- Manlio Simonetti, Biblical Interpretation in the Early Church: An Historical Introduction to Patristic Exegesis (trans. John A. Hughes; Edinburgh: T&T Clark,1994 [1981]), pp. 86-109.
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西方の聖書学は、2世紀のアフリカで聖書が部分的にラテン語訳されると、次第にラテン世界で広まっていった。初期の注解者としてはローマのヒッポリュトゥスがおり、彼は詩篇を寓意的に解釈した。ノウァティアヌスは、ユダヤ人の字義的解釈を批判した。ペッタウのウィクトリヌスは聖書に出てくる数字を神秘主義的に解釈した。ただし、こうしたラテン世界の解釈は、同時代のギリシア世界でエウセビオスらによってなされていた解釈にはまるで匹敵しないものだった。
西方の聖書学もまた、東方のモデルを受けついで、説教、組織的な注解、そして問答の三形式で行なわれた。ラテン教父たちは、ヒエロニュムスを除いて、聖書の文献学的・歴史的な側面に関心を持たず、概して寓意的解釈にいそしんだ。ヒラリウスもアンブロシウスも、オリゲネスとフィロンの影響下で典型的なアレクサンドリア的解釈を行なった。とりわけアンブロシウスは、字義的・倫理的・神秘主義的な意味を区別した上で、オリゲネス同様に神秘主義的な意味を最も重視した。またヒエロニュムスやルフィヌスによるオリゲネス説教のラテン語訳も、ラテン世界にアレクサンドリア的な聖書解釈を広める一助となった。
一方で、アンティオキア学派からの影響は大きくはなかった。ただし、ウィクトリヌスやエクラヌムのユリアヌスらは、モプスエスティアのテオドロスらの影響で、字義的解釈を多用している。といっても、彼らも雅歌における恋人たちを、キリストと教会の比喩において理解していた。いうなれば、多くのラテン教父は、あるときは寓意的解釈をやめて字義的に解釈するようになるし、またあるときはアレクサンドリア風の寓意的解釈を求めたのだった。
4世紀のマリウス・ウィクトリヌスは、文献学や文学の知識を持った異教徒の文法学者だったが、長じてからキリスト教に改宗した。彼はギリシア語に堪能だったために、オリゲネスらのギリシア教父の聖書解釈を自分で学ぶことができた。彼はさまざまなラテン語テクストを手元におきつつ、パウロ書簡の字義的な解釈を基にした注解を書いた。彼のパウロ書簡注解には二つの特徴がある:第一に、旧約聖書に関する知識が乏しいこと、そして第二に、同時代のパウロ書簡への関心の高まりと軌を一にしていることである。事実、ウィクトリヌスの時代には、アンブロシアステル、ペラギウス、ブダペスト写本、ヒエロニュムス、ルフィヌス、そしてアウグスティヌスといった教父たちがパウロ書簡の注解を発表している。
ドナティストであったアフリカ人ティコニウスは、聖書解釈の7つのルールをもうけた。第一に、聖書は、キリストに言及するときに、キリストとその体である教会とを分けていない。第二に、聖書が言及する教会とは、よき人々と悪しき人々という二つの部分からできている。第三に、ローマ書とガラテヤ書とで矛盾している一節は、律法から信仰へと移ったためである。第四に、聖書はしばしば部分から全体へ、また全体から部分へと移る。第五に、聖書の時系列の矛盾は換喩法によって解決である。第六に、聖書はしばしば、より広い範囲をカバーするはずの概念を、あえて一つの重要なときに配置する。第七に、聖書は、悪魔に言及するときに、悪魔とその体である悪に属する人々とを分けていない。
ティコニウスは黙示録に関する注解を書いたが、これは同時代のペッタウのウィクトリヌスのものに比べると、より寓意的で霊的な解釈であった。ウィクトリヌスは千年王国説が基づいている箇所については字義的に解釈していたが、ティコニウスはそれすらも寓意的に解釈することで、実質的には千年王国説を成立しないものにしてしまったのである。
ヒエロニュムスの聖書解釈は、特に初期においては、オリゲネス、ディデュモス、そしてアポリナリオスらのそれをパラフレーズしたものにすぎなかった。彼はそのことを批判されると、自分の注解はラテン語読者に東方の異なった聖書解釈を示すことにあるのだと反論した。しかし、ヒエロニュムスは文法学者ドナトゥスに鍛えられ、オリゲネスの文献学に触れたことで、ヘブライ語テクストからの聖書翻訳を始めるに至った。
ヒエロニュムスは、オリゲネス論争が始まると、反オリゲネス派にまわる。そのときに、彼はアンティオキア学派の文献学的・言語学的な解釈という新しい尺度を自身の聖書解釈に取り入れた。彼はこうして、アンティオキア学派に従って、アレクサンドリア学派の恣意的な寓意的解釈への批判をする一方で、オリゲネス由来の聖書の三重の意味(歴史的、倫理的、霊的)をも認めるようになり、その注解は一貫性を欠くようになった。ヒエロニュムスの聖書解釈は、中庸であるゆえにとりとめがなく、その寓意的解釈には必然性がない。いうなれば、ヒエロニュムスの素晴らしさは、聖書解釈の方法論の一貫性や独創性ではなく、文献学的な視点や素材の豊富さにあるといえる。
若い頃には聖書に感心していなかったアウグスティヌスは、アンブロシウスの影響下で寓意的解釈を強く押し進めた人物である。彼は極めて修辞学的な繊細さを持ち合わせており、それを教会における説教で、比較的学問のない信徒たちを霊的に励ますために発揮した。これは、学問的かつ文献学的な性格のヒエロニュムスとは大きく異なる点であった。彼の基本的な解釈法は、アレクサンドリアの伝統に則った強い寓意的解釈だが、生涯の中で複数回行なっている創世記注解を比較すると、後期には寓意的でない解釈にも理解を示している。彼はひとつの聖書箇所に複数の解釈があることを認め、それを神意として受け入れた。彼の理解では、それは神が聖書テクストをより豊かにするために施した工夫だったのである。
西方の聖書学もまた、東方のモデルを受けついで、説教、組織的な注解、そして問答の三形式で行なわれた。ラテン教父たちは、ヒエロニュムスを除いて、聖書の文献学的・歴史的な側面に関心を持たず、概して寓意的解釈にいそしんだ。ヒラリウスもアンブロシウスも、オリゲネスとフィロンの影響下で典型的なアレクサンドリア的解釈を行なった。とりわけアンブロシウスは、字義的・倫理的・神秘主義的な意味を区別した上で、オリゲネス同様に神秘主義的な意味を最も重視した。またヒエロニュムスやルフィヌスによるオリゲネス説教のラテン語訳も、ラテン世界にアレクサンドリア的な聖書解釈を広める一助となった。
一方で、アンティオキア学派からの影響は大きくはなかった。ただし、ウィクトリヌスやエクラヌムのユリアヌスらは、モプスエスティアのテオドロスらの影響で、字義的解釈を多用している。といっても、彼らも雅歌における恋人たちを、キリストと教会の比喩において理解していた。いうなれば、多くのラテン教父は、あるときは寓意的解釈をやめて字義的に解釈するようになるし、またあるときはアレクサンドリア風の寓意的解釈を求めたのだった。
4世紀のマリウス・ウィクトリヌスは、文献学や文学の知識を持った異教徒の文法学者だったが、長じてからキリスト教に改宗した。彼はギリシア語に堪能だったために、オリゲネスらのギリシア教父の聖書解釈を自分で学ぶことができた。彼はさまざまなラテン語テクストを手元におきつつ、パウロ書簡の字義的な解釈を基にした注解を書いた。彼のパウロ書簡注解には二つの特徴がある:第一に、旧約聖書に関する知識が乏しいこと、そして第二に、同時代のパウロ書簡への関心の高まりと軌を一にしていることである。事実、ウィクトリヌスの時代には、アンブロシアステル、ペラギウス、ブダペスト写本、ヒエロニュムス、ルフィヌス、そしてアウグスティヌスといった教父たちがパウロ書簡の注解を発表している。
ドナティストであったアフリカ人ティコニウスは、聖書解釈の7つのルールをもうけた。第一に、聖書は、キリストに言及するときに、キリストとその体である教会とを分けていない。第二に、聖書が言及する教会とは、よき人々と悪しき人々という二つの部分からできている。第三に、ローマ書とガラテヤ書とで矛盾している一節は、律法から信仰へと移ったためである。第四に、聖書はしばしば部分から全体へ、また全体から部分へと移る。第五に、聖書の時系列の矛盾は換喩法によって解決である。第六に、聖書はしばしば、より広い範囲をカバーするはずの概念を、あえて一つの重要なときに配置する。第七に、聖書は、悪魔に言及するときに、悪魔とその体である悪に属する人々とを分けていない。
ティコニウスは黙示録に関する注解を書いたが、これは同時代のペッタウのウィクトリヌスのものに比べると、より寓意的で霊的な解釈であった。ウィクトリヌスは千年王国説が基づいている箇所については字義的に解釈していたが、ティコニウスはそれすらも寓意的に解釈することで、実質的には千年王国説を成立しないものにしてしまったのである。
ヒエロニュムスの聖書解釈は、特に初期においては、オリゲネス、ディデュモス、そしてアポリナリオスらのそれをパラフレーズしたものにすぎなかった。彼はそのことを批判されると、自分の注解はラテン語読者に東方の異なった聖書解釈を示すことにあるのだと反論した。しかし、ヒエロニュムスは文法学者ドナトゥスに鍛えられ、オリゲネスの文献学に触れたことで、ヘブライ語テクストからの聖書翻訳を始めるに至った。
ヒエロニュムスは、オリゲネス論争が始まると、反オリゲネス派にまわる。そのときに、彼はアンティオキア学派の文献学的・言語学的な解釈という新しい尺度を自身の聖書解釈に取り入れた。彼はこうして、アンティオキア学派に従って、アレクサンドリア学派の恣意的な寓意的解釈への批判をする一方で、オリゲネス由来の聖書の三重の意味(歴史的、倫理的、霊的)をも認めるようになり、その注解は一貫性を欠くようになった。ヒエロニュムスの聖書解釈は、中庸であるゆえにとりとめがなく、その寓意的解釈には必然性がない。いうなれば、ヒエロニュムスの素晴らしさは、聖書解釈の方法論の一貫性や独創性ではなく、文献学的な視点や素材の豊富さにあるといえる。
若い頃には聖書に感心していなかったアウグスティヌスは、アンブロシウスの影響下で寓意的解釈を強く押し進めた人物である。彼は極めて修辞学的な繊細さを持ち合わせており、それを教会における説教で、比較的学問のない信徒たちを霊的に励ますために発揮した。これは、学問的かつ文献学的な性格のヒエロニュムスとは大きく異なる点であった。彼の基本的な解釈法は、アレクサンドリアの伝統に則った強い寓意的解釈だが、生涯の中で複数回行なっている創世記注解を比較すると、後期には寓意的でない解釈にも理解を示している。彼はひとつの聖書箇所に複数の解釈があることを認め、それを神意として受け入れた。彼の理解では、それは神が聖書テクストをより豊かにするために施した工夫だったのである。
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