- W. Schwarz, "Discussions on the Origin of the Septuagint," in Id., Principles and Problems of Biblical Translation: Some Reformation Controversies and Their Background (Cambridge: Cambridge University Press, 1970), 17-44.
Principles and Problems of Biblical Translation: Some Reformation Controversies and their Background W. Schwarz Cambridge University Press 2009-01-08 売り上げランキング : 1099367 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
先日読んだ第1章に引き続いて、七十人訳の成立縁起に関して書かれている第2章を読みました。この部分は再読でしたが、やはりいい論文は何度読んでも新しい発見があります。
Schwarzは、ここでは『アリステアスの手紙』、フィロン、ヒエロニュムス、アウグスティヌスの四者の思想を取り上げて、実に手際よく料理しています。この論文を読むにあたっては、まず大枠として、第1章で示された、翻訳における「文献学的原理」(philological principle)と「霊感的原理」(inspirational principle)という二項対立に注意が払われなければならないでしょう。この二項対立の中で、アリステアスとヒエロニュムスは前者に、フィロンとアウグスティヌスは後者に配置されています。まず『アリステアスの手紙』では、翻訳作業があくまで人間の手によって行われたことが強調されていますが、一方ユダヤ教と新プラトン主義の影響下にあるフィロンの著作では、七十人訳の翻訳には神の介入があったことが強調されました。つまり七十人訳者たちは単なる人間の翻訳者としてではなく、いわば預言者として翻訳をしたということになるのです。そしてそうであるならば、当然その訳業の産物である七十人訳もまた新たな啓示というにふさわしく、まさに神の言葉そのものといえるのです。しかしここで注意せねばならないのは、フィロンのいう預言者とは単に神の言葉を人々に伝える道具としての役割だけでなく、それを解釈=翻訳する能動的な役割をも持った存在でもあったことです。つまり預言と翻訳とは別のはたらきを持っているといえます。フィロンの七十人訳に対する神聖視はその後アウグスティヌスに引き継がれていきますが、一方で彼の預言者理解はヒエロニュムスに引き継がれていくことになります。フィロンは「霊感的原理」側ではありますが、「文献学的原理」側のヒエロニュムスにも影響を与えているわけです。
さて、こうして「文献学的原理」と「霊的原理」はすでにキリスト教成立以前から用意されていたわけですが、この二つが本当の意味で衝突するのは4世紀になってからのことでした。フィロンの「霊感的原理」に対し、ヒエロニュムスは最初はほのめかし程度に、やがてはっきりと七十人訳の霊感を否定していきます。というのも、彼はヘブライ語テキストと七十人訳とが相違していることを問題にしたわけです。なぜ七十人訳は原典であるヘブライ語テキストから異なるのか。1)写字生のミス、2)七十人訳者自身の付加。このうち七十人訳者自身の付加はさらに二種類に分けられます。a)文体上の必要性による付加、b)聖霊の権威による付加。本当に七十人訳が霊感を得て訳されてものであるならば、後者は問題ないでしょうが、少なくとも前者は言語のシンタックスに強いられて言葉を付加しているわけですから、このことは七十人訳が人間の手によるものであることを示しています。翻訳に必要なのは原典の理解と言語能力であって、預言ではないのです(「翻訳と預言とは異なる」)。
また逆に、新約聖書における旧約引用が七十人訳ではなくヘブライ語テキストと一致していることは、ヘブライ語テキストの優位を証明するものとなります。とはいえヒエロニュムスは七十人訳者が訳したのは五書だけであって、他の文書には七十人訳の霊感が及んでいないことを知っていました。すると逃げ道として、五書はともかく他の文書が七十人訳の権威を主張することはできず、翻って考えれば五書だけには権威があるというロジックも成り立ちます。このような七十人訳擁護ともとれることを交えないとならないのは、当時七十人訳派の敵対者たちからヒエロニュムスがしばしば非難を浴びせられていたからでした。しかし最終的には、プトレマイオス王をあざむくために七十人訳者たちが訳文を変えていたという『アリステアスの手紙』の記述から、ヒエロニュムスは七十人訳全体の霊感を否定します。
また新約聖書における旧約引用の問題は非常に重要で、なぜなら七十人訳と同じように霊感を得ている使徒たちが七十人訳と異なるとなれば、聖霊が矛盾していることになってしまいます。しかしそんなことはありえないので、七十人訳よりあとの使徒の方が正しいのは当然のことになります(神学的理由)。一方『アリステアスの手紙』やヨセフスの記述には、フィロン以降の七十人訳霊感説の源となった、「七十人訳者が小部屋に分かれて訳したにもかかわらず訳文が一致した」というくだりが出てきません(歴史的理由)。このように、ヒエロニュムスによれば、神学的理由からも歴史的理由からも、七十人訳が霊感を受けていたなどということは言えないということになります。
ちなみにこのあたり、Schwarzはヒエロニュムスに関する記述に熱が入っており、次のように(わりと感動的に)述べています。
It is the philologist's method to compare the different texts and to rely on the ability of human understanding to find out the truth. In this research there can be no halt. When after a long period of uncertainty he at last found what he believed to be the truth, he drew the logical conclusion, even when this meant a fight against a long tradition and against strong opposition to all new ideas and thoughts. (p.32)さてヒエロニュムスのこの「文献学的原理」に対し、アウグスティヌスは「霊感的原理」で応えます。彼はヒエロニュムスのヘブライ語からの翻訳を歓迎しませんでした。アウグスティヌスは七十人訳にヘブライ語と異なる訳文があることは知っていましたが、教会が七十人訳(あるいは古ラテン語訳)を統一的に読んでいる限り、そうした違いは問題にならないと考えていたからです(ちなみに彼はヘブライ語はできません)。そこにヒエロニュムスの新しい翻訳が現れるとなると、最悪の場合教会の分裂をも引き起こしかねないと危惧したのです(教会の事情)。同時に神学的にも、アウグスティヌスはフィロンの説を受け入れ、七十人訳の霊感性を主張しました。七十人訳が霊感を得て訳されたものだとすると、それは原典を更新したものであるということになります。アウグスティヌスによれば、ヒエロニュムスの訳を受け入れることができないのは、彼が更新される前のテキスト、すなわちヘブライ語テキストを底本にしているからであり、本来であれば最新版である七十人訳を底本として訳さなければならないのです。このあたり、当時の最高の知性同士のぶつかりあいなわけですから、古代の議論として簡単に済ますのではなく、双方の言説に隠れているロジックを読み解いていかなければなりません。その点で、Schwarzの説明は実に明晰なものでした。