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2015年11月26日木曜日

ユダヤ人とユダヤ教 #2 Mason, "Jews, Judaeans, Judaizing, Judaism"

  • Steve Mason, "Jews, Judaeans, Judaizing, Judaism: Problems of Categorization in Ancient History," Journal for the Study of Judaism 38 (2007), pp. 457-512.

本エントリーでは、第2章(pp. 480-88)をまとめたい。前章で、古代にはシステムとしての「ユダヤ教」なるものは存在しなかったことを確認した(代わりに、たとえばヨセフスは、「ユダヤ人の父祖伝来の伝統(πάτρια)」「ユダヤ人の習慣(ἔθη)」という言葉を用いている。)。それゆえに、ヨセフスが記録しているアピオーンによるユダヤ人批判も、あくまで「民族(エトノス)」としてのユダヤ人を扱っているのであって、「宗教」としてのユダヤ教ではなかった。ヨセフスは、アピオーンを他宗教のメンバーとして描くことはできなかったのである。なぜなら、そのようなカテゴリーが存在しなかったからである。

西洋における「宗教」の概念が近代の産物(おそらくフランス革命やアメリカの独立戦争以降)であって、古代にはそのようなカテゴリーは存在しなかったことは、非西洋の伝統から見ればすぐに分かることである。儒教、道教、ヒンドゥー教、仏教、神道といった、さまざまな側面を含む東洋の伝統を、西洋は-ismの名をつけて宗教というカテゴリーに当てはめたが、これは西洋の信仰との比較を簡単にするために、文化のすべてを信仰システムに抽象化する試みに他ならなかった。我々が「宗教」として理解しているものは、政治、軍事、建築、社会生活、家族などといった各要素のそれぞれに浸透していたのである。

そこで論文著者は、「宗教」に近接する6つの領域を挙げている。これらは「宗教的」な古代の概念だが、現代の「宗教」が表すすべての領域と同等のものではない:

第一に、「民族(ἔθνος)」。それぞれの民族は、父祖(シュンゲネイア)伝来の固有の伝統(パトリア)に表明されている、個別の特徴(フュシス、エートス)を持ち、また神話(ミュトイ)、習慣、規範、集会、法(ノモイ、エテー、ノミマ)、そして政治形態(ポリテイア)を持っている。そうした意味で、ユダイオイもまた、エジプト人、シリア人、ローマ人と同様のエトノスなのである。

第二に、そうしたエトノスが持っている「祭儀(τὰ θεῖα, τὰ ἱερά, θρησκεία, θεῶν θεραπεία, cura / cultus deorum, ritus, religio)」である。これは、祭司、神殿、動物犠牲などを含む。また祭儀を司る祭司はしばしば、貴族やエリート階級の人間でもある。エトノスと祭儀とは必ずしも一対一対応ではなく、いくつもの祭儀を行う都市もあった。犠牲祭儀は古代においては「宗教的」な言葉(聖化、清浄、神の臨在)を最も用いるカテゴリーであるにもかかわらず、現代の意味での「宗教」とは最もかけ離れたものとなっている。

第三に、「哲学(philosophia)」。西洋の宗教に見られる多くの基本的な要素(生活上の実践と結びついた神的存在への信仰、権威ある書物の学習、倫理的な規範の奨励)が、古代の哲学にも見られる。それゆえに、フィロンやヨセフスもまた、「宗教」と最も近いカテゴリーである「哲学」の中で、我々から見れば「宗教的」なグループを哲学者として描いたのである。

第四に、「家族の伝統」。たとえば、誕生、結婚、死、法に関する初歩的な教育、文化の創造の物語、食物の聖別、死者の追悼などといった要素である。

第五に、「集会/交際(θίασοι / collegia)」。これは、教会、シナゴーグ、モスクなどに相当するもので、ある場合には祭儀的な性格を持ち、またある場合には商売上のギルドのような性格を持つ。

そして第六に、「占星術」や「魔術」。バビロニアやペルシアにおける、カルデア人やマギの得意分野として知られている。占星術も魔術も現実や運命を扱うものであり、人間の生の意味を考えることもある。魔術においては、しばしば神の名を含んだ呪文を唱えることもある。

以上のような「宗教的」な活動はどこにでもあったが、これらすべてを「宗教」として理解するという現象は存在しなかったのである。4世紀になって、キリスト教が自己規定を図るために、システムとしてのユダイスモスとクリスティアニスモスという対比をするようになり、この考え方はかなり近代的な意味での「宗教」に近かった。キリスト教的な要素は、ローマの祭儀、市民生活、哲学の学派などを急速に統合していった。しかし、論文著者によれば、それでもキリスト教は我々の「宗教」とはわずかに異なるものであり、どこまでいっても「宗教」とは近代の産物であったという。

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