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2019年9月28日土曜日

エノク派とクムラン教団 Collins, "'Enochic Judaism' and the Sect of the Dead Sea Scrolls"

  • John J. Collins, "'Enochic Judaism' and the Sect of the Dead Sea Scrolls," in The Early Enoch Literature, ed. Gabriele Boccaccini and John J. Collins (Supplements to the Journal for the Study of Judaism 121; Leiden: Brill, 2007), 283-99.

『エノク書』の最古の写本は死海文書中からいくつか発見されている。それどころか初期のエノク的文書はクムランの党派的文書と類似性を持っている。超自然的な力への興味や選ばれたグループの歴史神学については、「週の黙示録」(『エノク書』93:1-10, 91:11-17)や『動物の黙示録』(『エノク書』85-90)に見られるが、これらは『ダマスコ文書』の冒頭と比較できよう。ここから、そしてクムランの党派的文書の著者たちはエノク的文書に親しみ、影響を受けていたと見なされている。Gabriele Boccacciniによれば、エノク派ユダヤ教とはエッセネ派の主流のことであり、クムラン共同体はそこから出た過激派だという。論文著者はこの見解に反対している。

死海文書を書いた集団はエッセネ派だとされてきた。エッセネ派仮説の最も強力な基礎は『共同体の規則』におけるヤハドの描写である。つまりエッセネ派仮説はこのように共同体の構造について語る文書によるものであって、エノク的文書のようにそれをしない文書からの影響は希薄である。またプリニウス、フィロン、ヨセフスらのエッセネ派に関する記述はヘブライ語の規則本と完全な一致を見ない。

死海文書に描かれているのはマカベア諸書に描かれているハシディームであるという説も出てきた。これは党派の起こりがハスモン家による大祭司制に対する反発と関係しているという状況証拠に基づく見解である。そして研究者の中には、ハシディームは『エノク書』の黙示録的部分やダニエル書の著者であると考える者もいる。つまり、エノク文学の伝達者はクムラン共同体の先行者だとする見解である。しかしながら、ハシディームに関する言説は極めて仮説的であり、またマカベア諸書におけるハシディームへの言及が黙示録的アイデアを含んでいない。

Hartmut Stegemanは悪の祭司と偽りの人とを区別し、偽りの人はハシディーム、その支持者はのちのパリサイ派であり、一方で義の教師の支持者はエッセネ派であると主張した。Stegemanによれば、クムラン共同体は義の教師による運動と同一視できず、義の教師が設立した「エッセネ派ユニオン」とでもいうべきもののひとつに過ぎない。Stegemanはエノク派文学については触れていない。

Jerome Murphy-O'Connerは、『ダマスコ文書』の「ダマスコ」は実際のダマスコではなくバビロニアの暗号だと主張したことで知られている。彼は、義の教師の支持者も偽りの人の支持者も共にエッセネ派であるが、前者が砂漠に赴いてクムラン共同体を設立したのに対し、後者は非クムラン的なエッセネ派となった。彼の見解は『共同体の規則』がクムラン共同体だけのものだと無批判に受け入れてしまっている。

Philip Daviesは『ダマスコ文書』はクムラン共同体に先立つエッセネ派共同体だと考える。つまり、エッセネ派をクムラン以前とし、クムランのエッセネ派はエッセネ派の主流派からの派生と捉えるということである。Florentino Garcia MartinezやAdam van der Woudeは、エッセネ派の起源とクムラン共同体の起源を区別する。後者はエッセネ派運動の内部で起きた分派だったというのである。

Gabriele Boccacciniは、エッセネ派はクムラン共同体のみならずエノク派ユダヤ教をも含むと主張した。ここでの「エノク派ユダヤ教」とは、彼の師Paolo Sacchiの言う「黙示録的」とほぼ同義で、悪とは人間の選択能力に先立って自立的にあるものだという「生成的アイデア」によって特徴付けられる。「エノク派ユダヤ教」はエノク文学だけにあるのではなく、エノクが中心的な人物ではない文書、たとえば『ヨベル書』『十二族長の遺訓』『第四エズラ記』にも見られる。一方でダニエル書やヨハネ黙示録などは入らない。「エノク派ユダヤ教」は前4~3世紀におけるユダヤ祭司制の分裂に起因するからである。この分裂はクムラン共同体とエッセネ派の主流派を分け、前者は後者を無視したのだった。フィロンとヨセフスはこのうち主流派について語り、プリニウスはクムランのグループについて語った。Boccacciniが言うように、エッセネ派とクムラン共同体を同一視することができないこと、またエノク派ユダヤ教とヤハドには重大な思想的つながりがあることは正しいが、論文著者によれば、すべての議論を受け入れることはできない。

論文著者の見解では、『共同体の規則』はクムラン共同体だけの規則ではなく、エッセネ派全体のためのものである。ヤハドは単一の共同体ではなくさまざまな共同体に住む人々の連合である。「完全な聖性の人々」の住むクムランはヤハドのうちでもエリートの住むところであった。クムランでは他の定住地と同じ律法と規則が遵守されていたが、より高次の完全さが求められたのである。『共同体の規則』がクムランの規則で、『ダマスコ文書』が非クムランのエッセネ派の規則、といったような区別はなく、どちらも諸共同体のネットワークを前提としていた。ここから、クムランと前クムランや、クムランと非クムランを区別することはあまり意味がないことが分かる。1QS 8にある一節を除いてクムランのみを前提とするような記述はない。

論文著者は、共同体生活の規則を含まない『ヨベル書』のようなエノク派文学に「エッセネ派」というラベルを用いるのは適当ではないと主張する。というのも、『ダマスコ文書』や『共同体の規則』のような規則文書をエッセネ派に結びつける基礎として、ひとつの場所に限られないという特徴がある。エッセネ派運動はひとつ以上の生活スタイルを許容するのである。

エノク派文学も死海文書(『ダマスコ文書』)も、マカベア戦争前夜にある特定のグループができたことを描いている。エノク派文学に見られる黙示的世界観、天使と悪魔の戦い、裁き、性的な関係の存在しない天使的世界ゆえの結婚の否定などといった諸特徴は、死海文書にも見られる。Boccacciniによると、クムランとより大きなエッセネ派運動との違いは、天使や人間の自由意志の否定であるというが、論文著者はそうした黙示的な世界観はダニエル書にも共通することから、両者の違いの決定的なポイントではないと考える。それよりも重大な違いは、カレンダーと律法の問題である。

エノク派文学もクムラン党派的文書も(ダニエル書と異なり)1年を364日とする太陽暦を採用しており、このことは神殿への批判的態度を意味する。この点で両者にはつながりがあるように思えるが、律法への態度が異なる。『ダマスコ文書』も『共同体の規則』もモーセのトーラーをきわめて重視するのに対し、エノク派文学ではモーセではなくエノクガ啓示を伝える者として描かれる。「動物の黙示録」が聖書物語のパラフレーズであることから、エノク派がトーラーを知らないわけではないが、中心的な位置を占めることはない。Boccacciniは『ヨベル書』を引き合いに出すが、同書をエノク派文学に入れることができるかは疑問である。

エノク派ユダヤ教と、死海文書に示される党派的運動とに密接な関係があることは疑いない。しかしながら、エノク派ユダヤ教と『ダマスコ文書』の共同体を単純に同一視することはできないし、エノク派ユダヤ教をエッセネ派と同一視することもできない。しばしば第二神殿時代のユダヤ教をツァドク派対エノク派などの二項対立に落とし込む傾向があるが、歴史的現実は常に、我々が求めるよりもきちんとしてはいない。

関連記事

2019年9月25日水曜日

予備教育としてのハガル Bos, "Hagar and the Enkyklios Paideia"

  • Abraham P. Bos, "Hagar and the Enkyklios Paideia in Philo of Alexandria," in Abraham, the Nations, and the Hagarites: Jewish, Christian, and Islamic Perspectives on Kinship with Abraham, ed. Martin Goodman, George H. van Kooten, and J.T.A.G.M. van Ruiten (Themes in Biblical Narrative 13; Leiden: Brill, 2010), 163-75.


『予備教育』は創世記のサラとハガルの物語に関する解釈書である。創世記では、アブラハムの妻サラは子供ができなかったために、ハガルを側室とするようにアブラハムに提案した。これは一見不適切な物語のように見えるが、これをフィロンは逆転の発想で、至高の知恵でもあり神的な取り決めであったと解釈した。

知恵と教養諸学を区別するというフィロンのテーマは他のモチーフと関係を持っている。第一に、アブラハムの移住の解釈である。フィロンはこれを可感的な物質性の世界から神的イデアの非物質的実在性への魂の上昇と捉えた。とりわけアブラハムがアルデア人の地から出ることは、彼がコズミックな神々への礼拝からメタコズミックな超越的な唯一神への崇拝に至るブレイクスルーを与えた。つまり、カルデア人とアブラハムやイスラエルとには、フィジックとメタフィジック、コズミックな神学とメタコズミックな神学という対比がなされている(『世界の創造』冒頭など)。フィロンは、アブラハムと共にカナンの地に行かなかったナホルのことを天文学に囚われたままの人物として描いている。

第二に、名前の変化のモチーフも重要である。「アブラム」と「サライ」は最初、目に見える世界にとらわれていたが、予備教育を学ぶことですべての物事の原因やロゴスのアイデアに気づくことができた。そうした観点の変化と魂の方向転換を経て初めて彼らの名前は「アブラハム」と「サラ」に変わったのである。

こうした解釈は当然聖書そのものからは得られない。フィロン以前からユダヤ人は聖書を寓意的に解釈することはあったが、フィロンのような「哲学的な」寓意はなかった(H. Wolfson)。彼はこれをギリシアの文学伝統から取り入れたのである。前6世紀のランプサコスのメトロドロス以来、この方法はホメロスやヘシオドスのような古典をアップデートする方法として好まれた。

予備的なものとしての教養諸学からより高度な知識へ、というテーマも疑いなくギリシアから来ている。これは数学と論理学を区別したプラトン以降の考え方である。しかし、フィロンは原理を可感的な現実に向けるというより後代の予備的科学を用いている。プラトンにとって可感的世界は科学の対象ではなかった。フィロンのような用い方はストア派にも見られるが、その淵源はアリストテレス『形而上学』である。アリストテレスは哲学を真に自由な科学とし、その他の学問をそれに仕えるものと見なした。

ハガルに代表される予備的科学の学びには、哲学に対して従属的なヒエラルキーがあるものの、決してそれは「奴隷的」な行為ではない。とはいえそれは可視的・物質的世界につながれたままでもある。『巨人』60において、フィロンは人を地上的・星的・神的なものに分けている。地上的人間は快楽を求める者、星的な人間は教養諸学の習得に身をささげる者、そして神的な人間は可視的世界を超越する祭司や預言者である。

教養諸学のギリシア語であるエンキュクリオス・パイデイアについて、De Rijkはそれがピタゴラス主義者の音楽的理想に由来し、歌や合唱を子供たちに指導する習慣と関係していることを明らかにした。他の研究者もさまざまに議論をしているが、みなに共通するのは、エンキュクリオス・パイデイアの概念がストア派の時代を遡らないという認識である。それゆえに、概念の創始をストア派に記する者すらいるが、論文著者はこれを否定する。著者によれば、フィロンの知恵概念などには非ストア派的認識論が見られる。すべてを支配する神と、より低次のロゴスあるいは神の力というグノーシス的区別の最初は、フィロンに帰されるという。

そして、論文著者は以上のような考え方はアリストテレスと完全に合致すると主張する。彼は人間が議論できる現実世界と、それを超える超越的な知識を区別した。魂の関与できる領域と知性の領域を分けているのである。他にもフィロンはアリストテレス同様にホメロスを賞賛し、モナルキア主義を共有している。フィロンは、アリストテレスの失われた対話編から「エンキュクリオス・パイデイア」の概念を借用したに違いない。

2019年9月23日月曜日

『エノク書』のキリスト教への導入 Knibb, "Christian Adoption and Transmission of Jewish Pseudepigrapha"

  • Michael A. Knibb, "Christian Adoption and Transmission of Jewish Pseudepigrapha: The Case of 1 Enoch," in id., Essays on the Book of Enoch and Other Early Jewish Texts and Traditions (Studia in Veteris Testamenti Pseudepigrapha 22; Leiden: Brill, 2009), 56-76.

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ユダヤ教の外典・偽典に関するわれわれの知識は、多くの部分をキリスト者による採用と保存に依拠している。ある文書のユダヤ教性とキリスト教性の間にはさまざまな段階がある。ユダヤ教テクストの間にキリスト教的語彙が入ってくるものとしては『第四エズラ記』や『第四バルク書』、ユダヤ伝承を多く用いたキリスト教文書としては『十二族長の遺訓』、旧約聖書の材料を使いつつキリスト教的暗示を加えないキリスト教文書としては『アダムとイヴの生涯』や『預言者伝』がある。いずれも、ユダヤ教文書ともキリスト教文書とも決めがたい。そもそもキリスト教的改変がまったくない文書でも、キリスト教的コンテクストで読まれてしまう場合がある(旧約聖書がそうであったように)。分類の方法論については、Robert KraftやMarinus de Jongeらの研究に詳しい。

この点、『エノク書』もまた明らかにユダヤ教起源でありながら、キリスト教徒によって伝達されたテクストである。論文著者は『エノク書』のテクスト、文書形式、エチオピアの文脈での解釈などについて論じている。

①テクスト。『エノク書』のアラム語テクストには、「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」を含む7写本と、「天文の書」を含む4写本がある。Josef Milikはこれらをギリシア語訳やエチオピア語訳に基づいて再構成したが、仮説的なものにとどまる。

ギリシア語訳もユダヤ人の手になるものである。断片がクムラン第7洞窟で見つかっているが、小さすぎて何のテクストかを同定するのは困難である。ギリシア語訳は、クムラン以外では、ギゼ写本(6世紀)とチェスター・ビーティ=ミシガン・パピルス(4世紀から)から多く見つかっている。いずれの写本にも別のキリスト教文書が一緒に保存されていることから、『エノク書』がキリスト教徒の間でよく読まれていたことが分かる。他には、シュンケッロス『年代記』中の引用は比較的よいテクストを保存している。

ギリシア語訳の重訳であるエチオピア語訳は唯一全体を残すものであるが、これはもともと5~6世紀に聖書全体のエチオピア語訳の一環として作成された。テクストは、より古いグループ(15世紀の写本が残る)とより新しいグループに分かれる。

これらのうちどのテクストがよいのか。アラム語テクストは断片的である。ギリシア語訳は主要部分を含まず、コンディションもよくない。エチオピア語訳はキリスト教的要素を含み、写本も15世紀より前には遡れない。そこから、なるべくアラム語テクストに依拠しつつ、他の諸訳も最上の証言を混ぜて用いるべきと論文著者は述べる。

②文書形式。Josef Milikによると、クムランのアラム語『エノク書』は写本の長さの関係で2巻(「寝ずの番人の書」「巨人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」を含む部分と「天文の書」のみを含む部分)に分かれていたが、実際にはエチオピア語訳のような五部構造を持っていたと主張した。Milikはさらに4Q204の状況から、「巨人の書」は独立してではなく他の3巻と一緒に読まれていたと主張したが、Stuckenbruckはこの議論は疑わしいと反論する。

またクムランからは「たとえの書」が出てきていないため、同書が他の書物と同様にアラム語で書かれていたのか、それともこれだけはヘブライ語で書かれていたのかも分からない。では、現在のエチオピア語訳のように、「巨人の書」の代わりに「たとえの書」入りの五部構造のギリシア語訳成立はいつからなのだろうか。Milikによれば、おそらく4世紀になって「巨人の書」があまりにマニ教徒に人気だったために取り去られ、6世紀になって代わりに「たとえの書」が入り、それがエチオピア語訳されたという。Milikは「たとえの書」はキリスト教文書であったと主張したが、これはほとんど受け入れられていない。

George Nickelsburgはより詳細な議論を基に、「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」を含む形態の写本がクムランには前1世紀にはあったと主張した。この見解は概ね受け入れられるが、論文著者は以下のように批判する。第一に、Nickelsburgは「巨人の書」がもともとも含まれていたのかそれともあとから取り去られたのかを説明していない。第二に、「天文の書」と「たとえの書」があとからどのようにコーパスの中に入ったのかを説明していない。またNickelsburgは、「たとえの書」が部分的に「寝ずの番人の書」における伝承の発展を代表していると主張したが、これは「たとえの書」が「寝ずの番人の書」のすぐ後ろにあることから妥当性が高い。

こうした研究史を受けてさらに指摘できるのは、第一に、アラム語テクスト、ギリシア語訳、エチオピア語訳は比較的似た本文を持っているが、ことに「天文の書」に関してはアラム語テクストとエチオピア語訳はかなり異なっている。そして第二に、エチオピア語訳にはかなりのキリスト教的な要素が入っている可能性があるが、それらはユダヤ教の文脈でも読めないわけではないので、そういった要素に関係なく一度キリスト教徒の手に渡ったら、キリスト教的に読まれたのであろう。

③エチオピア教会の文脈での解釈。『エノク書』はエチオピア教会では正典として読まれていた。エチオピア語訳の写本は15世紀をさかのぼらない。ちょうどその頃に、『エノク書』(特に「たとえの書」)からの引用を多数含んでいる説教集『マシャファ・ミラド(聖誕の書)』が作成された。引用はとりわけキリスト論的な解釈のもとでなされている。

2019年9月17日火曜日

『エノク書』の写本状況 Knibb, "The Book of Enoch or Books of Enoch?"

  • Michael A. Knibb, "The Book of Enoch or Books of Enoch? The Textual Evidence for 1 Enoch," in id., Essays on the Book of Enoch and Other Early Jewish Texts and Traditions (Studia in Veteris Testamenti Pseudepigrapha 22; Leiden: Brill, 2009), 36-55.

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『エノク書』の全体はエチオピア語訳のみで残り、部分的にはギリシア語訳でも残っているが、一方でオリジナルのアラム語テクストはクムランで発見されている。しかしながら、エチオピア語訳やギリシア語訳を単なるアラム語の翻訳として説明することはできない。

たとえば、『エノク書』8:3について、アラム語テクスト(4Q201, 4Q202)、シュンケッロス『年代記』中に引用されたギリシア語訳、そしてエチオピア語訳としばしば一致するアクミーム写本中のギリシア語訳を比べると、アラム語テクストとシュンケッロスのギリシア語訳が比較的近い長いテクストを示すのに対し、アクミーム写本およびエチオピア語訳はより短いテクストを示す。これは単に翻訳段階や筆者段階での自然な改変ではなく、少なくとも部分的には編集的な干渉があったと考えるべきである。同様の例はたくさんある。Eibert TigchelaarやFlorentino Garcia Martinezらは、「エチオピア語訳はアラム語テクストと異なっているが、関係している。ギリシア語訳者はアラム語訳をリフレーズし、リアレンジしたのだ」と述べている。

ギリシア語訳やエチオピア語訳は単にオリジナルのアラム語テクストの翻訳とは見なすことはできない。エチオピア語訳は、しかしながら、最も発展した形態を代表している。さまざまなテクストをゆるやかに統括するような文学的構造を持っているからである。エチオピア語訳は、テクストがアラム語からギリシア語に訳されたとき、さらにはギリシア語からエチオピア語に訳されたときの変化、またテクストが筆写されたときの変化、そしてそれだけにとどまらず、編集上の干渉が残されていることになる。これは、ギリシア語やエチオピア語に訳された『エノク書』がアラム語と完全に異なるということを必ずしも意味しない。ただ異なった文学的・歴史的文脈にあるということである。

論文著者は、『エノク書』の発展段階に関して次のように箇条書きにしている。第一に、最も古い証言は前1世紀の4Q204であり、「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」を含んでいる。

第二に、Josef Milikによれば、4Q204は「巨人の書」も含んでいた。そしてこのアラム語テクストの時点で2巻に分かれる『エノク書』の五部構造が存在したという。すなわち、第1巻に「天文の書」(同書は常に個別の文書として扱われている、例4Q208, 209, 210, 211)、そして第2巻に「寝ずの番人の書」「巨人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」である。ただし、論文著者はこの説には懐疑的である。

第三に、「たとえの書」がアラム語で書かれたのかヘブライ語で書かれたのかは判然としない(なぜなら「たとえの書」のみはクムランから出てきていないから)。

第四に、ギリシア語訳されたときの状況についてはまったく分からない。現存するギリシア語訳は「寝ずの番人の書」と「エノク書簡」の一部分のみである。James Barrによれば、『エノク書』のギリシア語訳はダニエル書の七十人訳と同じ段階や同じ層に属しているという。

第五に、アラム語の段階で五部構造があったかどうかはともかく、ギリシア語訳の段階でそうした構造があったことは確実である。最も新しい「たとえの書」が後1世紀の成立なので、五部構造もそのときに完成したことになる。

第六に、もともと『エノク書』のエチオピア語訳は聖書全体のエチオピア語訳の一環としてなされたものである。これはおそらく5~6世紀のことと考えられる。

アラム語。クムランで見つかった11あるアラム語断片には2つのグループがある。第一に、「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」のどれかまたはすべてを含む断片(4Q201, 202, 204, 205, 206, 207, 212)と、第二に、「天文の書」のみを含む断片(4Q208, 209, 210, 211)である。

アラム語断片が、限定的でありながらも重要な理由は3つある。第一に、キリスト教以前のユダヤ教のエノク文書の証拠をもたらしてくれること。第二に、古文書学や書誌学的な分析が最初期のエノク文書の文学的起源を教えてくれること。第三に、テクストの発展を示すような異読や異なるつづりを保存していること、である。Milikによれば、アラム語断片は、「寝ずの番人の書」の50%、「天文の書」の30%、「夢幻の書」の26%、「エノク書簡」の18%を保存しているという。

ギリシア語訳。ギリシア語訳には、アクミーム写本、シュンケッロス『年代記』の抜粋、チェスター・ビーティ=ミシガン・パピルス、ヴァティカン写本の断片、そして基督教文書中の無数の引用などがある。これらを全部足すと、全体の約3分の1ほどの分量となる。

「寝ずの番人の書」はアクミーム写本とシュンケッロスが、「天文の書」はオクシュリンコス・パピルス2069が、「夢幻の書」はヴァティカン写本とオク・パピ2069が、「エノク書簡」はチェスター・ビーティ=ミシガン・パピルスとクムラン第7洞窟のパピルスが保存しているとされる。7Q4, 8, 11-14については、これを「エノク書簡」と同定するのは可能な部分と、難しい部分がある。ただし、これが本当であれば、「エノク書簡」のギリシア語訳がユダヤ側にもあったことの証拠になる可能性がある。

写本の分析から分かるのは、「寝ずの番人の書」「天文の書」「夢幻の書」「エノク書簡」のギリシア語訳の存在は確かであること、そして「寝ずの番人の書」と「エノク書簡」はしばしば独立した文書として読まれていたこと、そしてエチオピア語訳と比すべき分量の五部構造を持った『エノク書』がギリシア語訳で存在していたことである。

さらに、アラム語テクストとの比較から分かることとして、シュンケッロスの抜粋の方がアクミーム写本よりもよいテクストを保存していることが挙げられる。アクミーム写本には編集の手が加えられている。ここからギリシア語テクストには2つの伝承があったと考えられる。第一に、シュンケッロスが依拠した、アラム語テクストと近い伝承。第二に、アクミーム写本とエチオピア語訳に反映している編集の手が加えられた伝承、である。ちなみに、ラテン語訳、コプト語訳、シリア語訳も存在するが、二次的な重要度しかない。

エチオピア語訳。エチオピア語訳は唯一全体を含む最も発展したテクストであるが、比較的最近の写本しか残っていない。50ある写本は古いグループと新しいグループに分けられる。最古の写本はLake Tana 9で15世紀のものである。

『エノク書』のエチオピア語訳は聖書のエチオピア語訳の一環として作成された。聖書のエチオピア語訳には3つのグループがある。第一に、13世紀にさかのぼる古エチオピア語訳の伝承、第二に、15-16世紀の大衆的改訂、そして第三に、17世紀以降の学問的改訂である。古エチオピア語の伝承以前に書かれたエチオピア語のキリスト教文書中に含まれる引用も参照可能だが、さほど大きな発見はなかったようである。

本論分における著者の狙いは、『エノク書』に関して、アラム語、ギリシア語訳、エチオピア語訳を単純に同一視することはできないこと、そしてそれらが異なる発展の段階を代表していることを示すことだった。そういう意味で、アラム語の段階においては、『エノク書』という題名をつけることすら疑問視されるべきかもしれない。

2019年9月16日月曜日

『エノク書』の研究状況 Knibb, "The Ethiopic Book of Enoch in Recent Research"

  • Michael A. Knibb, "The Ethiopic Book of Enoch in Recent Research," in id., Essays on the Book of Enoch and Other Early Jewish Texts and Traditions (Studia in Veteris Testamenti Pseudepigrapha 22; Leiden: Brill, 2009), 17-35.
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『第一エノク書』はユダヤ教の発展に関する情報を提供してくれることと、黙示文学の最上の例であることから重要なテクストである。現在では5~6世紀に作成されたエチオピア語訳でのみ全体が残るが、もともとは前3世紀終わりにアラム語で書かれた。エチオピア語訳は、次の五部から構成される:

  1. 「寝ずの番人の書」(前3世紀後半)
  2. 「たとえの書」(前1世紀後半)
  3. 「天文の書」(前3世紀後半)
  4. 「夢幻の書」(前165年すぐあと)
  5. 「エノク書簡」(前2世紀前半)

「たとえの書」は「人の子」という表現を含むので新約聖書学者の興味を引いたが、アラム語断片はそれを含まず、代わりに「巨人の書」を含む。

アラム語断片は11もの写本から成るため、クムランでの『エノク書』の権威のほどが知られるが、党派的文書ではなく、クムラン意外でも広く読まれていた。その証拠に、『ヨベル書』4:16-25には『エノク書』への言及がある。アラム語の『エノク書』はディアスポラのユダヤ人のためにギリシア語訳されたが、その状況は不明である。「寝ずの番人の書」と「エノク書簡」のギリシア語訳は前2世紀頃に作成されたと考える研究者もいる(J. Barr)。第七洞窟から発見されたギリシア語断片(7Q4, 7Q8, 7Q11-14)は「エノク書簡」と見なされている。「たとえの書」と「天文の書」が「寝ずの番人の書」と「夢幻の書」の間に挿入されたのは、ギリシア語訳された段階でのことと考えられる。

『エノク書』のギリシア語訳はキリスト教徒の間でよく読まれた。「寝ずの番人の書」については、アクミーム写本(6世紀)と、シュンケッルス『年代記』の抜粋(9世紀)が、「エノク書簡」については、チェスター・ビーティ=ミシガン・パピルス(4世紀)が重要な証言である。これらの書以外のギリシア語訳はほとんどない。

『エノク書』は次第に東西教会での重要性を失ったが、エチオピア正教会では例外的に権威を認められていた。エチオピア語訳はギリシア語訳からの重訳である。「たとえの書」はイエスに言及していると解釈された。『エノク書』に関するわれわれの知識はこのエチオピア語訳に負うところ大であるが、最古の写本でも15世紀のものである。。

近代になると、まずJoseph Scaliger(1606)やJohann Fabricius(1713)らによってギリシア語訳が注目され、次いでNicholas PeirescやJames Bruce(1773)らによってエチオピア語訳が紹介された。エチオピア語訳の英訳と校訂本はRichard Laurenceが出版した(1821, 1838)。ドイツ語訳と校訂本はAugust Dillmanの手による(1851, 1853)。1886/7年のアクミーム写本の発見は研究を進展させた。このあとさらに英語圏ではRobert H. Charlesが英訳と校訂本を出版した(1893, 1906)。これはのちのThe Apocrypha and Pseudepigrapha of the Old Testament in English (1931)に結実する。

クムランで1952年に発見されたアラム語断片は、Josef Milikによって1976年に出版された。このThe Books of Enochは非常に強い影響力を持ったが、「たとえの書」をキリスト教徒の手になるものと主張するなど、批判されるべき点も多く含む。このアラム語断片の研究成果を受けて、Michael Knibbは新たなエチオピア語訳校訂本を出版した(1978)。Milikが除外していた「天文の書」のアラム語断片は、DJD 36に収録された(2000)。『エノク書』の包括的な注解書は、George Nickelsburgによって2001年に発表された(Hermeneiaシリーズ)。

前3世紀後半に書かれた「寝ずの番人の書」はユダヤ史上最古の黙示文学である。これは正典に含まれるダニエル書よりも古い。黙示文学のルーツはヘブライ語聖書の預言文学(エゼキエル書やゼカリア書)であるとされる。ただし、エノク自身はあくまで「見る者」であって、預言者としては描かれない。

『エノク書』はさらに、ヨブ記や箴言などの知恵文学と比較されることもある。とはいえ、『ソロモンの知恵』を除いて、知恵文学は終末論的な議論を含まないことにも注意が払われるべきである。『シラ書』との比較は興味深い。というのも、Benjamin Wrightによれば、「寝ずの番人の書」を書いたサークルと『シラ書』を書いたサークルには緊張関係(敵対関係まではいかない)があるというのである。クムランの知恵文学(4QMysteriesと4QInstruction)との比較もなされてきた。どちらも黙示的な文学ではないが、知恵に対するエノク的伝統との関係性を有している。エノクは「秘儀」である特別な啓示の受け取り手として描かれている。そして彼はそれをノアへと伝えるのである。こうした意味で、『エノク書』は「明らかにされた知恵(revealed wisdom)」であるといえる。

『エノク書』をより広い第二神殿地代のユダヤ教の枠組みで捉えようとした研究としては、Gabriele Boccacciniのものがある(Roots of Rabbinic Judaism, 2002)。Boccacciniは前6世紀から前2世紀のユダヤ教を、神殿体制を代表する「ツァドク派ユダヤ教(Zadokite Judaism)」と、もともとは祭司だったが派閥闘争に負けた「エノク派ユダヤ教(Enochic Judaism)」の対立として説明する。これにさらに「知恵的ユダヤ教(sapiential Judaism)」もあったが、これとエノク派ユダヤ教との対立はすぐに中立化した。またツァドク派ユダヤ教とエノク派ユダヤ教の中間に位置したダニエル書は、プロト・ラビ的テクストと呼べるという。

ツァドク派ユダヤ教は、エゼ40-48章、ネヘミヤ記、エズラ記、五書の祭司資料、歴代誌に現れ、知恵的ユダヤ教はアヒカル(『トビト記』)、箴言、ヨブ記、ヨナ書、コヘレト書に現れ、そしてエノク派ユダヤ教は「寝ずの番人の書」、アラム語レビ資料、「天文の書」、「動物の黙示録」などに現れる。

ツァドク派は、Boccacciniによるとエリート層の祭司で、エゼ40-48章で示される改革をユダの共同体に適用しようとした。それにより、大祭司の独占的な権利が保証される。エノク派は、捕囚後に権力を失い、のちにエッセネ派となった祭司たちである。彼らは「寝ずの番人」、すなわち天使たちが天から落ちてきたという信仰を持っている。「寝ずの番人の書」には2つの墜落伝承が残されている。第一に、シェミハザに関わるものは、創世記の記述に従い、人間の女性への欲望に負けてこれと交わり、巨人を生んだ物語である。第二に、アザエルに関わるものは、プロメテウス伝承のように、人間にさまざまな知恵を授けるために落ちてきたという物語である。いずれも、この世になぜ罪が存在するかを説明するための物語である。

Boccacciniは、このように、第二神殿時代のユダヤ教にさまざまなシャープな対立を描いてみせるが、論文著者は、実際のユダヤ教はもっと複雑だったに違いないと主張する。

2019年9月12日木曜日

聖書翻訳の中のラビ伝承 Kraus, "Rabbinic Traditions in Jerome's Translation"

  • Matthew Kraus, "Rabbinic Traditions in Jerome's Translation of the Book of Numbers," Journal of Biblical Literature 136.3 (2017): 539-63.

ヒエロニュムスはラビ文献を直接読んだわけではないが、タルグムやミドラッシュやタルムードに保存された口頭伝承へのアクセスを持っていた。かつてはラビ伝承のためにウルガータを研究することは、場当たり的で方法論を欠いていた。単純にミドラッシュ的な自由な敷衍訳をしてあるところには直接的なラビ的影響があると考えるという姿勢だった。しかし、それはヒエロニュムスの翻訳底本である聖書のVorlageの違いかもしれない。こうした研究はウルガータを聖書注解としてよりもヘブライ語の解釈として読もうとしている。そこでは、翻訳者を文化のメディエーターとして見るという視点がない。この論文は、ヒエロニュムスがユダヤ的な知識や情報提供者を用いつつ、聖書翻訳を通じて聖書解釈をしていたという可能性を追求する。聖書注解にラビ伝承を入れ込んだように、聖書翻訳にもそうしていたのではないか。

こうした観点からの研究には、C.T.R. Hayward, Friedrich Avemarie, Sebastian Weigertらのものがある。Adam Kamesarによると、『創世記のヘブライ語研究』はすぐのちに始まった聖書翻訳のための新しい文献学的システムを防御するために書かれたものだというが、Haywardは、同書中の創世記の訳文とウルガータ創世記の訳文にはかなりの相違があるため、『研究』で取り入れたラビ伝承をウルガータでは避けたと主張する。しかし、論文著者はウルガータの中にさまざまなラビ伝承があることを示してみせる。さらに、そもそも『研究』とウルガータの訳文が異なるのは、前者が注解という性質上さまざまな可能性を残せるのに対し、後者は翻訳としてひとつの訳文を選択しなければならなかったからである。いわば、ヒエロニュムスの基本路線であるrecentiores-rabbinic philologyは彼の聖書翻訳をも導いていたといえる。

ヒエロニュムスが注解を書いていない聖書文書の翻訳から、どのようにラビ伝承を確実に抽出すべきか。論文著者は、まずそれが普通でない翻訳であることを確定し、それとギリシア語訳のテクスト伝承との関係を定義し、比較可能なラビ伝承を探し、そしてヒエロニュムスの他の著作から彼がその伝承を知っていたかを確認する、という手順を提案する。

具体例を挙げる段階では、たとえば専門用語に注目したり、ラビの聖書解釈テクニック(たとえば聖書のひとつの単語を2つの単語で言い換えたりすること)と同じものを探したり、古代末期の文脈でのラビの聖書解釈を見つけたりしている。中でも興味深いのは、民数記24:24において「キッティーム」を「ローマ人」と同一視する解釈は、死海文書の『ハバクク書ペシェル』にも見られるものである。『ダニエル書注解』11:30-31でも同様の解釈をしている。もうひとつ興味深いのは、民数記10:5-7におけるラッパの音の違いを訳し分けており、それが『ミシュナー』「ローシュ・ハシャナー」4.9や『ピルケー・デ・ラビ・エリエゼル』32でのラッパの音の違いに関する説明にも見られる点である。おそらくヒエロニュムスは実際にショファールを見たことがあったに違いない(ただしそれがローシュ・ハシャナーと結びついていることまでは知らなかったようである)。

Megan Hale Williamsは、ヒエロニュムスが自分の翻訳にラビ的影響があることを公言するのは、自己構築の現れであると主張した。ヒエロニュムスがユダヤ学習やユダヤ人を描いてみせたり否定してみせたりするのは、修道者として自らを作り上げるプロセスにおける肉付けだというのである。さらにWilliamsは、ヒエロニュムス自身が説明するユダヤ人やユダヤ学習との交流を研究することと、実際の交流関係を研究することとは異なるという、方法論的に重要な指摘もしている。そしてそれゆえに、ヒエロニュムスのユダヤ学習の展開は、ユダヤ教とキリスト教の間に橋ではなく壁を作ったと主張するが、論文著者はこれに反論する。なぜなら彼の翻訳の方法論は境界を越えることを要求するものであるため、これはまさに壁ではなく橋をかけているといえるからである。

George Steinerによると、翻訳プロセスの四段階は、信頼trust、攻撃aggression、結合incorporation、互恵reciprocityであるが、ヒエロニュムスが「攻撃」に留まったままだったのに対し、オリゲネスは「互恵」の段階に達していたと考えられる。

ウルガータ中のラビ伝承は次のように同定される。ヘブライ語とラテン語の普通でない不一致があること。ラビ文学の中にユニークで比較可能な伝承があること。ウルガータの外部の資料(注解など)にラビ伝承の知識について言及があること。基本的には文献学的な翻訳であるが、ときにラビ的な解釈が適用されることがあるという点では、タルグム・オンケロスとの類似が指摘できる。ただし、さまざまな影響を含んでいるので、Adam Kamesarによる「改訂者的・ラビ的文献学(recentionres-rabbinic philology)」という表現の方がより適切である。またヒエロニュムスの実際の翻訳へのユダヤ的影響と、自己構築のためのユダヤ的影響への言及を区別するというWilliamsの主張も再考が求められる。