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2014年9月18日木曜日

雅歌解釈をめぐるオリゲネスとユダヤ人 Clark, "Origen, the Jews, and the Song of Songs"

  • Elizabeth A. Clark, "Origen, the Jews, and the Song of Songs: Allegory and Polemic in Christian Antiquity," in Perspectives on the Song of Songs (Berlin: Walter de Gruyter, 2005), pp. 274-93.
Perspectives on the Song of Songs: Perspektiven Der Hohelidauslegung (Beihefte Zur Zeitschrift Fur Die Alttestamentliche Wissenschaft)Perspectives on the Song of Songs: Perspektiven Der Hohelidauslegung (Beihefte Zur Zeitschrift Fur Die Alttestamentliche Wissenschaft)
Anselm C. Hagedorn

Walter De Gruyter Inc 2005-08-30
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本論文は、オリゲネスの『雅歌説教』と『雅歌注解』をもとに、彼の雅歌理解を検証している。オリゲネスに2つの雅歌解釈がある:第一に、ロマ書9-11章におけるパウロの議論をもとに、ユダヤ人と異教徒とがキリスト教において一つになることを表している。第二に、教会および個人の魂のキリストとの関係性を表している。こちらでは、第一の解釈にあったユダヤ教徒と異教徒との問題は不明瞭になっている。

オリゲネスの聖書解釈。基本的なオリゲネスの聖書解釈は、3つのレベルに分かれている。すなわち、肉的=字義的、魂的=倫理的、霊的=寓意的な解釈である。聖書のすべての節にこの3つのレベルがそれぞれあるわけではなく、ある節には肉的解釈はなく、魂的・霊的解釈しかできない場合もある。また説教か注解かによって扱う解釈法も変わる。説教の場合は倫理的側面を重視するのに対し、注解では3種それぞれを用いている。ところで、寓意的解釈の理解について、D. Dawsonは新たな見解を披瀝している。彼によると、寓意的解釈とは、従来の理解のように、テクストの表面上の意味をより高次の意味に置き換えることといった受動的な解釈法ではなく、自文化にとってショッキングなテクストの内容をキリスト教的に適切なものに「飼いならす(domesticate)」するような、権力と結びついた解釈法であるという。

オリゲネスの雅歌理解。オリゲネスは、雅歌のような問題のある書物に関するユダヤ人の教授法について言及している。それによると、人は成熟した年齢になるまで、4つの書物の学習は控えるべきだという。すなわち、創世記の冒頭、エゼキエル書の最初の数章、同書の終わり部分、そして雅歌である。またオリゲネスは、ソロモンの書の学習には段階があり、まず倫理を教える箴言を、自然科学を教えるコヘレト書を、そして最後に神的な事柄への黙想を教える雅歌を学ぶべきだとしている。

雅歌に関するオリゲネスの著作。239-242年にカイサリアにおいて書かれた『雅歌説教』と、245-247年にアテーナイおよびカイサリアにおいて書かれた『雅歌注解』がある。オリゲネスの著作の中でも評価の高い両者は、前者が初心者向け、後者が上級者向けに書かれた。彼は七十人訳の雅歌を読んだため、この書を対話編のようなドラマと理解していた。どちらもギリシア語のオリジナルでは現存しておらず、『説教』はヒエロニュムス訳、『注解』はルフィヌス訳のラテン語テクストが残っている。

オリゲネスによる雅歌解釈。オリゲネスは、若者(婿)の父親が神、若者が神の子(イエス)、そして乙女(花嫁)がユダヤ人(あるいは古代イスラエル人)および異邦人と解釈した。若者による乙女への球根は、ユダヤ人および異教徒をキリスト教において一つにすることを意味する。そしてさまざまな箇所をこの三者に見立て、律法と預言者(旧約聖書)も重要であるが、キリストの知恵(新約聖書)がそれを上回るという立論をしていく。あるいは、乙女を異教徒、コーラスであるエルサレムの乙女たちをユダヤ人と見なすこともある。この場合、「エルサレムの乙女たちよ、私は黒いけれども愛らしい」(1:5)という乙女の台詞は、異教徒が旧約の父祖たちのことすら知らない(=黒い)ことを、ユダヤ人が軽蔑していることになる。しかしながら、別の場所ではそのエルサレムの乙女たちもまた非難の対象となっている。

オリゲネス『ロマ書注解』におけるユダヤ人・異邦人理解。雅歌に関するオリゲネスの見解は、『ロマ書注解』にも多く現れている。この注解は『雅歌説教』『雅歌注解』とほぼ同時期に書かれている。ロマ書3章および11章に出てくる、ユダヤ人と異教徒とがキリスト教において一つになるというパウロの見解を、オリゲネスは自身の雅歌に関する寓意的解釈に結び付けているのである。この注解もルフィヌスによるラテン語訳しか残っていない。ところで、この注解では、ロマ書におけるパウロによるユダヤ人批判があまり明確に押し出されていない。この理由を、C.H. Bammelは、オリゲネスはパウロ同様ユダヤ人批判をしていたが、それは訳者ルフィヌスの関心ではなかったため、ルフィヌスが改変したと考えた。一方、J. McGuckinは、オリゲネス自身がパウロのユダヤ人批判に対し批判的だったため、オリゲネスがパウロの論旨を改変したと考えた。つまり、ルフィヌスによる改変かオリゲネスによる改変かが議論されているわけだが、原典が存在しないので確認はできない。

オリゲネスと当時のユダヤ人との関係。オリゲネスは注解をする際に七十人訳を用いている。彼はユダヤ人との接触を持っていたが(Hiullusというユダヤ人教師がいた)、それをあまりいい関係でなかったと見る学者と、いい関係だったと見る学者とがいる。彼のユダヤの聖書解釈に関する知識についても判断が分かれている。彼のヘブライ語能力に関しては、多くの学者が低かったと見ている。著者は、少なくとも雅歌に関しては、当時のカイサリアのユダヤ人の解釈がオリゲネスに影響していると考えた(ラビ・アキバの解釈のパラフレーズなどが見つかっているため)。

グノーシス・マルキオン派との関係。オリゲネスの時代には、聖書のグノーシス的、マルキオン派的な解釈は、教会の「正統派」にとって大きな脅威であった。こうした異端のひとつの特徴としては、旧約聖書軽視と、それに伴う新約聖書偏重とがある。彼らは旧約に出てくる登場人物たちの「ふさわしくない」振る舞いや、神の擬人化などを排除しようとしていた。しかしオリゲネスはこうした理解を批判し、旧約の重要性を訴えた。オリゲネスによれば、こうした異端とユダヤ人とは、共に聖書の読み方が「字義的」すぎるのだった。聖書の「霊的」な意味に気づけば、「旧約」もまた新たな意味を獲得し、旧新約聖書のいずれもが「新約」になるとオリゲネスは考えた(『民数記説教』9.4)。

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