- Jeffrey L. Rubenstein, "Social and Institutional Settings of Rabbinic Literature," in The Cambridge Companion to The Talmud and Rabbinic Literature, ed. Charlotte Elisheva Fonrobert and Martin S. Jaffe (Cambridge: Cambridge University Press, 2007), pp. 58-74.
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タナイーム期(70-220年)。まだ制度としての学校はなく、むしろ小さな町や村に点在する、「師匠を囲む弟子たちのサークル(disciple circle)」と呼ぶべき状態だった。場所も、師匠の家であったり、個人宅を間借りしたりしていた。徒弟制度であり、弟子は師匠と生活を共にした。タームとしては、「ベート・ミドラッシュ」という言葉があったが、これはまさに師匠の家や勉強用の場所のことを指すものだった。たくさん人が集まるときは、富裕な人の家の二階を借りることもあった(ミシュナー、アボット1.4)。この時期に、ベート・ヒレルおよびベート・シャマイという「学派」があったが、これももとは単に「家」を意味していたと思われる。ラビはしばしば裁判官の役割も担ったが、司法制度はローマが握っていたため、彼らが扱った案件はあくまで宗教上のQ&Aについてだった。
アモライーム期(パレスチナ、220-425年)。ラビの教育はベート・ミドラッシュで行なわれた。これ以外の用語として、「ベート・ヴァアッド(集会所)」と「スダル(ホール)」がある。共にイルシャルミに出てくる言葉である。この期の特徴としては、ラビたちがシナゴーグにいるようになったことである。それまでシナゴーグは、あくまで普通のユダヤ人の祈りの場所であり、指導者は地元の富裕な名士などであった。一方で、ベート・ミドラッシュはラビや弟子たちが集まる学習の場所であった。ところが、ラビたちがユダヤ教の宗教生活の中で次第に影響力を増してきたため、シナゴーグでも必要とされるようになったのである。ラビたちは、裁判官、徴税人、共同体の長などの役割も担った。4世紀の終わりから5世紀の終わりにかけて、次第に小さなアカデミーが形成されていった。
アモライーム期(バビロニア、200-550年)。ラビの教育の場所は、パレスチナでの様子とほぼ同じだが、学習の場所はバブリにおいては、「ベ・ラヴ」と呼ばれている。弟子たちは比較的自由に、ある師匠のもとから別の師匠のもとへと移っていった。師匠もそうした行動を奇異なものとは受け取らなかった。シナゴーグとラビのつながりは、パレスチナと比べると、より薄いものだった。バビロニアでは、ラビたちが一般人に教える場として、「ピルカ」と呼ばれる場所があった。対象が一般人であるため、ピルカでは教えていいことと悪いことがあった。あるラビがピルカで講演するときに、別のラビが出席して講演を聞いてくれることは名誉なことであった。
サヴォライーム=スタマイーム期(550-800年)。ラビたちの常設の学塾として、「イェシバー」が制度化された。イェシバーの長はローシュ・イェシバーと呼ばれた。ババ・カマ117a-bによると、イェシバーは階層化されており、優れた者が前の列に座り、たくさん座布団を敷いていたが、ある議題についての問答で回答に失敗すると、後ろの列へと下がっていき、座布団も取られていってしまうのだった。イェシバーでの場所取りは熾烈な争いだったという。別々の離れたところにあるイェシバーの者たちが年毎にひとところに集まって、ある議題について共に学びあう、「カラー」という集会が設けられていた。ケトゥボット106aによると、ここでの講演者が喋るときには、横に13人の者が並び、講演者がしゃべったことを一斉に繰り返し、人間拡声器となったという。
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