- Michael J. Broyde, "Defilement of the Hands, Canonization of the Bible, and the Special Status of Esther, Ecclesiastes, and Song of Songs," Judaism 44,1 (1995): 65-79.
ソロモンの書と呼ばれるエステル記、コヘレト書、雅歌は、ヘブライ語聖書の中でも神の名を含まない書物として、ラビ・ユダヤ教において、しばしば他の書物とは異なった扱いを受けてきた。中でも、ミシュナー・キルアイム15.6、同ヤダイム3.5、およびタルムード・メギラー7aにおいて、「すべての聖書の書物は手を汚すが、あるラビによればコヘレトは手を汚さない。また別のラビによれば雅歌は手を汚さない。さらにまた別のラビによればエステルは手を汚さない」といった風に区別をつけられている。
この「聖書が手を汚す」とはどういうことか。タルムード・シャバット14a-bの解釈によると、あるときラビたちは、人々がテルマーと呼ばれる聖なる食物を、聖書の巻物を入れる聖櫃に入れ、「これらは共に聖なるものだ」と言っているのを知った。食べ物を聖書の巻物と共に置いておくと、小動物が来て聖書まで食べてしまうことを恐れたラビたちは、「聖書は手を汚す」という法令を出した。すると、聖書を手で触ってからテルマーに触ると、テルマーは不浄なものになってしまう。逆に、テルマーも触ると手が汚れるので、それに触ってから聖書を触ることも禁じられた。こうしてラビたちは、人々がテルマーを聖書の巻物と共に聖櫃に入れないようにしたのである。
ここから、聖書の書物は手を汚すものだという条件が規定されたのだが、すると、今度はソロモンの書が手を汚さないとはどういうことかという疑問が出てきた。つまり、聖書の書物であれば「手を汚す」のであるから、手を汚さないソロモンの書は正典ではないのではないかという、さらなる解釈が生まれてきたのである。著者はユダヤ教の伝統的な聖書注解者たちの解釈を渉猟した結果、「ソロモンの書が手を汚さない」ことの解釈に関して、二つのグループがいることを示している。
第一は、ソロモンの書は正典には入っていないと考えたグループである。つまり、聖書であれば手を汚すのだから、手を汚さないソロモンの書は正典ではないということである。これはラビ・ヨム・トブ・アシュベッリやラヴ・ハイ・ガオンらの見解である。彼らによれば、エステル記はプリム祭で読まれるほどの、ある種の聖なる書物としての権威を持っているのは確かだが、それは成文律法としての権威ではなく、口伝律法としての権威にすぎないということになる。
一方、第二は、ソロモンの書物は正典には入っているが、霊感を受けて書かれたものではないと考えたグループである。つまり彼らが「ソロモンの書が手を汚さない」というテーマにおいて問題としているのは、正典か否かではなく、霊感の有無である。これは『セフェル・ハエシュコル』の著者、マイモニデス、ラビ・ダヴィッド・イブン・ズィムラらの見解である。イブン・ズィムラは、ソロモンの書はソロモン晩年の作であり、彼は異邦人の妻に言われるまま偶像を崇拝していた頃にそれらを書いたので、聖霊はソロモンから去ってしまっていたのだと説明している。
第二のグループはさらに二つの下位区分に分けられる。両者はソロモンの書の正典性は共に認めた上で、ひとつは、ソロモンの書は霊感を受けたものではないので、他の書物とは区別されるというもの。もうひとつは、ソロモンの書は霊感を受けたものではないが、他の書物と同等に扱われるべきというものである。前者の見解に従って、エステル記を巻物に書く際もその最初と最後のところに(他の書物のように)空欄を作る必要はないし、保存の際も上に布をかける必要はないといった差異化を図ったアシュケナジーのグループがいた。一方、後者の理解としては、ソロモンの書には神の名前が出てこないが、だからといって他の書物と異なった扱いを受けるべきではなく、ソロモンの書は、他の書物の中で神の名前が出てこない一節と同じ価値を持っていると考えた。特に雅歌には、2:7、3:5、8:6において神の名に等しい言葉が出てくるので、雅歌は他の書物のように扱われるべきだとしている。
以下は読後の感想だが、日本人から見ると、自分たちが大切にしている正典を触ると「手が汚れる」という感覚はよく理解できない。しかし、そういう条件が出来上がったとき、それをある書物が正典であるかないか、あるいは正典ではあっても霊感を受けているかいないかを定める基準にしてしまうというのがラビ・ユダヤ教の面白いところだと思った。
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