の編者によって研究され、一緒に校訂されることである。少なくとも、ヒエロニュムスのテクスト改訂ができるだけシンプルに作成されなければならない。

こうした状況で、Klostermannはcod. Colon. XXVIII(12世紀)とVallarsiのテクストを校合した上で、LG I, 394 f. 400とcod. Laudun. 299(9世紀)を比較した。他に参照できるテクストとしては、自分の『エレミヤ書注解』を書くためにオリゲネス説教のヒエロニュムスによるラテン語訳を借用したRabanus Maurusがある。一般的に、ラテン語訳の読みはより正しく、ギリシア語のオリジナル本文により正確に一致している。KlostermannとVioletらが第10説教のラテン語訳の諸写本をテスト的に校合したところ、概して互いに一致していた。ただし、こうしたテスト校合がたくさんの異読をもたらさないからといって、すべての写本のより完全な研究が別の結果に至らないとは限らない。いずれにせよ、ヒエロニュムスのテクストが本文批評における決定権を持っていることは確かである。

ヒエロニュムスの翻訳技法を徹底的に調べれば、その翻訳が本文批評においてどのような価値を持っているかが分かるだろう。彼の仕事は丹精込めたものだが、起点テクストに隷属的に文字通りなわけではない。読者の負担を減らすために、いたるところで、パラフレーズ、省略、挿入などと共に、表現を強め、誇張し、絵に色を塗り、難しいテクストをエレガントに隠すために、作法、虚栄心、細部への拘りといった付加を足している。これらヒエロニュムスによる工夫はヨーロッパ世界の教会に対して大きな貢献であったが、オリゲネスのテクストの編者にとっては隷属的に文字通りの翻訳をしているところだけが価値を持っている。ヒエロニュムスの翻訳には、直接的な誤りはさほど多くないし、ルフィヌスが批判したような独断的な変更も確実なものはどこにもない。そうした意味では、多くの点でS写本よりもよい読みを提供している。S写本とヒエロニュムスのラテン語訳(H)を比較すると、両者がひとつのVorlageを持っていたと考えるよりも、同時に作成された速記原稿から2つの異なる伝承を導きたくなる。

ヒエロニュムスによるオリゲネス『ルカ福音書説教』のラテン語訳について Lienhard,"Introduction"

  • Joseph T. Lienhard, Origen: Homilies on Luke, Fragments on Luke (The Fathers of the Church 94; Washington, D.C.: The Catholic University of America Press, 1996), xxxii-xxxix.

Homilies on Luke (Fathers of the Church Patristic)
Origen
Catholic Univ of Amer Pr
売り上げランキング: 15,383

オリゲネス『ルカ福音書説教』のラテン語訳を、ヒエロニュムスはパウラとエウストキウムの依頼で作成した。パウラについては『書簡108』が詳しい。ただし、パウラらの依頼はヒエロニュムスの動機付けのすべてではない。おそらくアンブロシウスへの反感も大きな理由である。384年に新教皇を選ぶ際にアンブロシウスが自分の味方をしなかったことを、ヒエロニュムスは根に持っていたのである。

そこで、アンブロシウスが『聖霊について』を381年に出版すると、ヒエロニュムスは387年にディデュモスの同名の著作をラテン語訳し、いかにアンブロシウスがディデュモスに依拠しているかを曝した。また390/1年にアンブロシウスが『ルカ福音書注解』を出版すると、すぐさまヒエロニュムスはオリゲネス『ルカ福音書説教』をラテン語訳したのだった。そして序文で「別の鳥の色鮮やかな羽で自分を飾る黒いカラス」という表現でアンブロシウスをあてこすった。現代のような剽窃への危機意識は古代にはなかったが、ヒエロニュムスはこうした行動でアンブロシウスを貶めることができると考えたのである。『ルカ福音書説教』のラテン語訳は、アンブロシウス『ルカ福音書注解』が書かれた390/1年よりあと、そしてオリゲネス主義論争が勃発した393年より前になされたと考えられる。

19世紀の終わりから20世紀初頭にかけて、研究者の間では、オリゲネスの著作のラテン語訳(ヒエロニュムスとルフィヌスによる)を軽視し、ギリシア語の断片はそれがどんなものであってもラテン語訳より優れていると考える風潮があった。しかし、こうした考え方は現在では以下の2つの理由から支持されない。

第一に、ヒエロニュムスの翻訳は信頼できる。ルフィヌスがヒエロニュムスの『ルカ福音書説教』の翻訳について批判しているのは2点だけであり、いずれもごくわずかな問題にすぎない。そしてその2点がヒエロニュムスの翻訳についてルフィヌスの発見できた不正確さであるとすれば、その翻訳はきわめて忠実だということである。第二に、ギリシア語断片は必ずしも信頼できない。ほとんどの断片はカテーナに収録されたものであるが、カテーナ編者はしばしば文章を短くし、圧縮し、再編してしまう。こうしたことから、著者は、ヒエロニュムスの翻訳を読むことはオリゲネス本人を読むに等しいと主張する。

『ルカ福音書説教』の本文は、ヒエロニュムスのラテン語訳の他に、カテーナに保存されたギリシア語断片がある。GCSの編者であるMax Rauerは断片を集め、信憑性を測った上で、それらを2つのグループに分けた。すなわち、ラテン語訳との明らかな並行関係にあるものと、ないものである。GCSでは、並行箇所はラテン語訳の横に印刷されている。並行関係にない箇所のうち、Rauerが『ルカ福音書説教』か『注解』に由来すると考える断片は、本文として印刷されている。他にも、オリゲネスのマタイ福音書に関する著作で共観部分について書いたギリシア語テクストの断片は、その始まりと終わりだけが書かれた上で、GCSの該当箇所が指示されている。

2019年1月21日月曜日

オリゲネス『エレミヤ書説教』の写本 Klostermann, "Einleitung" #1

  • Erich Klostermann, Jeremiahomilien, Klageliederkommentar, Erklärung der Samuel- und Königsbücher (GCS 6 = Origenes Werke 3; Leipzig: J.C. Hinrichs'sche Buchhandlung, 1901), IX-XVI.


『エレミヤ書説教』の作成時期と成立場所について、確たる情報はない。オリゲネスの他の著作や説教自体の短い一節を頼りにしつつ、基準となる絶対的年代と比較して、著作の順番の中の位置を決めなければならない。当時すでにかなり有名な司祭だったことが分かっている。場所はおそらくカイサリアで、エゼキエル書、ヨシュア記、詩篇、レビ記に対する説教よりあと、すなわち244年以降の作と考えられる。

『エレミヤ書説教』を構成する説教の数はヒエロニュムス『書簡33』では14篇となっているが、これは全体ではなくラテン語訳された説教の数である。『フィロカリア』には、「第38篇」というタイトルのついた説教断片が保存されている。カッシオドルスやラバヌス・マウルスは、全体は45篇で、そのうち14篇がラテン語訳されたと報告している。

唯一の独立したギリシア語写本としては、スコリアレンシス写本(S写本)がある。これは全部で344葉ある写本だが、277葉目にページ数が書かれていないので、数字上は345葉まである。最後のページ以外は読みやすい写本である。少なくとも同時代の3人の手によって書かれた。写本の中には、著者不明の『イザヤ書注解』、『ダニエル書注解』、『エゼキエル書注解』、(オリゲネス)『エレミヤ書説教』、アレクサンドリアのクレメンス『救われる富者』が含まれている。現在はスペインのエスコリアルにある。もともとはDon Diego Hurtado de Mendozaがヴェネツィア滞在中に購入したものと考えられる。この写本に含まれる『エレミヤ書説教』には著者名が書いていなかったため、オリゲネスが異端者として断罪されたあともギリシア語本文が残った。とはいえ、さほど状態がいいわけではない。単純な誤りや言葉の脱落などが見られる。第3篇の終わりと、第18篇と19篇の間には、別の説教があったかもしれない。また第17篇の冒頭にあったはずの数葉が抜け落ちている。こうした欠損はラテン語訳に残っていることもある。

もうひとつの写本としては、ヴァティカヌス写本(V写本)がある。これは少し前までは独立した写本と考えられていたが、現在ではS写本のコピー以上の価値を持たないと見なされている。クレメンス著作の部分は純粋なコピーであり、『エレミヤ書説教』についても、第3篇と第18篇の終わり、第17篇の始まり、第19篇と第20篇の内部に、同じ欠落や余白が見られる。一方で、V写本は独自の、ときにS写本よりも正しい読みを持っている場合もある。これはとくに正書法において顕著である。こうした点が、S写本とV写本のvorlageを意図的に改変したものであることは確かである。さらに、S写本と比べて正しい読みの情報を持っていたが、それらを本文ではなくアパラトゥスについでのように残す場合もある。こうした推測の部分は、明らかに写字生の手になることもある。しかしながら、こうしたS写本と比べて(文法的に)正しい修正の大部分は、とあるギリシア語に堪能な人物がヴェネツィアでS写本をコピーしたときに行ったものと仮定するのが妥当である。ゆえに、V写本をS写本から独立した別物と見なすことはできない。

2019年1月19日土曜日

オリゲネス『エレミヤ書説教』のヒエロニュムスによるラテン語訳 Klostermann, "Die lateinische Übersetzung des Hieronymus"

  • Erich Klostermann, Die Überlieferung der Jeremiahomilien des Origenes (Texte und Untersuchungen zur Geschichte der altchristlichen Literatur 1-3; Leipzig: J.C. Hinrichs'sche Buchhandlung, 1897), 19-31.

ヒエロニュムスが380年にコンスタンティノポリス滞在中に翻訳したのは、オリゲネスの『エレミヤ書説教』14篇と『エゼキエル書説教』14篇である。このことは、ルフィヌス、カッシオドルス、ラバヌス・マウルス、ボーヴェのヴァンサン、ギスレリウスらが証言している。

ヒエロニュムスが訳さなかったところは、オリゲネスの異端的な勧めを含んでいたゆえにかなり損なわれた。すなわち、人間の魂の先在や堕罪などである。ヒエロニュムスはこの説教を訳した当時にはこうした異端的な箇所にも耐えられた。ギリシア語テクストとラテン語訳の説教の順番が異なるのは、ヒエロニュムスの序文によると、彼の仕業ではなく、もともと混乱していたからである。

『エレミヤ書説教』全21篇中、ヒエロニュムスが訳したのは14篇であり、そのうち2篇はそのラテン語訳でのみ残っている。その2篇以外の12篇にはギリシア語原典とラテン語訳が共に存在するわけだが、これらの翻訳テクストの本文批判的な価値は疑わしい。というのも、ラテン語訳テクストはお世辞にも最善の状態とは言えず、最後の編者によって、あるときはラバヌス・マウルスの抜粋から、またあるときはギリシア語原典に従って改定されているという体たらくだからである。それゆえに、多くの箇所がいまだに改善されるのを待ち望んでいる状態といえる。

ラテン語訳は有益な情報を与えてくれる。HuetとDelarueはラテン語訳を用いて、説教第17篇の欠落を埋めたり、第10篇と11篇のページ混合を発見したりしたのみならず、細部も改善した。しかし、ラテン語訳はまだ組織的に活用されているとはいえない。VallarsiがHuetとDelarueの間により有益なテクストをもたらしたので、ラテン語訳は見過ごされてしまったのである。

ラテン語訳を重視する際には、次の2点に注目しなければならない:第一に、ヒエロニュムスが翻訳の底本としたギリシア語本文がどの程度よいものなのか。第二に、ヒエロニュムスがギリシア語本文をどの程度伝えるつもりなのか。これら2点は、ヒエロニュムスのギリシア語能力を疑問視しないという前提の問いである。ただし、『エレミヤ書説教』に限らず、ヒエロニュムスは難読箇所に出くわすと、意味を十分に理解しないまま訳したり、時間をかけず拙速に訳した結果、誤りを犯すこともあった。『エレミヤ書説教』でそうした誤りがあっても驚くにはあたらないが、それが絶対にヒエロニュムスによる誤りだと証明するのは難しい。テクスト伝承の不十分さや自由訳の可能性も考慮しなければならない。

そこでヒエロニュムスの翻訳の方法論に関する情報が必要となる。『書簡57』には重要な原則がある。オリゲネスのテクストは、聖書のように語順に神秘があるわけではないので、逐語訳する必要はない。言葉を抜かしたり加えたり変更したりすることで、言葉ではなく意味を伝えることを重視した。その際に、ヒエロニュムスは古今東西の有名作家、福音書記者、使徒、七十人訳者らなど例を引いた。彼は、よい翻訳は原典が最初の読者に与えたのと同じ印象を与えるべきだと考えた。例の数がとても多いことから、ヒエロニュムスが翻訳に関していかに高い自由度を自らに許しているかが分かる。この自由度の高さは、本文批評のためにラテン語訳を用いるという我々の目的にとっては障害となる。

『エレミヤ書説教』においても、ヒエロニュムスは、読者の理解を容易にするために、パラフレーズ、省略、挿入のほかに、表現の強化や誇張、装飾、様式の追加、虚栄心や学術的な拘りなどへの傾向を示している。「なるべく簡潔な翻訳する」という断言には、実際の例を見てみると、疑いを持たざるを得ない。むしろルフィヌスが批判するように、まったく逆の状態になってしまっている(『弁明』2.27)。ルフィヌスはヒエロニュムスがオリゲネスの異端者といった敵の方法に従っているとして、『ルカ福音書説教』から2例を挙げている。とはいえ、ヒエロニュムスの底本であるギリシア語本文は、我々が持っている唯一のギリシア語写本(S写本)よりはるかに優れているときもある。

2019年1月17日木曜日

ルフィヌスの翻訳技法 Brooks, "The Translation Techniques of Rufinus of Aquileia"

  • E.C. Brooks, "The Translation Techniques of Rufinus of Aquileia (343-411)," in Studia Patristica 17, ed. Elizabeth A. Livingstone (Oxford: Pergamon Press, 1982), 357-64.

Studia Patristica: v. 17
Studia Patristica: v. 17
posted with amazlet at 19.01.17

Pergamon Press

現代の研究者たち(Gruetzmacher, Hoppe, Bardenhewerら)は、ルフィヌスの翻訳の方法論が恣意的だと批判するのが常である。Kimmelはルフィヌスによるエウセビオス『教会史』の翻訳に見られる次のような点について批判している:
  1. 原典では直接話法になっているところを間接話法に変える(逆も)。
  2. 原典で、不快、不必要な反復、事実に反する、不適切だと考えるところを訳さない。
  3. 語の付加、説明、スタイルの優雅化、補足的な情報、明確化といった改変。
  4. 訳す必要がないと考えたところのパラフレーズ。
Koetschauも、オリゲネス『諸原理について』のルフィヌス訳には特にこうした点が見られるとして批判している。

しかしながら、古代におけるルフィヌス評価はこのようではなかった。ヒエロニュムスですら、ルフィヌスの翻訳技法については疑問視していなかった。彼が非難していた主として教義的な問題だったのである。他にもカッシオドルスやゲンナディウスらは、ルフィヌスの翻訳のエレガンスを称賛している。Gustave Bardyは、ルフィヌスを彼自身の言葉で検証すべきだと主張する。なぜなら、ルフィヌスは字義通りの翻訳を作ろうとしていたわけではなく、仮にそうしたところがあっても、それは彼の主たる関心事ではなかったからである。ルフィヌスの著者への共感と理解が重要である。Bardyにとってルフィヌスの仕事は翻訳というよりもパラフレーズに近いが、それはテクストの意味を伝えてくれる。

ルフィヌスの翻訳の目的は、ラテン語世界の人々に情報を提供することだった。読者は倫理的、修辞的、教義的、修道的な問題を議論するためにちょうどいいくらいの分かりやすい翻訳を求めていた。『ヒエロニュムス駁論』において、彼はヒエロニュムス自身の方法に従って、ギリシア語の意味をラテン語に与えるように翻訳したと述べている。つまり、原典をパラフレーズするような翻訳を強く望んでいたのである。

ルフィヌスは399年に、『クレメンスの手紙』、バシレイオスとナジアンゾスのグレゴリオスの説教、シクストゥスの著作、アダマンティオスの著作を皆訳したことになっているが、これらを本当にすべての一人で訳したのだろうか。正式なプロの翻訳家集団ではなくとも、ルフィヌスをサポートする修道者たちのグループなどがいたのではないだろうか。翻訳は財政的にも成功したはずである。またルフィヌスは句読点を用いたと考えられる。

論文著者は、『ヤコブに宛てたクレメンスの手紙』を例に、ルフィヌスの翻訳技法を14個指摘している(Monica Wagnerがルフィヌス訳のナジアンゾスのグレゴリオスの演説に基づいて分析したルフィヌスの翻訳技法と比較せよ。(1)考えが拡張されている。(2)ある語を訳すのに二つ以上の可能性を挙げる。(3)二語のフレーズを訳すときに、1つ目の語が2つ目の語の結果となるようにする。(4)異なった観点を持っている。(5)イメージを形作る。(6)不必要あるいは不適切な一節を削除する。(7)付加によって、ある言及を個人的なものに変える。(8)時間への言及を変更する。(9)冗長な接続詞の使用。(10)肯定を否定に変える。(11)テクストの修正。(12)テクストの保持。(13)オリゲネスのギリシア語の無愛想さを和らげる。(14)テクストを入念に変更する。

聖書の引用に関しては、細心の注意を払って正確に行っている。古ラテン語訳に従うときもあれば、自分で訳す場合もある。『諸原理について』における聖書引用については、オリゲネスのギリシア語本文から直接引用している。おそらくルフィヌスはラテン語訳聖書は一様であるという考えを持っていた。また聖書でない引用箇所に聖書の引用を当てはめることもあった。聖書箇所を暗示するよりは、直接引用することを好んだ。

オリゲネスのテクストは、ルフィヌスがそれを手に入れる以前にすでに改竄されていた。失われた部分があったり、省略されている箇所もあった。ルフィヌスは、写字生によってギリシア語テクストに入れられてしまった誤りに対処しなければならなかった。

ルフィヌスは文学的な天才ではなかったが、彼の人格の誠実さや勤勉さは称賛されるべきものであった。そして彼の仕事の重要さは言うまでもない。ウェルギリウス、ホラティウス、キケローからの影響を受けた彼のラテン語の優雅さは、ヒエロニュムスも渋々認めるところであった。さらに、ルフィヌスは歴史的および神学的な観点を持っていた。

ミュンヘン写本から見る翻訳者としてのルフィヌス Prinzivalli, "A Fresh Look at Rufinus as a Translator"

  • Emanuela Prinzivalli, "A Fresh Look at Rufinus as a Translator," in Origeniana Undecima: Origen and Origenisum in the History of Western Thought: Papers of the 11th International Origen Congress, Aarhus University, 26-31 August 2013, ed. Anders-Christian Jacobsen (Bibliotheca Ephemeridum Theologicarum Lovaniensium 279; Leuven: Peeters, 2016), 247-75.

オリゲネスの『詩篇説教』のギリシア語原典を含むミュンヘン写本(Codex Monacensis Graecus 314)の発見はさまざまな意義を持つが、そのひとつがルフィヌスの翻訳の方法論を分析できるようになったことである。というのも、詩篇36篇から38篇についてのオリゲネスの説教は、これまでルフィヌスのラテン語訳しか残っていないと思われていたが、ミュンヘン写本の発見によって、両者を比較することができるようになったからである。

ヒエロニュムスの場合、『エレミヤ書説教』の原典と翻訳を比較することができた。しかし、ルフィヌスはオリゲネスの著作のラテン語訳を最も多くしたにもかかわらず、これまでそうした検証はほとんどできなかった(カテーナの他は、『フィロカリア』にある『ヨシュア記説教』の第20篇や『レビ記説教』の第5編だけ可能だった)。Antonio Grapponeはオリゲネスの説教断片を保存するカテーナを分析してルフィヌスの翻訳の方法論を分析した。しかしGrapponeは、カテーナに伝わるオリゲネスのギリシア語テクストを過信するあまり、さまざまな表現がルフィヌスによるオリゲネスのテクストの敷衍や修正なのではないかという誤った考えに導かれてしまった。しかし、ミュンヘン写本の発見によって、我々はルフィヌスを正確に評価することができるのである。

ヒエロニュムス『書簡33』によると、オリゲネスは詩篇36について5篇の説教をしたが、ミュンヘン写本は4つだけを保存している。これはミュンヘン写本がいくつかのアンソロジーのアンソロジーだからである。さらに詩篇36の内容はそもそもいくつかの部分に分かれたようなものであり、また第4篇の終わり部分はちょうどよく終末論的な内容なので切りがよかった。

ラテン文学はリウィウス・アンドロニコスによるホメロスの翻訳に始まる。つまり、最初からラテン文学は先行するギリシア文学の達成に多くを負っていたわけである。しかし、キリスト教ラテン文学はこの古典ラテン文学とは大いに異なったところから始まった。ミヌキウス・フェリクスやテルトゥリアヌスらは独自性を持ちつつ、キリスト者たちがギリシア語で書いてきたことをよく知っていたのである。とはいえ、ギリシア語を解さない者らのために作成されたキリスト教ギリシア作家のラテン語訳は、多くの場合新約聖書や使徒教父文学などに限られていた。3世紀になって西方が文化的に凋落すると、ローマの貴族はギリシア語を忘れてしまった。

4世紀になると、ラテン世界は修道制についてギリシア文化を手本とした(アタナシオス『アントニオス伝』など)。エジプトの初期修道制においてオリゲネスの思想はきわめて大きな影響力を持っていた。ヒエロニュムスやルフィヌスは、こうした修道生活を送ることを選んだラテン語話者だったのである。ゆえに、ヒエロニュムスがオリゲネスを翻訳しはじめたことは自然な流れであった。さらに、論敵アンブロシウスがオリゲネスから「剽窃」したことを白日の下に曝すという消極的な理由もあった。しかし、オリゲネス主義論争が勃発すると、ヒエロニュムスはオリゲネスを聖書解釈者としては称賛するが、思想家としてはけなすという二重の扱いをするようになった。

オリゲネス主義論争の勃発を受けて、ルフィヌスは著作・翻訳活動を開始した。バシレイオスやパンフィロスの著作を翻訳したあと、オリゲネス『諸原理について』の翻訳を開始した。彼の翻訳は大部分は忠実だった。ルフィヌスは、オリゲネスの思想の強力な教義的・人間学的な基礎を消し去ることなく、西方世界にキリスト教的霊性の偉大な師を伝えようとしたのである。これに対し、ヒエロニュムスはルフィヌスによって隠されてしまったオリゲネスの教義上の誤謬を指摘するために、独自に同書を翻訳した。

ルフィヌスによる『諸原理について』の翻訳は、オリゲネス研究と共にオリゲネスの翻訳者としてのルフィヌス研究に影響を与えた。しかし、その結果、長い間研究者たちの関心はこの文書のみに偏ってしまった。オリゲネスの説教(とその翻訳)の研究は端緒についたばかりである。

『詩篇説教』の序文において、ルフィヌスは常ならぬことに、オリゲネスの名に言及しない。その理由は定かでないが、おそらくこれらの作品の霊的メッセージから受け取り手の注意が逸れることのないようにするためだったと思われる。

『詩篇説教』における詩篇36の第一説教のギリシア語原典とラテン語訳を比較すると、次のようなことが分かる。聖書引用においては、ラテン語訳はオリゲネスのテクストに必ずしも従わない。ただし、これはルフィヌスのせいかどうか分からない。なぜなら、写本が書かれるときに聖書引用は速記者によって一旦省略され、あとで仕上げのときに書かれるのが常だったからである。オリゲネスがゼーロオーとパラゼーロオーという2つの動詞にこだわって解説しているときに、ルフィヌスは両者をaemulariと同じ動詞に訳しているが、もともとの説明を成立させようと努力してもいる。

オリゲネスがキリスト者とユダヤ人を申32:21に沿って説明しているときに、ルフィヌスは個人的な考えを加えている。ヒエロニュムスとの論争もあって、ルフィヌスはユダヤ人に対して辛辣な態度を取っていたからである。またオリゲネスが女性的なタームを用いて神のことを説明している箇所をルフィヌスは削除している。彼にとっては適切でないと思われるアナロジーだったのだろう。しかし、それ以外はきわめて忠実に訳している。さらに、オリゲネスが比較的生々しく女性の魅力の誘惑について書いているのに対し、ルフィヌスは謹厳実直にそうしたエロティックな部分に修正を施している。

説教の時系列を示唆する記述として、名前を挙げないまま30年前の皇帝に言及している箇所がある。エウセビオスによると、オリゲネスは60歳のとき、すなわちフィリップス・アラブス帝の時代になってようやく説教の速記を許したそうなので、そこから逆算して皇帝を同定することができるかもしれない。Pierre Nautinはこのエウセビオスの記述に信を置かないが、Vittorio Periは信頼している。論文著者は、両者の意見は共に修正されるべきと考えた。すなわち、エウセビオスの記述は信頼できるものとすべきだが、「30年」を文字通り取るべきでないという。というのも、「30年」とは「とても長い時間」、しかし「覚えていられるほどの時間」を指しているにすぎないからである。ルフィヌスはこの言い回しを変え、どの皇帝を指しているかを明確にしようとした。

教義的な問題については、オリゲネスがパウロとキリストをリンクさせようとする記述をルフィヌスは削除し、イエスに注目しようとする。またオリゲネスが書いていなくても、三位一体に関する議論や「三位一体」という語そのものをルフィヌスは翻訳の中に挿入している。オリゲネスがやや三位一体を垂直的に捉えるのに対し、ルフィヌスは聖霊を重視質、それを水平的に変更するのである。これもまたアレイオス主義に関する論争を受けての操作であろう。『諸原理について』のみならず、諸説教もこの論争の影響を受けていたというわけである。

ルフィヌスの翻訳はあるところでは完全に忠実だったが、他のところでは多かれ少なかれ重大な教義上の変更を導入し、オリゲネスの用いる例を自分の行きたい方向に持っていった。

いずれにせよ、これでオリゲネス説教に関するルフィヌスの翻訳とヒエロニュムスの翻訳を比較することもできるようになった。ルフィヌスはヒエロニュムスによる『エゼキエル書説教』の削除を批判するが、Erich Klostermannによれば、『エレミヤ書説教』の原典とラテン語訳を比較すると、確実にそうした大きな変更があったと断言することは難しいという。Pierre Nautinは、三位一体に関する変更はミニマルであるが、文意を明確にしたり文飾を加えたりするための付加は一貫していると述べている。論文著者によれば、とりわけ、パトスについてと悪口について、ヒエロニュムスは変更を加えている。

結論としては、ヒエロニュムスとルフィヌスは同じ翻訳原理を共有しているといえる。両者は三位一体の議論をより正統的な方向に変更し、スタイルを変化させ、修辞的な強調を加えた。そのくせ、そうした変更が原典を変えてしまうとは考えず、むしろ自分たちの翻訳は字義的であると見なしていた。現時点では、それでもヒエロニュムスの翻訳の方がより原典に近いといえるが、その差は質的なものというより量的なものである。

2019年1月15日火曜日

オリゲネスの仮面をつけたヒエロニュムス Vessey, "Jerome's Origen"

  • Mark Vessey, "Jerome's Origen: The Making of a Christian Literary Persona," in Studia Patristica 28 (Leuven: Peeters, 1993), 135-45.

18世紀のヒエロニュムス著作集の編者であるDometico Vallarsiや、16世紀のエラスムスは、ヒエロニュムスの人間性を知るには書簡を読むのが一番であると考えたが、これは早計である。というのも、ヒエロニュムスは書簡においては公的な仮面(ペルソナ)を被っているからである。彼はさまざまな仮面をつけたが、この論文で扱われているのは、キリスト教作家としての仮面である。

ヒエロニュムスが最も依拠しているキリスト教作家はオリゲネスである。彼が最初に聖書釈義をした380年のコンスタンティノポリス時代から、『著名者列伝』を書く392/3年まで、彼はこのアレクサンドリア人の著作を翻訳し、抜粋し、翻案し、模倣した。このときまでの彼の個人的な幸運は、オリゲネスの高い評価と密接に関係していた。それが変わったのは、393年にサラミスのエピファニオスがオリゲネスの著作を批判する運動を起こしてからだった。

このとき、論敵ルフィヌスからの批判に対し、ヒエロニュムスは自分がオリゲネスを賞賛したのは2箇所のみだと主張するが、もちろんこれは嘘である。ヒエロニュムスは、オリゲネスを、聖書的あるいは修道的なキリスト教文学活動の模範と捉えていた。ヒエロニュムスによれば、オリゲネスはキリスト者のホメロスであり、自分はウェルギリウスなのだった。

ヒエロニュムスによるオリゲネスへの言及といえば、『書簡33』が重要である。これはCSEL版ではローマ時代(382-385年)のパウラ宛書簡とされているが、実際には393年にベツレヘムで書かれた、パウラの宛名もない小品だと考えられる。ヒエロニュムスが396年以前にオリゲネスに言及した著作としては、(1)オリゲネスのイザヤ書・エレミヤ書・エゼキエル書説教の翻訳、(2)エウセビオス『年代記』の翻訳とつづき、(3)オリゲネスの雅歌説教、(4)教皇ダマススとの往復書簡、(5)マルケラとの往復書簡、がある。

論文著者は、マルケラとの往復書簡に注目する。この往復書簡は内容が多様である。社交儀礼、人物像、倫理的指導、聖書や神学の論文、悪罵、個人的な弁明、そして特に女性を含む人物描写などがある。この往復書簡を書いた時点では、オリゲネスはヒエロニュムスのヒーローである。第一に、ヒエロニュムスのオリゲネスは疲れを知らない。第二に、ヒエロニュムスのオリゲネスは聖書に注目し、関連の翻訳のみならず、原典にも当たっている。そうした意味で、このマルケラ書簡はヒエロニュムスが「ヘブライ的真理」と呼ぶものへのアプローチにおける重要な一段階と言える。ヒエロニュムスの原典重視はローマの読者にとっては驚くべき、また危険な新奇さをもったものだったはずだが、オリゲネスの評判がそうしたヒエロニュムスの聖書研究を宣伝するのに一役買ったのだった。第三に、聖書学者としてのオリゲネスの業績は比類なきものである。

マルケラとの往復書簡におけるオリゲネスの描写は中立的である。しかし、ここでヒエロニュムスが言わんとしているのは、第一に、オリゲネスの業績が規範的で勇ましいように、ヒエロニュムスの業績もまたそうであること、第二に、オリゲネスの聖書本分への姿勢が正しいように、ヒエロニュムスのヘブライ的真理への没頭も正当化されること、そして第三に、オリゲネスの教えや原則をよく消化したヒエロニュムスは、他のいかなるラテン作家よりも聖書を語るに相応しいはずであることである。ヒエロニュムスは、オリゲネスという仮面をかぶって公に自らを示すことで、他のライバルとの差をつけようとしたのである。

西方世界は、ラテン語で書くオリゲネスというヒエロニュムスのイメージを持つことで、彼から信頼できる聖書解釈を聞くことができると思うようになった。エピファニオスのオリゲネス主義論争の勃発時に、オリゲネスをいち早く批判し、また彼を賞賛していた自らの過去をなかったことにしようとしたのは、ダメージを抑えるためであった。ローマの読者がオリゲネスを読みたいときには、彼らは考えられる限り最も完全なキリスト教作家としてのヒエロニュムスを見ることになる。

2019年1月14日月曜日

ミュンヘン写本の発見 Perrone, "Discovering Origen's Lost Homilies on the Psalms"

  • Lorenzo Perrone, "Discovering Origen's Lost Homilies on the Psalms," Auctores Nostri: Studi e testi di letteratura cristiana antica 15 (2015): 19-46.

2012年4月、Marina Molin Pradelは、ミュンヘンのバイエルン州立図書館でギリシア語写本の新しいカタログを作成していたときに、12世紀初頭に作成された写本Codex Monacensis Graecus 314を発見した。その写本には、不詳の著者による詩篇の説教が29篇収められていた。驚くべきことに、そのテクストは、(カテーナに散在する断片以外では)ルフィヌスのラテン語訳で3篇だけ残っていたオリゲネスの詩篇説教と内容が酷似していた。このことに気づいたPradelは、同年5月に論文著者であるPerroneに写本の鑑定を依頼したのだった。鑑定の結果、6月12日に、この写本は新しく発見されたオリゲネスのギリシア語原典テクストであると発表された。

2007年にエアフルトでアウグスティヌスの説教が新たに発見されたときのように、図書館のカタログを作成しているときに新写本が発見されることはときに起こる。ミュンヘン写本(全371葉)の場合は、1ページ目にミカエル・プセロスの作であると書かれていたために、今まで誰もオリゲネスの作だとは考えなかったわけである。おそらくコンスタンティノポリスで12世紀に作成され、16世紀にアウクスブルクの好事家Johann Jakob Fuggerがヴェネツィアで購入して、ミュンヘンに持ち込まれたものらしい。

論文著者は、外的証拠と内的証拠から、本写本に収録された詩篇説教がオリゲネスのものであると同定している。写本の外的・構造的特徴は以下のようである。まず、ギリシア語で残るオリゲネスの説教としては最長である(次点は20篇残る『エレミヤ書説教』)。詩篇説教としてはルフィヌス訳のみ残るものがあと5篇あり、全部で34篇あるわけだが、ヒエロニュムス『書簡33』によるともともとオリゲネスの詩篇説教は120篇あったそうなので、現存するのは4分の1以下ということになる。

ルフィヌスは翻訳集成を作成したときに、詩篇説教36-38は「倫理的釈義」であると見なした。ミュンヘン写本もまたそうした選集化の結果であると考えられるが、どういう基準で作成されたかは不明である。ひとまず言えるのは、オリゲネスの詩篇説教の個別の集成からさらに集められたよせあつめではないかと思われる。ヒエロニュムス『書簡33』にあるオリゲネスの著作リストやヒエロニュムス『詩篇説教』などを参考にするしかない。著作リストで書かれた説教の篇数と完全に一致するのは、詩73の3篇、74の1篇、75の1篇、77の9篇、80の2篇、81の1篇である。また詩篇15の第2説教はパンフィロス『オリゲネス擁護』に引用されており、それはルフィヌスのラテン語訳で残っている。比較すると、ルフィヌスの翻訳は忠実である。

内的証拠は以下のようである。文学的側面では、架空の対話者を想定し、仮の質疑応答をするという特徴が共通している。オリゲネスはテクストの釈義に入る前にそうしたディアトリベーを行い、より深い意味へと至ろうとすることが知られている。また「いわば」という表現のあとにハパクス・レゴメナを紹介したり、よく知られた言葉の横にそれをもじった新語を置いたり、テクストの意味を理解するように聴衆に呼びかけたり(アポストロフェー)、問答形式(quaestiones et responsiones)で説明したりしている。

歴史的・教義的側面では、当時の教会の様子を窺い知ることができる。共同体はキュリアコンという場所および機会に集まり、その集まりはシュナゴーゲーと呼ばれる。「集いの時間」と「祈りの時間」がある。司教はときにパパと呼ばれている。罪を犯した者はそれを神の前で、ついで教会で働く「よき博士ら」に対して告白することが求められている。オリゲネスの特徴として知られる、劇場的・論争的な比喩表現が見られる。ユダヤ・キリスト者を警戒し、ユダヤ教とキリスト教を厳密に区別しようとしているのは、当時のキリスト教共同体にユダヤの祭りに魅力を感じる者が多かったからである。他にも、キリスト教の異端的思想(マルキオン、ウァレンティノス、バシレイデスら)の支持者らも論争のターゲットになっている。またエルサレムの地理に詳しい。

詩篇説教の著者は、人間性もオリゲネスに似ている。とりわけ殉教者を高く評価していることは重要である。聖書解釈のゴールを霊的な成長や完成と見なすことも同様である。詩篇80の第2説教において、聖書とその隠された意味について質問する者たちに対し、聖書全体を記憶すること意外にそれを知る方法はないと述べているところなど、オリゲネスの特徴をよく表している。こうしたことから、論文著者はミュンヘン写本の説教の著者はオリゲネスであると同定している。

2019年1月12日土曜日

ヒエロニュムスによって形作られたオリゲネス Fürst, "Origen Losing his Text"

  • Alfons Fürst, "Origen Losing his Text: The Fate of Origen as a Writer in Jerome's Latin Translation of the Homilies on Isaiah," in Origeniana Decima: Origen as Writer: Papers of the 10th International Origen Congress, University School of Philosophy and Education "Ignatianum," Kraków, Poland, 31 August - 4 September 2009, ed. Sylwia Kaczmarek, Henryk Pietras, and Andrzej Dziadowiec (Bibliotheca Ephemeridum theologicarum Lovaniensium 244; Leuven: Peeters, 2011), 689-701.
説教は、昨今のオリゲネス研究において中心的な課題とは見なされていないが、彼の思想の重要な側面を教えてくれる。西方神学の伝統において読まれたオリゲネスは、ヒエロニュムスによって形作られたオリゲネス、いわば「ヒエロニュムスの」オリゲネス(あるいは「ルフィヌスの」オリゲネス)であった。著者は、オリゲネスの多くの著作がヒエロニュムスらによって翻訳されたために保存されたことを認めつつも、同時に、そうした翻訳によって失われたものもあると主張している。

オリゲネスの神学について何かを学ぶためには、そのラテン語訳を用心深く用いることは有益かつ不可避である。しかし、著述家としてのオリゲネスについて何かを学ぶためには、ギリシア語で現存する著作を分析する必要がある。

『イザヤ書説教』には、もともと25か32の説教があったが、そのうちヒエロニュムスは9篇を翻訳した。この9篇は聖書テクストの順番になっていない。9篇のうち5篇(Ⅰ, Ⅳ, Ⅴ, Ⅵ, Ⅸ)がイザヤ書6章の幻視を扱っていることが特徴的である。説教Ⅰ-ⅣまでとⅤ-Ⅸまででは、説教のタイトルのスタイルが異なっているので(後者はDe eo, quod scriptum estで始まる)、おそらく別のグループの写本から翻訳したのだろう。Ⅰ, Ⅵ, Ⅶ, Ⅷ以外の説教はテクストが不完全のようである。とりわけⅡ, Ⅲ, Ⅴには問題が多い。Ⅱではイザ7:14が引用されているものの、その内容についてまるで触れていない。Ⅲではイザ4:1の一節しか解説されていない。

最も問題のあるⅤは、イザ41:1に関する言及から始まるものの、最終的にはその箇所とまるで関係ないイザ11:1-3に依拠している。この逸脱は、どうやら聴衆からの呼びかけに応えるうちにしてしまったものらしい。オリゲネスの説教は無人ではなく多くの人がいる教会で行われたのであるから、しばしば聴衆とのやりとりがあった。またオリゲネス自身が書いているように、その聴衆は落ち着きがなかったり不注意であったりした。中には朗読の途中で出て行く者、教会の隅で別の話に興じる者などもいた(『エゼ説教』12.2など)。説教Ⅴもまた、まさにそうした状況下で行われたのであろう。オリゲネスにとっては、喧騒に邪魔されて、不十分な出来であったに違いない。

ではなぜそのような不完全な説教をヒエロニュムスは翻訳したのか?そこで注目されるのが、翻訳された9篇の中5篇がイザヤ書6章の幻視を扱っている事実である(Ⅴもそうである)。ヒエロニュムスがこの翻訳を行った380年頃のコンスタンティノポリスでは、三位一体についての論争があった。父、子、聖霊の位格に序列をつけるアレイオス主義者たちに対抗して、ニカイア信条の支持者たちは三位が等しくあることを証明しなければならなかった。そのときに彼らが注目したのがイザ6:9-10の幻視であった。この箇所はヨハ12:39-41と使28:25-27でも引用されているが、イザヤ書では神が語り、ヨハネ福音書では子が語り、使徒行伝では聖霊が語っているので、三位一体を表していると考えられたのである。

この説明は、アレクサンドリアのディデュモスやニュッサのグレゴリオスに見られる。これに対し、オリゲネスの解釈――イザヤ書6章に出てくる2人のセラフィムを子と聖霊の象徴と見なす――は異端的と考えられた。実際、テオフィロスは『イザヤの幻視に関するオリゲネス駁論』(ヒエロニュムスがラテン語訳した)を著し、ヒエロニュムス自身も380年にコンスタンティノポリスで『セラフィムについて』を書いて、オリゲネスを批判した。ただし、ヒエロニュムスはこのとき同時にオリゲネスの聖書解釈の卓越さにも感銘を受け、『エレミヤ書説教』14篇と『エゼキエル書説教』14篇を訳している。『イザヤ書説教』についても、『セラフィムについて』を書く前には読んでおり、訳したのもこの時期であろう。

いずれにせよ、『イザヤ書説教』の9篇の選択は奇妙なものではない。イザヤの幻視とその解釈は議論の的だったので、ヒエロニュムスはオリゲネスの解釈に関心を持っていたのである。いわばヒエロニュムスが訳したかったのは『イザヤ書説教』そのものではなく、この説教におけるオリゲネスの幻視解釈だったのである。確かにこの説教の著者はオリゲネスであるが、我々が読んでいるのは翻訳者ヒエロニュムスが関心を持っていることである。『イザヤ書説教』は、オリゲネスのイザヤ書解釈そのものよりも、むしろ380年のコンスタンティノポリスにおいて彼の解釈の何が重要であったかを我々に示している。その意味で、著者オリゲネスは翻訳において失われてしまった。たとえそのテクストが残っていようとも。

ヒエロニュムスの翻訳自体は、修辞的強調、装飾的比喩、多少の説明の付加などがあるにせよ、極めて信頼できるものである。これは『エレミヤ書説教』のギリシア語原典と彼のラテン語訳を比較してみれば分かる。『イザヤ書説教』については、それでもなおヒエロニュムスはルフィヌスによる批判を免れなかった(『ヒ駁論』2.31)。ヒエロニュムスはオリゲネスを4世紀の正統信仰に近づけるための改変を施しているのである(『イザ説教』9.1)。またテオフィロスの『オリゲネス駁論』のラテン語訳には、オリゲネスの『イザヤ書説教』のラテン語訳にはない箇所が引用されている。つまり、両方を訳したヒエロニュムスが、後者では異端的な箇所を削除したわけである。ただし、こうした改変は、殊に三位一体に関しては、オリゲネス神学の単なる改竄とはいえない。なぜなら、ヒエロニュムスによる改変は、しばしばオリゲネスの他の著作(そちらでは正統的なことを書いている)に依拠しているからである。しかしながら、やはり翻訳においては著者オリゲネスが失われていることに変わりはない。

オリゲネス著作のラテン語訳の研究は、特に『諸原理について』に関してはかなり進んでいるが、ニカイア信条と一致するような箇所はルフィヌスやヒエロニュムスの修正・干渉だと見なす傾向がある。解釈を含まざるを得ない翻訳というプロセスは、著者とテクストの間に断絶をもたらす。『イザヤ書説教』は明らかに、その順番も言い回しもヒエロニュムスのものであって、オリゲネスのものではない。ヒエロニュムスは、著者オリゲネスとそのギリシア語テクストの間にある避けられない繋ぎ目であり、同時に障害物である。

2019年1月11日金曜日

オリゲネス『エレミヤ書説教』のヒエロニュムスによるラテン語訳 Fürst, "Die lateinische Übersetzung des Hieronymus"

  • Alfons Fürst and Horacio E. Lona (ed.), Die Homilien zum Buch Jeremia (Origenes Werke mit deutscher Übersetzung 11; Berlin: De Gruyter, 2018), 25-28.

Die Homilien Zum Buch Jeremia
Die Homilien Zum Buch Jeremia
posted with amazlet at 19.01.10

De Gruyter
売り上げランキング: 121,276

ヒエロニュムスは380/81年にコンスタンティノポリスにおいて、オリゲネスの『エレミヤ書説教』と『エゼキエル書説教』をそれぞれ14篇ずつ翻訳した。カッシオドルスやフラバヌス・マウルスら後代の者たちは、このラテン語訳でこれらの説教を読んだ。

ヒエロニュムスの翻訳は、次の2つの基礎から重要性を持っている。第一に、『エゼキエル書説教』の翻訳序文で述べているように、『エゼキエル書説教』でも『エレミヤ書説教』でも、ヒエロニュムスの翻訳はオリゲネスの言葉やスタイルを維持した。オリゲネスは修辞を凝らすのではなくシンプルな言葉を用いた。

著者によれば、『エレミヤ書説教』のギリシア語原典とラテン語訳を比較すると、とても忠実かつ信頼できるという。ただし、ヒエロニュムスは教義的な理由からオリゲネスのテクストを補完しようともした。ある箇所(ギリシア語9.1、ラテン語訳6.1)では、聖霊の神性を強調するために、三位一体を示す文章を付加している。そうすることで、ヒエロニュムスはオリゲネスの三位一体論を自分の時代に適合させようとしたのである。しかし、そうしたテクストの改変はわずかであるため、ヒエロニュムスの翻訳はギリシア語テクストのラテン語での信頼できる再現を仲介しているといえる。

確かにヒエロニュムスはときに自由な翻訳をしている。一方では、原典に忠実であるにもかかわらずエレガントなラテン語に訳したり、他方では、彼にとっては文字通りの翻訳が奇妙に響くことも明らかである。オリゲネスの非文学的なスタイルからヒエロニュムスが逸脱していることは、ラテン語読者を助けるために彼がしたパラフレーズ、短縮、挿入などから説明される。語学に秀で、スタイル感覚を自在に使いこなすヒエロニュムスは、誇張表現を強めたり、比喩や芸術的な付加を行う傾向があった。それゆえに、確かにヒエロニュムスのラテン語訳テクストはギリシア語テクストの確立のために重要ではあるが、その使用は慎重にしなければならない。ヒエロニュムスは、言語的な問題をそのまま再現するよりは、エレガントなラテン語でそれを取り繕おうとするので、テクスト問題の解決にはあまり役に立たない。

第二に、『イザヤ書説教』、『エレミヤ書説教』、『エゼキエル書説教』のラテン語訳はたくさんの写本で伝えられているが、ルフィヌスの旧約説教よりもテクストの状態が悪い。なぜなら、そもそも翻訳の底本が損なわれていたと考えられるからである。その中でも『エレミヤ書説教』はまだましな方である。これはひとえに、フラバヌス・マウルスが自身のエレミヤ書注解の中でヒエロニュムスのラテン語訳の半分を引用しているからである。このような比較的よい状態の伝承に基づくと、ラテン語訳『エレミヤ書説教』はギリシア語テクストの確立に資するといえる。

ただし、問題はそのラテン語訳テクストが校訂版を欠いていることである。Wilhelm Adolf Baehrensは、オリゲネスの説教のラテン語訳を出版する際に、『エレミヤ書注解』については、ラテン語訳のみが存在し、ギリシア語原典が失われた2つの説教だけを編集した。他の12篇はギリシア語テクストの影に隠れたまま、校訂されるのを待っている。今あるのは、Domenico Vallarsiの手によるものである(PL 25, 585-692)。しっかりした校訂版が提出されない限り、『エレミヤ書説教』のギリシア語テクストのための価値は制限されてしまう。

2019年1月10日木曜日

ヒエロニュムスの翻訳 Fürst, "Prinzipien und Praxis des Übersetzens"

  • Alfons Fürst, Hieronymus: Askese und Wissenschaft in der Spätantike (2nd ed.; Freiburg: Herder, 2016), 83-95.

Hieronymus: Askese und Wissenschaft in der Spaetantike
Alfons Fuerst
Herder Verlag GmbH
売り上げランキング: 24,626

4世紀後半になると、ローマ帝国が政治的・文化的に東西に分裂をし始めたために、ギリシア文学のラテン語訳の需要が高まった。アウグスティヌスがヒエロニュムスにギリシア語の聖書解釈書の翻訳を依頼したのは、まさにそうした時代のことであった。ヒエロニュムスはこうした要求に応えていったのである。

ヒエロニュムスの最初の翻訳は、380年にコンスタンティノポリスで作成したエウセビオス『年代記』のラテン語訳である。これは聖書の名前リストとアブラハム以後の出来事について簡潔にコメントしたものである。ヒエロニュムスが訳さなかった第一部はアルメニア語訳のみで伝わる。このような「歴史モノ」には、ヒエロニュムスは基本的に関心を示さない。事実、予告された同時代史もついに書かれなかった。ではなぜこれを訳したのかというと、単に翻訳するのではなく、改訂しようとしたからである。エウセビオスはトロイア征服(前1182年)からコンスタンティヌス帝の治世(326年)までをカバーしたが、ヒエロニュムスはこれにローマ史と327-378年までの歴史を付け加え、西方キリスト教世界に初めての世界史の年代便覧を与えたのだった。この翻訳は、第一に、当時の三位一体論争におけるアレイオス主義への抵抗運動と、第二に、初期修道制のプロパガンダという側面も持っていた。

釈義や修道制に関する翻訳としては、380/81年のオリゲネス『エレミヤ書説教』、『エゼキエル書説教』、『イザヤ書説教』、383/83年の『雅歌説教』、387年のディデュモス『聖霊について』、392年のオリゲネス『ルカ福音書説教』、387-390/92年の『ヘブライ人福音書』(アラム語写本を370年代にナザレで入手し、ギリシア語とラテン語に訳した)、404年のパコミオスの『規則』と11書簡集などがある。他に、389/91年の『ヘブライ語の名前について』と『ヘブライ語の地名について』があるが、前者はギリシア語の名前辞典の翻訳であり、後者はエウセビオスの翻案である。『地名』の方は、ヒエロニュムス以前にも翻訳が存在したようである。

オリゲネス神学の正統信仰に関する議論の翻訳としては、ギリシア教父の書簡の翻訳がある。エピファニオス(書簡51、91)、テオフィロス(書簡87、89、92)、リダのディオニュシオス(テオフィロス宛書簡94)などである。テオフィロスがヨアンネス・クリュソストモスを誹謗する文書も訳したが、これは『イザヤの幻視に関するオリゲネス駁論』(書簡113参照)に断片が残るのみである。しかし、この分野で最も重要なのは、オリゲネス『諸原理について』の翻訳であろう。この翻訳は、現在ではヒエロニュムス自身の引用によって伝えられる(書簡124)。論文著者によれば、ヒエロニュムスの翻訳をギリシア語原典と比較すると、ごくわずかな誤りしか見られないという。彼の翻訳は正しいだけではなく、ラテン語としても魅力的なのである。そうした意味では、ヒエロニュムスは勤勉で有能な翻訳者であった。

聖書の翻訳は三段階に分かれている。第一段階では、ローマで福音書と詩篇を改訂した(383/84年)。この時期に、教皇ダマススは西方教会の典礼をラテン語化しようとしていたが、その一環でヒエロニュムスにこれらの文書の改訂を依頼したようである。第二段階では、ベツレヘムで『ヘクサプラ』版七十人訳を基礎として旧約聖書を改訂した。このときにはヨブ記、歴代誌、詩篇、ソロモンの文書(箴言、コヘレト書、雅歌)を改訂したことが知られているが、現存するのはヨブ記、雅歌、詩篇のみである。歴代誌とソロモンの書については序文が残るのみである。ヒエロニュムスは他の文書も改訂したが、彼の存命中にすでに大部分が失われたと報告している(アウグスティヌス宛書簡134.3)。

第三段階は直接ヘブライ語テクストからの翻訳である(390年以降)。順番は相対的にしか分からないが、論文著者によれば、サムエル記・列王記、預言書、ヨブ記、エズラ記、歴代誌、詩篇、五書、ヨシュア記、士師記、ルツ記、エステル記、ソロモンの書、トビト記・ユディト記であるという。ヒエロニュムスはトビト記をアラム語から訳したと述べるが、現存する2種類のギリシア語写本とも、クムランで発見されたアラム語断片とも異なる本文型である。ヒエロニュムスの力強いラテン語はヘブライ語やアラム語の訳として適している。個々の文書でスタイルは異なってはいるが、全体的に高度に文学的である。このラテン語訳を基にしたウルガータ聖書は、1546年にトリエント公会議で正典とされ、1979年に新ウルガータに替わるまで、カトリック教会の公用聖書であった。

翻訳論。ヒエロニュムスは翻訳に関する最初の論文を書いたが、その動機は実用的なものだった。彼はエピファニオスの手紙をあまりに意訳し、歪曲したとして非難を受けていた。それに対する反論である書簡57こそが、その論文に当たる。この中でヒエロニュムスは、一般的に翻訳は意味を重視すべきだが、語順も神秘である聖書は別だと述べている。

これだけを見ると翻訳者ヒエロニュムスは一貫した態度を取っているようだが、実際にはそうではなかった。そもそも書簡57も組織的な理論書ではなく、意訳の実例を豊富に挙げている。また別の書簡では、書簡57とは反対に、聖書以外の文書でも逐語訳が必要なときがあれば、聖書でも逐語訳が適さないときがあると述べている(『ダニエル書注解』3.9.24、書簡106.3, 29, 55, 57, 60)。聖書翻訳だけに限っても、エステル記は逐語的に、ユディト記は意味を重視し、ヨブ記はその両方に配慮したと述べている。また七十人訳に基づく改訂とヘブライ語テクストからの翻訳において、「我々の理解は一致している」(書簡112.19)と述べているが、これはヘブライ語とラテン語の言語構造からいってありえない。

文学スタイルに造詣の深いヒエロニュムスとしては、ヘブライ語聖書を正しく伝えるだけではなく、ラテン語としてエレガントに伝えたいと考えていた。それゆえに、書簡57で自ら設定したルールよりも、ラテン語のルールに拘ったのである。それと同時に、ヒエロニュムスの矛盾は、ルフィヌスとの論争における立場からも説明される。ルフィヌスの向こうを張るために、常にルフィヌスの立場とは逆を行かねばならなかったのである。そして結局は、翻訳者としての長い経験から、翻訳に一貫した理論など不可能だと悟ってもいたのだろう(「エウセビオス『年代記』序文」)。

2019年1月5日土曜日

オリゲネス『エレミヤ書説教』の諸問題 Nautin, "Introduction: Chapitre 1: Histoire de texte" #3

  • Pierre Nautin (ed. and trans.), Origène: Homélies sur Jérémie (Sources Chrétiennes 232; Paris: Cerf, 1976), 1:46-99.


タイトルと説教番号(コロフォン)。オリゲネス『エレミヤ書説教』の説教14と説教15の順番は問題があり、もともとは15の方が先だった。S写本(Scorialensis)は『エレミヤ書説教』全体のタイトルはなく、篇ごとについていた。それぞれのタイトルのあとに説教番号がくる。ヒエロニュムスのラテン語訳でも篇ごとにタイトルがあるので、この翻訳が古い時代の写本を基にしたものであることが分かるが、こちらには説教番号はついていない。ここから説教番号は後代のものであり、ヒエロニュムスのタイトルが古い形を保存していることが分かる。さらに、説教が一冊にまとめられたあとに番号を振る必要はないので、番号がついたのはまだ説教が分かれていたときのことだと言える。おそらく書物のかたちではなく巻物だったと思われる。

説教番号抜きのタイトルは、『ルカ福音書説教』や『イザヤ書説教』にもある。このタイトルはオリゲネス本人の時代にさかのぼるものなのか、かなり後代のものなのか。説教3のタイトルから、本人の時代にさかのぼるものと考えられる。説教3のタイトルは、聖書の一続きの一節でありながら、奇妙なことに途中に「~まで」という語が入っている。論文著者は、このことから、このタイトルはもともとは別の箇所を指していたはずと考える。本来もっと広い範囲をカバーする説教だったが、説教自体の後半部分が失われたため、それに合わせてタイトルも変更されたのである。それゆえに、論文著者は、本来のタイトルはもっと古い時代のものだと考えた。

テクスト伝承。第一に、速記者が説教テクストを手に入れたあと、それぞれの説教はタイトルを付され、別々の巻物に書き写された。これらの巻物が普及した後に、説教集として合冊版が作成された。

第二に、ヒエロニュムスの翻訳の底本、S写本、カテーナの三者は共通の誤りを含んでいることから、同じ祖形テクストαに依拠していたと考えられる。この古い祖形テクストは、オリゲネス著作普及の中心地であるカイサリアにあり、パンフィロスとエウセビオスが見つけたテクストをひとつにしたものである。パンフィロスの図書館にあった『エレミヤ書説教』の写本は説教番号を含んでいないもので、『オリゲネス擁護』の中で引用されている。

第三に、ヒエロニュムスの翻訳はαから直接作成されたものではない。なぜなら、彼はまだこのときカイサリアに行ったことがないからである。彼はアンティオキアで祖形テクストのコピーを手に入れた。

第四に、S写本は祖形テクストに由来するが、3つの中継を経ている。まずβである。これは説教番号が振られた分冊で、説教14と15の順番を間違えている。次にγである。これはエウゾイオスがカイサリア図書館の巻物を書物に書き換える改革をしたとき(366-379年)に作成された。最後にδである。これは破損が甚だしい。

第五に、『フィロカリア』を作成したナジアンゾスのグレゴリオスとカイサリアのバシレイオスは、番号つきの写本であるβかγに依拠した。『フィロカリア』はグレゴリオスが若い頃にカイサリアにいたときに入手した抜粋なので、βである可能性が高い。

第六に、カテーナは明らかにαと似たテクストを持っているが、5世紀以降の成立なので、大多数は直接αに依拠しているのではなく、γを介していると考えられる。

出版の歴史。1623年、ローマのクイリナーレ丘のサン・シルベストロ教会の聖職者であったMichael Ghisleriは3巻本のエレミヤ書注解を出版したが、その中でオリゲネスの『エレミヤ書説教』の版とラテン語訳を作成した。これはV写本とカテーナに基づく校訂版であるが、ヒエロニュムスのラテン語訳にない箇所に留まる。

1648年、イエズス会士Balthasar CordierはS写本の存在に気づいたが、オリゲネスではなくアレクサンドリアのキュリロスの著作だと考えた。当然、ヒエロニュムスの翻訳と比較することもなかった。彼の版は最初の完全版だが、写本をわずか3週間で筆写したために、誤りを多く含んでいる。

1668年、アヴランシュ司教のHuetは、オリゲネスの聖書関連著作の版を作成する際にこの説教を含めたが、写本ではなくGhisleriとCordierの版に依拠した。

1740年、Delarue(叔父と甥)たちはオリゲネスの全著作集を作成したが、『エレミヤ書説教』については、大部分Huetの版に依拠した。しかしながら、彼らは段落番号を付したり、Ghisleriからカテーナに由来する断片の選集を採録したりもした。

1831-1848年にはC.H. Lommatzschが、1857年にはMigneがオリゲネスの著作集を作成した。彼らはDelarue版に依拠した。

ここから分かるように、20世紀以前の版は、基本的にGhisleriの用いたV写本とCordierの用いたS写本(といっても正確でないテクスト)に基づいている。

1901年、Erich KlostermannがGCS第6巻として、批判的校訂版を出版した。これは直接・間接を問わない大々的なテクスト調査に基づくものであり、その調査の結果も1897年に研究書として出版されている。ただし、Klostermannはギリシア語写本に集中的に取り組むだけで、ヒエロニュムスのラテン語訳やカテーナとの照合はしなかった。脚注では、聖書引用や他のオリゲネス著作との並行箇所が示されている。Klostermann版は長い間必携であったが、いくつかの文章は解決策もなく損なわれた状態のままになっているので、改善が期待される。

Nautinの版。SCに収められた本校訂版は、Klostermann版を基礎としている。S写本を完璧に校合したわけではないが、疑わしい点については十分な調査を行った。Nautinは、大部分で、Klostermannの見解に反して写本のテクストを維持した。Klostermannの過ちは3つある。

第一に、Klostermannはヒエロニュムスの翻訳を信頼するあまり、かなりの付加をS写本につけている。ヒエロニュムスの付加のおかげで意味が取りやすくなることもあるが、彼自身の言葉を付け加えているときもあるので、用心が必要である。そこで、Nautinは次の2つのルールを設けた。第一に、ギリシア語テクストがそれ自体で意味をなすかどうかを考慮すること。第二に、ヒエロニュムスのラテン語訳にある付加がギリシア語写本の写字生によって簡単に取り去られることが可能かどうかを考慮すること、である。

第二に、Klostermannはしばしばギリシア語写本の言葉を四角括弧に入れて取り除いてしまう。確かに、さまざまな理由でギリシア語写本に写字生の修正や付加が入ることはある。しかし、オリゲネスの文体がそもそも同じ語を文中で二度三度と繰り返すときもある。Klostermannは、そうした箇所が文法的に理解不能であるからという理由で、括弧に入れて、写字生の付加として扱ってしまう。しかし、Nautinによれば、一見理解不能な語も意味を成す場合があるかもしれないのだから、テクストを維持するべきだという。

第三に、Klostermannは正しいギリシア語文法に合わせてテクストを修正してしまう。正しくない表現でも、同じものがオリゲネスの別の著作や同時代の作品に見出されるのであれば、修正はするべきではない。

ヒエロニュムスの翻訳でのみ伝わる説教。説教ⅡとⅢはヒエロニュムスの翻訳でのみ伝わるが、実際には説教Ⅲが先でⅡがあとである。Nautinの版では、説教ⅢをL. I、説教ⅡをL. IIと表現でしている。