- S. P. Brock, "Abraham and the Ravens: A Syriac Counterpart to Jubilees 11-12 and Its Implications," Journal for the Study of Judaism 9 (1978), pp. 135-52.
本論文において、著者は『ヨベル書』11-12章におけるアブラハムの物語に関して、『ヨベル書』と、それと似た内容を保存するシリア語伝承とを比較することで、後者が実は単なる前者の翻訳ではなく、むしろ同じソースを共有していること、なおかつ後者の方が元来の解釈意図に沿っていることを示している。このシリア語伝承は、『カテーナ・セウェリ(Catena Severi)』と、エデッサのヤコブによるリタルバのヨハネ宛て書簡に保存されている。
『カテーナ』と『ヤコブ書簡』とは、共に同じソースに依拠していると考えられる。論文著者は、この2つのシリア語伝承と『ヨベル書』とを比較しつつ、いくつかの類似点と相違点とを明らかにしている。そのうち特に以下のことを挙げておきたい:
- 両者共に、アブラハムが異教の神殿を燃やしたときの年齢を60歳にしている;
- 『ヨベル書』はアブラハムによる神殿放火と、ウルからの出発とを結びつけていないが(実際、神殿放火のあとも彼らは3年間ウルに住み続けている)、シリア語伝承はこの2つの出来事を因果関係として結びつけている。
- 『ヨベル書』では、アブラハムがハラン移住後に父テラと14年間共に住んだことが明らかにされているが、テラの死には触れられていないのに対し、シリア語伝承では、ウル出発から14年後にテラがハランで死に、そのときアブラハムは74歳だったことが言及されている。
こうした比較から、論文著者は、シリア語伝承の方が『ヨベル書』よりも、特に時系列の矛盾の解決に関して、物語の発展における古代の状態を維持していると述べる。では、その時系列の矛盾とは何か。
創世記11章から12章にかけて、アブラハムの年齢とテラの年齢には矛盾がある。11:26において、テラは70歳のときにアブラハムが生まれたとされており、11:32では、テラは205歳で死んだことになっている。しかしながら、テラの死に言及したあとの12:4で、アブラハムがハランを75歳で出発したことになっているが、それだとテラはアブラハムのハラン出発のあとさらに60年生きていたことになってしまう。この矛盾は早くから知られており、『創世記ラバー』39:7や使徒行伝7:4などに、その解決の一端を見ることができる。最もラディカルなのはサマリヤ五書で、何とテラが死亡した年齢を変えて、145歳で死んだことにしている。こうすると、70歳(アブラハムが生まれたときのテラの年齢)+75歳(アブラハムがハランを出発したときの年齢)=145歳となり、アブラハムはテラが145歳で死んでからハランを出発したことになる。
しかし、これでは聖書本文を改変せざるを得なくなる。聖書本文を変えずにこの矛盾を解消する方法としては、2つ考えられる。第一に、バル・ヘブラエウスのように、アブラハムは75歳のときに一度ハランを出発し(テラ145歳)、その後ウルに戻ってきて、テラが205歳で死んでから(アブラハム135歳)、再びハランを出発したという解釈である。この二度の出発のうち、聖書は最初の出発のみに言及しているとバル・ヘブラエウスは考える。
第二に、ヒエロニュムスのように、テラが死んだ205歳のときにアブラハムが135歳ではなく75歳であるようにするために、アブラハムが60歳の時に火をくぐることで生まれ変わり、そこを0歳として数えなおすという解釈である。つまり、ヒエロニュムスは火事に関わる出来事がアブラハムが60歳のときに起こったことだという解釈を保存しているわけだが、すでに見たように、60歳という数字は『ヨベル書』にもシリア語伝承にも残されている。
ただし、ヒエロニュムスはテラの死との関係性をもとに60歳という数字を出しており、テラの死はシリア語伝承でも言及されているわけだが、『ヨベル書』には言及がないので、論文著者は、『ヨベル書』は60歳という数字を知っているだけにすぎず、その背後にある解釈のロジックには無知であると主張する。また、ウルからの出発と火事の出来事とを因果関係で結んでいることから、ヒエロニュムスが保存する伝承は、『ヨベル書』よりもシリア語伝承により近いものだと言える。
他にもいくつかの理由から、論文著者は、以下のような結論を導いている:第一に、シリア語伝承は、『ヨベル書』そのものではなく、『ヨベル書』が下敷きにしたソースに由来するものであること、第二に、両者は創世記の時系列の矛盾を解消するために腐心しているが、シリア語伝承の方がより古い状態を保存しており、『ヨベル書』はその解釈の背後にある論理を無視したまま、いくつかの要素を再利用しているにすぎないこと、などである。
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